第一章 日常

 時計の針を、まだ私達がまともな世界にいたときまで戻そう。


 その日は十月にしては暑い日だったがそれ以外は特に何ということもない、至って平凡な日だった。

 私はいつものようにほこらの運転する車で学校へと向かい、いつものように授業を受け、部活が終わって下校する時間になるといつものように校門で友達と別れ、そこから一区画歩いたところでいつものように待っている祠の車のもとへ向かった。


「お疲れ様です」

 祠はこれまたいつものように、車から降りて直立の姿勢で私がやって来るのを待っていて、私を見るなり深々とお辞儀をする。それから車の後部ドアを開けて私を促した。

「ご苦労様」と言いながら私は座席に着き、そのままべたりと倒れ込む。「疲れたー」

「駄目ですよ、お嬢様」と祠は運転席に向かいながら言った。「ちゃんと座ってシートベルトです。ルールはきちんと守っていただきませんと」

「わかってるよー。でもちょっと休ませて。三分」

「構いませんが、きっちり三分後には出しますからね」

「あい」


 漫画などに登場する典型的なお嬢様キャラは、校門の目の前に高級車を止めて皆の視線が集まる中そこから颯爽と登場し、帰るときには同じように皆の視線を一身に受けながら同じ高級車に乗り込んで去っていく。

 しかし私には登下校のたびにそれだけの注目を浴びるような度胸というか、自尊心というか、余裕というか――とにかくそういったものはない。だから祠にはいつも、校門から一区画ぶん離れたところに車を止めてもらうのだ。


 車内は適度に空調が効いていて心地良かった。

 その日の天候と、私が部活終わりであるかどうかによって、祠はきちんとそのへんを調節してくれる。おかげで二分と三十秒ほどが過ぎる頃にはだいぶ復活してきた。私は体を起こしてシートベルトを締める。

「用意できましたよー」

「わかりました。では出発します」

 そう言って祠は車を出す。家までは二十分程度だ。


「――ねえ、祠」と私は少ししてからバックミラー越しに祠を見て言った。「もしかして昨日も徹夜した?」

「え、あれ?」と祠はちょっと間の抜けた声を上げる。「もしかして目の下に隈とか見えてますか? おかしいな、ちゃんとお化粧してきたんですけど」

「いや隈は見えない。今朝も見えなかった。でも祠、ときどき迎えに来るときの様子が行きのときと全然違うのよ。明らかにパワーが落ちてる」


 もう長い付き合いだが、これがわかるようになったのは最近のことだ。私の観察眼が鋭くなったのか、それとも祠がだんだん徹夜を乗り越えられない歳になってきたのか、どちらのせいなのかは定かではない。


「参りました」と祠は苦笑いを浮かべた。「そんなにバレバレなのでは、今後は控えておかなくてはいけませんね。使用人として示しがつきません」

「したんだ、徹夜」

「正確には一時間半ほどは寝ましたけど」

「またエロいゲームか何か?」

「いえ、溜まっていたアニメを消化しておりました。近頃は作品数も多くて、チェックするのも一苦労で」

「何だか仕事みたいに聞こえる……そういうのよくわからないけど、絞れないものなの?」

「無理ですね」と祠はきっぱりと言った。「これは業のようなものです。私のような人種の」

「はあ――まあ、とにかく運転には気をつけてね。アニメに殺されたくないから」私は冗談めかして言い、それからふと思い出して付け加える。「そういえば、姉さんが運転免許を取ったって話、聞いた?」

「はい、聞きました。これも社会勉強の一環とのことで、十八のうちに取りたかったと」

「正直な話、姉さんの運転する車に乗る度胸、ある?」

 祠は黙って少し考える。やがてその沈黙そのものがある種の無礼にあたることに気づいたのか、慌てて誰にともなく首を振った。

「いえいえ、乗れますよ、平気です。冠奈お嬢様なら慎重に運転なさるでしょうし」

「勇者だね。私はぶっちゃけ無理。私を乗せるなら最低二年くらいは経験積んで貰いたいところだな」


 ――そんなとりとめのない話をしているうちに、車は自宅へと到着する。

 敷地内のガレージに車を止めると、私と祠は一緒に玄関へと向かう。

 辿り着く直前に祠はサッと私の前に出て素早く鍵を開け、ドアを開いて私を通す。私が中に入ると、自分も急いで後に続き、私に先回りして私の足下に内履きを差し出す。彼女はとても機敏だ。

「ただいま帰りました」と私は誰にともなく大きな声で言う。それが我が家の決まりの一つになっている。


 それから私は学校指定のローファーを脱ぎ、ついでに靴下も脱いで内履きをつっかけた。

「お嬢様」と祠がすかさず窘めてくる。「そういうのはせめてご自分のお部屋に入ってからになさって下さい。高校に入られてから、少したるんでいますよ」

「夏に三回くらい聞いたよ。聞き飽きた」

「夏のうちは諦めましたが、もう秋なんですから、だらしない格好は控えてください。制服は学生の正装ですよ」


 少なくとも我が家においては、自室以外は往来と同じ扱いである。自室から出るときにはそれなりの格好をしろというのが親の――特にお母様の言い分だ。しかしここで生まれ育った私に言わせれば、開放感は玄関に入ったタイミングでやって来る。少しくらい緩んでも構わないではないか。

「一度うずまきの担当になったら? 価値観変わるよきっと」と私は言った。「あの子、このあいだお客様が来てるときにネグリジェで客間のすぐ近いところを歩いてたらしいじゃない。さすがに凄いと思ったわ。たまに違う場所に出現したかと思ったらそれかと」

「だから雨傘が苦労しているんです」と渋い顔で祠は言った。「羽子お嬢様のぶんまで叱られるのは彼女なんですから。私だってお嬢様が叱られるときは、雷を半分こしなければならないんですよ?」

「わかってるよ。大丈夫大丈夫――それじゃあね」

 私は祠に靴下を手渡すと、彼女に背を向けて自室へと向かった。

「あ、おやつは何になさいますか?」

「任せる」背中を向けたまま私は答える。

 祠のやれやれという顔が浮かんできたのは私の想像力か。それとも透視能力か。


 ◆


 学校帰りに一目散にベッドに倒れ込むのは、私の高雅な趣味の一つである。

 頭から飛び込んで、それから仰向けになって天井を見上げ、横の窓から空を見る。そうしているとだんだん自分の体が溶けて空気と一体化したような感覚に陥る。単なる眠気とも気怠さとも違う、この独特の感じが私にはたまらなく効くのである。

 この時間のために学校へ行っているようなものだ――というのはもちろん冗談だが。


 しばらくそうしていると、ドアをノックする音が聞こえた。

「どうぞ」

 私が言うと、祠が紅茶とケーキを持って入ってきた。紅茶とケーキ。任せた末の定番中の定番である。

「ありがとう、そこに置いといてー」と私は溶けたまま言う。

「夕食までにはちゃんとして下さいよ」とテーブルに紅茶のカップを置きながら祠は言った。「旦那様と奥様のお留守は明日から一ヶ月もあるんですから。ちゃんとしたお姿で夕食を共になさって下さらないと」

「最後の晩餐みたいなこと言うね。不吉」

「ご家族のことを想って口を挟ませて戴いているんです」祠はきっぱりと言った。

「ん――ありがと」

 私は祠のほうを向き、少しからかうような微笑みを作る。祠は少し照れたように目を逸らして、お役目ですから――と短く言う。


 ◆


 ぼかした言い方をするのは逆に嫌みったらしい気がするので、単刀直入に説明すると――私の家は、いわゆるお金持ち一家である。

 父方のお爺様は貧しい家の出であったらしいが、裸一貫から貿易の仕事を始め、それを見事に大きな会社にまで育て上げた。世間で言うところの、成り上がった、というやつだ。

 しかし働き盛りのさなかに不運にも病気で亡くなり、大学を卒業してそれほども経っていないお父様が、その会社を二代目として受け継ぐ形になった。


 このような成り行きで潰れてしまう会社もたくさんあるのだろうが、お父様にはどうやらお爺様と同じかそれ以上の商才があったようだ。

 お父様の代になってから会社は更に大きくなり、貿易に留まらずたくさんのビジネスが立ち上がるに至った。

 私はお父様の仕事をそんなに詳しく把握しているわけではない。けれどもそれがどれだけ力強い躍進であったのかということは、現在の私を取り巻く環境から十二分に伝わってくる。


 お父様はお母様と結婚するときに、この屋敷を建てた。

 私にとっては生まれたときから馴染んでいる自分の家である以上、その造りに何らの特別な印象も持たないわけだが、世間の多くの人から見れば――単刀直入であることを許して欲しい――それはそれは見事に豪奢な建築物であるようだ。

 これまでに何度も友達を家に招いたことがあるが、彼女達は皆一様に目を丸くし、まるでお城みたい――という感想を口にした。もちろん実際のお城とは比べるべくもないわけだが、彼女達にはあちら側に属するものに見えたのだろう。


 そんな屋敷で生活している私達一家は、五人家族だ。

 まずはお父様。五十二歳。底なしの体力をもって誰よりも精力的に厳しく仕事をこなすが、客観的に見て子供にはちょっと甘いところがある。叱られたことがないわけではないが、基本的にのびのびと好きなように暮らさせてもらっているというのが私の認識だ。

 中年太りを忌み嫌い、忙しい合間を縫ってのトレーニングを欠かさない。その甲斐あって、年齢を感じさせないスタイルを保っている。贔屓なしに見て、素敵な男性だと思う。


 それからお母様。四十六歳。お父様とは恋愛結婚である。

 なんでも取引先の社長の秘書をしていたところ、お父様に一目惚れされたらしい。両親の恋愛なんて気恥ずかしくて詳しく聞く気にはなれないが、ともあれそこから色々育んで、結婚し、三人の子供を産み育てることになったという次第だ。

 お母様はお父様の分まで受け持ったかのように、日常生活の細かなことで結構うるさく子供達を注意する。けれどもそれを除けば優しい、おっとりした人だ。


 それから私達三姉妹がいる。

 長女、冠奈かんな。十八歳、大学一年生。

 私なりの言葉で表すのであれば、よくぞここまでお約束通りのお嬢様に育ったものだ、というような人だ。言葉遣いから立ち居振る舞い、教養、社交性に至るまで申し分のない出来である。

 唯一、ちょっと思い込みが強く短気なところがあるのが玉に瑕だが、その一面を知っているのは家族だけだろう。

 最近、将来の目標をよく口にするようになった。曰く「個人の性向に関する偏見を分類・研究・解消する活動に従事すること」を目指すのだそうだ。稼ぐ手段の話ではないのがとてもお嬢様っぽく聞こえる。


 続いて私――次女、真都衣まとい。十六歳、高校一年生。

 姉にすべてを押しつけて――というわけではないが、次女という立場の気楽さを十全に利用し、毎日やりたいようにやらせてもらっている。堅苦しいのは苦手。部活は陸上部。今のところ色恋沙汰には縁がありません。


 そして最後に、三女、羽子うず。十四歳、中学二年生――一応、二年生に在籍している。

 彼女は去年から学校に通っていない。家の外にもほとんど出ない。いわゆる引きこもりの不登校児というやつだ。

 我が家の唯一にして最大の悩みの種というところなのだが、本人は何を語ることもなく、自室と図書室を中心に淡々と日々を過ごしている。昔はよく一緒に遊んだものだが、いまは正直、彼女が何を思って生きているのか、うまく掴むことができずにいる。


 以上が私達一家であるが、この屋敷には他にも、使用人達が何人か住み込みで働いている。彼らのことも一通り紹介しておこう――いまのうちに。


 まずは執事の銀見ぎんみさん。推定六十歳。

 私が生まれたときにはすでに我が家の執事を勤めていたから、生まれたときから見てきた人だ。

 ほとんど意思表示をすることはないのだが、もちろんボケているわけでもなければ仕事ができないわけでもない。

 むしろお父様は銀見さんのことをとても高く評価している。普段あまり実感することはないけれども、恐らくは陰で私も様々な恩恵を受けているのだろう。


 それから料理人の春沙はるささん。たぶん三十路前。

 数年前に先代の料理人が独立したとき、代わりに入ってきた。

 私の知識が足りないだけかもしれないが、女性の料理人というのは珍しいのではないかと思う。お父様がどこからどうやって見つけてきたのか、いまもって出自のわからない謎の人なのだが、とても美味しい料理を作ってくれることは確かで、何と言ってもそれがいちばん大事なことだ。


 そして私達三姉妹に対して、お父様は一人ずつ、付き人をつけている。

 彼女達は屋敷の様々な雑用をこなしつつ、私達一人一人の身の回りの世話をすることを役目としている。お父様のビジョンとしては、若い女のことは若い女に任せるのが良い、ということらしく、私のこれまでの人生においても付き人は何度か代替わりしている。


 冠奈の付き人は、糸氏いとうじさん。確か二十八歳。

 銀見さんが存在感の薄い人なのに対して糸氏さんは何にでもてきぱきとした意見を口にする人なので、皮膚感覚としては彼女がこの屋敷の使用人の頭のような感じになっている。

 冠奈の付き人であるにも拘わらず私や羽子にも遠慮なく干渉してくるし、お母様からの信頼も厚い。冠奈が結婚するまでは恐らくずっと糸氏さんが付き人を続けるのではないかというのが、我が家の大方の予想だ。


 次に私の付き人、ほこr。二十四歳。

 私が十歳のときに新しくうちにやって来たので、もうかれこれ六年、私の世話をしてくれていることになる。

 特徴は何と言っても、日常の役に立たないことをとにかく色々と知っていることで、彼女の部屋に行くと人の趣味嗜好がいかに多様なものであるかを再確認することになる。いわゆるオタクと呼ばれる人種であるが、余計なことを語らせなければそういう匂いを感じさせないところが彼女の利発なところだ。


 最後は羽子の付き人、雨傘あまがさ。十八歳。

 羽子の以前の付き人が、彼女の不登校の件その他もろもろの理由で暇を貰ったあと、この家に転がり込むように入ってきて、新しい付き人となった。

 とても気が弱く、頼りない印象のある人だが、仕事は真面目にきちんとこなす。羽子のお守りというこの家でいちばん大変な仕事を仰せつかったにもかかわらず、文句の一つも言わずいつも笑顔を絶やさない、健気な人だ。

 ただ、何故か冠奈には嫌われているというか、距離を置かれているふしがある。相性というやつだろうか。


 ――以上十名が、この屋敷の住人である。

 一般に十人というのは大所帯だと思われるが、ここではそれをまったく感じさせない。いつだって何人もの客人を泊めることができるし、むしろすかすかなくらいだ。

 いまだって思いっきり駆け回りたくなることもあるし、真夜中に目を覚ましてヤッホーとかたまやーとか叫んでみたくなることもある。

 ……否定しようのないくらい、私の家はいわゆるお金持ち一家なのである。


 ◆


 この日の夕食は、平日にしては珍しくお父様も同席していた。

 お父様は普段とても忙しい、というより自らの意思で忙しくあちこちを飛び回っていて、夕食時はおろか、家に帰るのも二日か三日に一回くらいなのである。

 かつてお母様から色々言われたらしく、日曜日だけは多少無理をしてでも休みをとって、家でのんびり過ごしたり、家族とどこかへ出かけたりしているのだが、平日の屋敷においてはお父様不在がごく当たり前のことになっている。


 それがどうしてこの日に限って夕食を家族と共にしていたかと言えば、先程祠が言っていたように、翌日から仕事の関係でお母様と一緒に一ヶ月ほど家を空けることになるからだった。

 常日頃から留守がちなお父様としても、それはちょっと特別なことで、その前に一家団欒を踏まえておきたかったのだろう。


「六時前には家を出る」とお父様は言った。「見送りはいいからな。お前達はいつも通りの時間まで寝ていなさい」

「ごめんなさい、最初からそのつもりでした」

 私は悪戯っぽい微笑みを作って言った。お父様は楽しげな微笑みを返し、お母様は少し呆れたような苦笑を浮かべ、この子はいつもこうなんだから――と漏らす。

「私はお見送りするつもりでしたわよ」と冠奈が言った。「二人ともいなくなるなんて、お屋敷が本当に閑散としてしまいます。……お母様がこれだけお屋敷から離れることって、いままでにありましたっけ?」

「――無いわねえ」とお母様は少し考えてから言った。「皆で旅行したときも、いちばん長くて二週間。一ヶ月も離れるのは初めてね。あなた達のことも心配ではあるのだけど、本当は私自身がいちばんの心配の種なのかもしれないわ。どうなることやら」

「現地ではきちんと世話をしてくれる方々がいるのでしょう?」

「それはもちろんそうよ。でないと私、本当に死んでしまうかもしれないわ」お母様はくすくすと笑った。


「私達のことはまったく心配要りません。使用人の皆がきちんとすべてのことをこなしてくれます」冠奈はそう言って、お父様とお母様を交互に見比べた。「二人はお仕事の成功と、自分達の身の回りのことだけを考えて過ごして下さい」

「ありがたい言葉だね」とお父様が言った。「お前達の心配をしないでいるのは、私達には、特に母さんには、とても難しいことなんだよ。冠奈は本当に頼もしく育ってくれたなあ」

 その言葉が何だか少し面白くなくて、私は思わず口を挟む。

「どこにいたって、毎日顔を見せることはできるじゃないですか。ネットの無かった時代じゃないんですから」

「それはもちろんそうなのだけど」とお母様が言った。

「そういう問題ではないのだよ。――わかってて言っているのだろうけどね」お父様がそれに続く。

「そういう問題にしてしまって下さい。そうすれば少しは楽になれます。私達はもう小さな子供じゃないんですから」

「そうねえ。時間が経つのは本当に速いわ」お母様はそう言って、ずっと黙って料理を口に運び続ける羽子に目をやった。「――羽子も大丈夫よね?」


 お母様が羽子に話しかけるとき、私はいつも少しどきっとする。お母様はいまもずっと羽子に対して昔と変わらない態度をとり続けている。我が子なのだから当たり前なのかもしれないが、それが私の目には少々危なっかしく映ってしまうのだ。

 人はそんなに根底から変わってしまうものではないのかもしれない。でも羽子はいま、何というか――とても込み入っているように見える。どこに触れると何をつついてしまうことになるのか、周囲からは見当が付かなくなっている。それがお母様にだけはわからないのか、それとも母親の眼力で何かを見切っているのか、私にはわからないのだが、とにかく私はどきっとしてしまうのであった。


 四人が羽子を見る。羽子は飲み物の入ったグラスを無表情で見つめたまましばらく静止していたが――やがて根負けしたように、こくん、と一つ大きくうなずいた。

「そう」

 お母様が微笑む。私は安堵する。いくら呼んでも部屋から出ず、自分の部屋に料理を運ばせていた頃からすれば、これでも大変な成長である。

「それなら、私も頑張って自分の心配だけするようにしなくちゃね」

「その意気です」私は背中を押す。

 お父様はそんなやりとりを目を細くして眺めながら、独り言のように何かを呟いた。いいなあ――と言ったように私には見えた。


 ◆


 それから宿題をやって、祠の部屋でしばしゲームと雑談に興じて、お風呂に入って――ベッドに入ったのは確か夜の十一時くらいだったと思う。

 ここまでのすべての出来事を可能な限り思い返してみても、(私にとっての)ありふれた日常という以外の何の表現も見つからない日であった。

 特別な歓喜もなければ後悔もなく、何かの前触れのようなものが見られたわけでもまったくない。もし日記をつける習慣があったとしても、せいぜい「この日は平日にしては珍しくお父様と夕食を共にした」くらいしか書くことはなかったのではないかと思う。

 しかし、ありふれた日常は突然に断たれることになる。


 ◆


「お嬢様! お嬢様!」という叫ぶような呼び声で、私は目を覚ました。

 小学校に入って以降、これまでこのような起こされ方をしたことは一度も無い。私は付き人に起こして貰うことを拒んで、目覚まし時計を使って一人で起きることを信条としているのだ。他人から見れば中途半端に感じられるかもしれないが、私には私なりの「普通さ」への希求のようなものがあるのである。


「んん……」

 慣れない目覚め方のせいか、いつもならすぐ働くはずの頭がなかなか回転を始めなかった。しかし呼び声は容赦なく私の頬を叩き続ける。

「お嬢様!」

 引きずり出されるように、私は目を開けた。ぼうっとした視界を占めているのは、何やら必死そうな祠の顔だった。

「ん……なに?」と私は言った。まず最初にあるべきおはようの挨拶をついすっ飛ばしてしまったのは私のせいではないと思う。

「大変なんです」と祠は甲高い声で言った。

「大変?」

 復唱しながら、私は体を起こす。目覚まし時計に目をやると――四時半を少し過ぎたくらいだった。


「四時半って」思わず私は口に出す。ようやく頭が回り始める。「見送りはいいって話になってなかった? ていうか見送るにしても早すぎる。あなた達も起きたばかりなんじゃないの?」

「そうですが、緊急事態なんです」祠は私にかかった布団を握りしめながら言った。「ええと、まず――旦那様と奥様がいないんです」

「いない? 二人で先に出かけたの?」

「わかりません――いえ、たぶんそういうことじゃないです。いや、むしろ逆なのかもしれません、すみません、わかりません」

「祠、ちょっと落ち着いて」と私は祠の両肩に手を置いた。「とにかく、お父様達がいないのはまったく予定外のことなわけね?」

「はい」

「それはわかった」


 六時前に出る、とお父様は言っていた。確かに理屈では四時半だって六時前になるのかもしれないが、現実的に考えておかしなことだ。

 それにもし何かしらの事情が急遽変わったのであれば、その話は少なくとも銀見さんに伝わるはずである。そして彼を経由して使用人達に事情は知れ渡るだろうから、祠がこんなに混乱する必要はないはずなのだ。

 それから――。


 私の回り出したばかりの頭が、先程のやりとりを再生させる。確か祠は「まず」と言った。お父様達の不在は、まず最初のニュースだということだ。

「……で、話にはまだ続きがあるんでしょ?」私は祠の顔を見つめて言った。できるだけ彼女を焦らせないように、ゆっくりと。

「――はい」

 祠は深刻な顔でうなずき、両肩に置かれた私の手をベッドに戻し、立ち上がった。そのまま窓際に歩いていく。

「失礼します」と言って、祠はカーテンを開け放った。


 私が最初に見たのは空だった。そして最初の何秒かのあいだ、その根本的なおかしさに気づくことができなかった。

 空は砂煙で埋め尽くされたような灰色で、お世辞にも良い天気であるとは言えそうにない。太陽がどこから光を放っているのかもよくわからなくて――。


 そこまで考えたところで私はハッとして、枕元の目覚まし時計を手に取った。もう一度この目で確かめずにはいられなかったのだ。四時半を回ったところ――正確には四時三十六分。

「え?」と思わず私は素っ頓狂な声を上げてしまった。それからもう一度空を見て、さらにまた時計を見る。「なんで? 夜中でしょ?」

「それだけじゃありません」と祠は言った。「下を――敷地の外を見て下さい」


 私はベッドから起き上がって窓際に立ち、眼下の光景を見た。私の部屋は二階にあるので、多少は広々と外界を眺めることができる。

 敷地内を構成する煉瓦の敷き詰められた道や木々などは、毎日ここから目にしている通りの様相を呈していた。

 だが、その外側。

「これ……なに?」

 私は言った。祠に訊ねたように響いたかもしれないが、実のところ誰に言ったわけでもない。強いて言えば自問のようなものだった。

 赤茶けた大地。赤茶けた大地。その向こうも赤茶けた大地。

 あったはずの人間社会がまるっきり姿を消し――代わりにただそれだけが、視界の果てまでどこまでも続いていたのだ。

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