極彩色の繋ぎ目

小林秀観

紫黒――シコク――壱

 こうして見上げる空にだって見えない境界は存在している。そんな事はお構いなしに入道雲を横切る番の鳥が羨ましい。今までも、おそらくこの先もこの半分の世界に閉じ籠っている俺たち人間は境界の向こう側を知らない。

 龍を筆頭に置く白い彼らと、お飾りの王が何となく据えられている俺たち人間の世界は城壁のように世界を半分に分ける巨木群を目印に、左右に住み分かれて百年が経つ。

今では子供たちにその存在すら知らされない事もあるらしいが、人間は未だに昔は神と崇めていた彼らに怯えて暮らしている。白い彼らはあまりに大きく強いのだ。そして底の知れない者である事が怯えを加速させている。

百年前に世界が半分に分かれた本当の原因も、白い彼らの住む向こう側の半円の事も俺は何も知らない。百年後を生きる俺には知る術もない。それどころか、自分の事すら二十五年の生のうちの八年分しか知らない。

 俺が覚えている最初の記憶は八年前の戦場だ。そこで何をしていたのかも覚えていないし、その時に俺を拾ってくれた国王所有の戦士団の団長に聞いても知らないととぼける。助けられてからの八年は団長に付いて剣の稽古に励んだ。恩返しではなく、それしか生きる方法も意味も知らないからだ。

何も知らないでいる事が恐ろしくて自分について調べてみたけれど、戦場にいた子供という事しか分からなかった。生き残りは俺だけで、その戦場は見渡す限りの焼け野原になっていたらしい。たいした情報も得られないままの帰り道は心許なくて泣く事もできなかった。

例えば、剣を握っている記憶しかない俺が人を愛することなど出来るのだろうかと不安にもなる。

「おい、シコク。サボりなんて珍しいじゃねぇか」

 視界の端に勲章を幾つも付けた厳つい姿が見えた。声は思ったより怒っていない。この人が俺の親代わりと言ってもいい。

「すみません、団長」

「その分こき使ってやるから気にすんな。外円で仕事だ」

 地球を半分に分けた人間側。その半円の中央の山や海に隔てられた内円に、国王も戦士団もいる。白の半円と接している外円には今も村が昔のまま残り人が住んでいると言うが、目立った白との争いの話は聞いた事がない。

「了解しました」

「日暮れ前には二人で出るからな。剣だけ持って来い」

「二人ですか?」

「そうだ。馬で陸路を行く。」

その命令は不自然な気がした。国王所有の戦士団の団長が赴く仕事だというのに、武装は剣だけで共がなんの肩書もない俺一人だなんて。

「また馬に酔うなよ」

 団長は笑いながら俺の横に並び、じっと遠くを見ている。

「あの、団長?」

「何があるか分からんから貴重品は持って来いよ」

「はい」

「お前、百年前の事どれくらい知ってる?」

 聞かれて答えを探すけれど、満足のいく回答を持ち合わせていない自分が情けない。

「人間は白たちを神と崇め、神官や選ばれた巫女達のみが謁見の場で龍と月に一度の対話をしていました。けれど何の前触れもなく、何頭もの龍が大勢の白たちを引き連れ人間を攻撃したのが百年前の白の裏切りです」

 これが大ざっぱに言い伝えられている模範解答だ。

「納得いかねぇって顔してんな」

「こんな模範解答だけでは知っているとは言えません」

「お前は本当に知りたがりだな。今回は語り部の婆さんの所へ行くんだ。聞いてみろよ」

 その言葉に驚いた。こんな機会は滅多にない。語り部の方へと気が急いて、俺の足はムズムズとして勝手に走り出そうとする。

「そう急ぐなって。これお前にやるよ。持って行け」

 団長から白い布の包みを受け取る。開けてみると陽射しがキラリと反射した。入っていたのは短剣だ。それも見た事もない水晶の短剣。

「水晶……見るの初めてです。これ俺が頂いていいんですか?」

「あぁ。今の世の中じゃあ水晶は嫌われ者だが、それはいい代物だ。お守りにしとけよ」

「有難うございます」

 切っ先から柄まで全てが水晶で出来ている。初めて見る水晶は陽の光を受け入れて七色に輝き、そうかと思えば無色にも見える。これが石だとは信じがたいくらい美しい。けれど今はそれよりも気になる事がある。

「水晶が嫌われ者とはどういう意味ですか?」

「知らんかったか。水晶は昔どこにでも在ってな、俺たち人間の祈りを白に伝えてくれる大切なものだったらしい。だから今は嫌われ者なんだよ。大概の水晶は海に沈んでいるさ」

「祈りですか?」

「そうらしいが、あんまり聞くなよ? 俺は浅く広く主義なんだからよ」

 もう少し詳しく聞きたいが、どうせ語り部に会うのならその人に聞けばいい。

「今も届くのでしょうか?」

「届いたって向こうも聞いちゃいないだろ」

 豪快に笑う団長の横で、俺は乾いた笑いを溢した。


 その後すぐに城を出た俺と団長は一晩じゅう馬で駆け続け、次の日の朝には語り部の村に着く予定だと告げられる。この時期は夜でも蒸し蒸しとして汗が流れるというのに、どうして団長がそんなに急いでいるのか分からなかった。聞いても何度もはぐらかすので仕方なく聞くのを諦める。

 団長は言葉通り一晩中、馬を走らせた。

 村に着くと馬は水を浴びるように飲んでいる。朝早いからなのか、依頼主らしい語り部のお婆さん以外には誰にも会わずに自宅に通される。

「よう来てくださいました。さっそくじゃが、行方が分からんくなっておる十三歳の男児を探してほしい」

 語りつくしてしわがれた、けれど思わず聴き入るような声だ。

 団長が珍しく真面目な顔をしてお婆さんの前に座る。

「その事について聞きたい事があるんですがね。誘拐という話でしょうか?」

「いや。家出でしょうな」

「家出?!」

 思わず声をあげてしまい、団長に目で窘められる。

「原因は育ての父の死でしょう。居なくなったのは火葬が終わってすぐでしたでな」

「その方は殺されたのですか?」

 俺が堪らず聞くと、また気の抜ける答えが返って来る。

「いいや。……銃が暴発しましてな。ワシの、一人息子だったのです」

「行方不明の男の子とは血の繋がりは無いのですか?」

「シコク! そういう詮索はするな」

 団長が怒るのは尤もだ。どうしても知りたいという感情が先に出てしまって、気付かないうちに相手を傷つける事がよくある。口を開かないようにしようと思うけれど、聞きたいのを我慢すると頭痛がしてくるから厄介だ。

「かまいやしませんよ。探してほしい子はセツと言いましてな、親に先立たれたのでワシと息子で育てましたのじゃ。セツの親は生け贄の女でしてな。男親が誰とも知れぬ身重の体で逃げてきましたが、セツを産むとすぐに息を引き取りました」

「生け贄……」

「なに、珍しい事じゃあない。白に捧げる生け贄ですじゃ。ワシらを襲わんで下さいと、伝えるのです」

 外円では、今も白は現実としてすぐ隣に存在しているのだ。きっと出会う事もあるのかもしれない。だから内円のように忘れて生きる事が出来ないのだろう。

「その子について、ちょっと色々な噂が聞こえてきているんですがね。話してもらえませんか? 何もかも」

 団長は俺の方をチラッと見て続ける。

「神官の血を引いています」

 団長が? と気になったが、さすがに話の流れを止めてはいけないと思い留まった。

「ほう。ならば話さねばなりませんな」

 お婆さんは立ち上がり、外に誰もいない事を確認してから錠をかける。

「セツの母は村の入り口に立っておりました。臍の緒の切れとらん赤子を抱いておりましたのじゃ。聞くと女は生け贄として境界を越え、あろう事か龍に会ったと言いましてな。その龍が何事か話しかけたのじゃが聞く余裕もなく、そら恐ろしくて気を失ってしまったと言う。少しして女が目を覚ますと龍はおらず、ペタンコだった腹はポーンと出てまるで臨月。とにかく何処か人のいる所にと逃げる最中に痛みで蹲ると、あっという間に出産したのだと怯えておりました。見つけた時は息子と二人じゃったが、ワシらに話をするとサァっと顔が青ざめていき、そのまま息を引き取ったのじゃ」

 まるで物語か何かの様にお婆さんの話を聞いていた。白という存在さえ現実的ではない俺にとっては、根拠のない昔話くらいにしか感じられない。

「龍は、白は今も生きているのですか?」

「それさえ若者には曖昧か」

 お婆さんは目を細め、身を乗り出して俺を射るように見る。

「生きておる。向こう側の半円は彼らの世界じゃ」

「教えてください。全ての事実を知りたいんです」

 パン! と団長が一つ手を叩く。

「今はセツを探す事が先だ! つまり、セツは龍の子かも知れないという事ですね? これは大変ですよ。龍の子に何かあっては戦になりかねない」

「そんな事があれば今度こそ人間は滅びますぞ」

 お婆さんに急かされ、俺たちはセツを探すため休む暇もなく村を出た。

「お前、よくゴチャゴチャと聞きたいのを我慢したな」

「白の話は実感がわかなくて、聞きたい事が纏まらなかったんです」

「そりゃ良かった」

 団長はよく笑って誤魔化す。俺はそういう相手にでも突っ込んで聞いてしまうので嫌われる事が多いが、団長は別だ。瓶が水を受け入れるように、傘が雨を受け流すように接してくれる。

「人が龍の子を身籠るなどという事があり得るのでしょうか」

「百年経って俺たちは忘れてしまったからなぁ。何が起きるか想像する事もできん」

 だからこそ知りたいのだ。知らない事がどれほど恐ろしい事なのか、忘れてしまった俺が一番よく知っている。百年前の話はセツを見つけた後で聞くとして、俺は納得のいかない事だけ愚痴のように溢した。

「しかし、どうして団長が外円の村まで来たんですか? 話を聞くと息子さんの死も殺しではないし、行方不明は家出なんて。わざわざ出向く理由がわかりません」

「お前は龍の恐ろしさを知らんな? あれは怖いなんてもんじゃねぇぞ」

 団長が子供の頃は外円まで行けば空に龍を見る事が出来たらしい。その姿は熊や獅子なんて比ではなく、例えるなら滝が自由を得て動き出した様なのだと恐々と話す。遠くからでも分かる空を切り裂く翼の美しさに惹かれて何度も見に行ったが、抱いた恐怖はそのまま抵抗のしようもない死を匂わせた。この世で並ぶ者のない、まさしく神の名にふさわしい姿だったと言う。

 近頃は外円でも、その姿を遠くの空に見ることは難しい。

「セツは、自分が龍の子かも知れないという事は知らんそうだ」

「他言はしません」

 近くはあらかた探していると言うので、少し離れた白の半円との境界あたりを探す事にした。そこには人の生きた匂いが無く、手入れのされていない深い自然があった。

「こりゃ酷いな。歩き難くてしょうがねぇ」

 土を覆い隠す生い茂った草に、食い散らかされた小動物。ピョンピョンとあちこちで飛び跳ねる虫と、気味が悪いほど大きな蜘蛛の巣。

「本当にこっちを探して大丈夫でしょうか? もしかすると内円に向かっているかもしれません」

「それだけは無い。あの婆さんからの手紙に書いてあったんだ。セツは変わり者でな。水は川の水を飲み、腹が減れば森の奥へ行って木の実を食べる。今までも二、三日ふらっと居なくなる事があったらしいが、どうしていたかと聞くと、熊と寝ていたと抜かすんだと」

「何だか、さっきの話が現実味を帯びますね」

 獣道を進んだり、川沿いを注意深く歩いたりしているうちに太陽は真上に昇る。熱気で目眩がして服を脱いでしまいたくても、よく切れる葉や虫が多く危なくて脱げない。

「この様子じゃあ一つ二つ転がっていたって不思議はねぇな」

「何がですか?」

「死体だよ。こういう、俺たちの目の届かない所には結構あるんだ」

 団長は大袈裟に身振り手振りを交えて、斬り合いやら首吊りやら、と説明する。

「人間はいつも醜く殺し合うばかりですね」

 川に腰まで浸かって答える。

「俺はなぁ、本当を言うとこの仕事嫌いなんだ。白を相手に人間を守るんだと思ったのに、相手は人間ばっかじゃねぇか。碌でもねぇ」

 団長は俺と違って、思いっきり服を脱ぎ捨てて川に入ってきた。

「白を相手にするのは怖くないんですか?」

「そりゃ怖いが、人間を斬るよりか楽だぜ。ちゃんと憎ませてくれるからな」

 冷たい川の水のおかげで少しずつ頭がすっきりしてくる。

「駄目ですね。俺は何も考えずに、戦場で……」

「それでいいんだよ。考えてたら自分がやられる。だが何百人と斬るとな、斬る瞬間に自分から抜けていくもんが見えるんだよ。ありゃあ何だろうな? 魂とか、自分の根本だった物とか何か大切なもんが抜けて行くんだよ。そんで頭が軽くなっちまって」

 二度と取り戻せない物だと分かるからあの喪失感が耐え難いのだと、珍しく気のない声で息を吐くように話す。俺の倍以上もの時間を戦場で過ごしているのだから、そういう物が見えても不思議はないと思う。

「恐怖に狂った奴に武器なんか持たせたら、そこは戦場になるだろ? だから嫌なんだよなぁ。白になら剣を向ける理由があるじゃねぇか」

 こういう話をしている時に目を閉じると、鼻の奥で血の臭いがして……燃えてパチパチと爆ぜる音を聞き、赤く揺れる景色を見る。これは俺の最初の記憶。体に染みついて消えない恐怖だ。そこにいる俺は地面にへたり込んでいる。

「お前が最後の一人だ」

 そう団長に言われ馬の背に乗せられた。


「おい。シコク。大丈夫か?」

「……はい。大丈夫です」

 肩を叩かれて目を開けると、目の前を白い大きな猫が通り過ぎるところだった。

「団長。あれ白ですか?」

「そうだろうな。放っておけば何もしねぇさ」

 初めて出会う白い彼らは案外普通の生き物で拍子抜けしてしまう。それでもこちら側に暮らす白くない猫と比べれば、たしかに貫禄があるし体が大きく、髭も長い。

 川から上がって捜索を再開すると、さっきの白の猫以外には不審なほど生き物に出会わない事に気が付いた。斜面に開いた蛇の巣穴を突いても蛇はいない。狸にも鼬にも出会わない。これだけ深い自然の中に居てあまりにも不自然だ。

 鳥と蝉の声が煩いくらいに聞こえている。

 空を見上げると、白ではない鳥たちが忙しく飛び交っている。

「追うぞ」

 鳥たちは一か所に向かっていた。追いかけて着いた場所は、苔生した鳥居と石段。辺りは鳥の鳴き声だけで耳が痛いくらいだ。それが、俺が石段を一歩のぼると一斉に飛び上がって急に静かになった。

「何でしょうか?」

「さぁな。けど、この上は昔の龍との謁見の場だ」

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