第20話 剣の色

 窓の外は暗い、陽が落ち夕方を通り越して夜になっている。実験室のような部屋では、現在ステラは部屋の奥で鞘と剣を分けた状態で鑑定を行っている。そして、翔とリーフェはお互いに膝を付き合わせるような形で向き合いながらステラの鑑定結果が出るのを待っていた。


「ショウさん、あの文字。読めてたんですね……」


「すみません……、隠していて……」


「いえっ、別に責めているわけでは」


 『パレットソード』と、確かにあの剣の持ち手にはそのように刻まれていた。翔が思わず口にこぼしてしまったのはその名前の安直さからなのか、一重に謎の剣の名前が判明したことに対する動揺だったのか。


 文字が読めたのはいつだったか。それは最初に刀身に刻まれた、あの図形のような文字を見たときからだった。だが、リーフェというこの世界の現地人である彼女が読めないと知ったとき、なぜか無性に自分だけがこの謎の文字を読めるということに恐怖を翔は覚えていた。


 間違いなく、この世界では異質な存在の自分。


 けれども、この一ヶ月近い時間を過ごして。自分は、この世界の住人にようやくなれたのだと知った。だから、もう怖くはない。この人なら、絶対に信頼できる。


「自分、怖かったんです……。よくわからないんですけど、文字が浮かんできて……、勝手に自分の読める文字に変換されるっていうか……」


「でも、最初から不思議だったんですよ。なんでショウさんがこの世界の文字を読めるのかって。ほら、ギルドカードの内容だって普通に読んでいたじゃないですか」


 言われてみれば、そうだったと翔は思った。ギルドカードを作るときの申請書作りの時も、平然と文字を読み内容を理解したような素振りをしていた。元々、リーフェはそんなことを気にする様な人ではない、それは彼女と生活をしてきた上ではっきりしていることだった。


 今更、疑心的になって彼女に対して隠し事の様なことをしていた翔は自分を情けなく感じた。


「お〜い、そこのお熱いお二人さ〜ん。鑑定結果が出ましたよ〜」


「「いやっ! 別にそういうんじゃっ!」」


 神妙だった空気に場違いな明るいステラの声が入り込む。とっさに二人で反応してしまうが、全く同じ仕草、全く同じセリフを吐いたことに気づき互いに顔を見合わせて軽く吹き出してしまった。そんな二人のことを見ながら不思議そうな表情をするステラ。


 思い返せば無用な心配だったのだ。


「さてと、まず鑑定結果なんだがね」


 机の上には鞘と剣を分けた状態でパレットソードを並べて置いている。片眼鏡をしたステラは椅子の上に座り大きく後ろに反り返り大きく伸びをして一息つくと気合いをいれるかの様に自分の両膝を叩く。


「まず、この剣。パレットソードなんだが、この材質はこの地上にあるどの鉱物のものではないと判明した」


「……え?」


「正確に言うと、この剣に使用されている鉱物の名は『星の涙』と呼ばれるものだ。別名『流星の落し物』とも言われているけどね。それがこの剣に使われている鉱物、純度百パーセントだ。強靭な硬度を誇っていて、その割には重度が低い。主に鎧や盾に採用されることの多い材質だけど剣に採用されているのは見たことがない」


 ステラの説明を聞いても、その価値を翔は理解することができない。だが、ただ一人。リーフェはステラのその話を聞き顔が一瞬で青ざめている。だが、そんな表情を浮かべているリーフェなど気にせず淡々とステラは説明を続けてゆく。


「鞘に使われているのは木材と銀だ。こちらにもこの剣の刀身同様に魔力を流すための回路が同様に彫り込まれていた、銀はおそらくその魔力回路を補助する役割だろうな。鞘の材質は『パンセリノス』が採用されてる。だが、鞘に嵌っているこの石、おそらく魔石の一種だと思うがこれだけは私でもわからなかった」


 続いて、といって次にステラの指先が示したのは鞘に付属している革製のベルトである。


「このベルト、革製だが。使用されているのは龍の翼だ、それだけではなんの珍しくもないんだが、この龍の翼はそんじょそこらの龍の翼じゃない。おそらくだが、この魔剣製造第一世代に生息していた『白龍』のものだろうな。経年劣化のせいで色は淀んでいるけど、多分造られた当初はさぞ綺麗な色をしていただろうさ」


 と、ここまでステラが言った瞬間。耐えかねないと言わんばかりに立ち上がったのはリーフェだった。その顔はもはや青ざめるを通り越して蒼白と言わんばかりである。


「信じられませんっ、ステラ。からかうのもいい加減に……っ」


「私は正直だ。こと鑑定においてはプライドを持って行っている。冗談を言うはずが無い」


「でもっ! 『星の涙』なんて、そんな数十年に一回見つかるか見つからないもので、しかも見つかったとしてもごく少量のもので一体どうやってこんな大きさの剣を作り上げたと言うんですかっ!?」


 完全に置いてきぼりになってしまっている翔。そのまま口論に発展してしまっているリーフェとステラの話の内容を聞いているものの、話の内容は全く理解できない。決してからかっている様には見えないステラではあるが、確かにあの様な人柄であれば疑われても仕方がないのだろうがと翔は軽く息を吐く。


「両者、ストップ」


 片手を上げ、言い争いを繰り広げるステラとリーフェを止める。このままでは埒が明かない、それにこの剣を使用する以上、しっかりと概要を理解しておかなくてはいけないのは自分自身だ。


「僕にも、わかるような説明をお願いします。それは、僕の剣なんです」


 翔の訴えに、両者はその口を噤む。少し落ち着いた様子のリーフェが先にゆっくりと椅子に座ると、後に続いてステラも剣の置いてある机の横に置かれた椅子に大きな音を立てて座ったが、拗ねたのか手をひらひらさせてそっぽを向いている。


「こう言った説明は苦手だ。アルステイン、頼む」


「ステラ……、わかりました。まず剣に使われている『星の涙』についてですが、これは地上の物質ではなくて。そのなんといえばいいか……、空から飛来してくる流れ星が地上に漂着することで手に入る特別な鉱物なんです。そのため『星の涙』が落ちてくる場所もわからなければ、一度見つかったとしても次に見つかるのが数十年、もしくは数百年の長さとも言われています。仮に見つかったとしてもひどく少量で素材と呼べないものだったり、地上に到着する前には既に燃え尽きてしまったりと、とてつもなく珍しくて。ギルドでも『星の涙』を蒐集するためだけのパーティーが存在するほどです」


 説明を聞いて翔は絶句する。名前から既に察していたものの、パレットソードの剣身に使われていたのはよりにもよって、宇宙から飛来した流れ星の鉱石だったという事になる。それはそれでとてもロマンのある話だが、確かに普段は冷静沈着なリーフェの顔が青ざめるのも無理はない。その証拠に、彼女はパレットソードを見ながらブツブツと何らかの料理の名前を呟いている。


「えっと……、続きを?」


「あ。すみません、えっと……。『星の涙』はその希少性もあるんですが、それ以上にその高い硬度のせいで加工するのが非常に難しいんです。なので、合金として他の金属と合わせて使用するのが普通なんですが……。この剣は……」


 純度百パーセント。例えば、日本刀なども主に使用されているのは鉄であるが、それは『たたら』という製法で『玉鋼』という炭素を織り交ぜた純度の高い鉄を使用し、はじめて折れにくく曲がりにくい、よく切れる刀というものが生まれる。だが、パレットソードに使われる『星の涙』はその工程を踏む事なく、非常に高い硬度を誇っている。


 純白の剣。加工をすることすら難しいと言われている素材で剣の形を作り上げたということ自体が奇跡に近いのだろうか。


「まぁ、そんなところだろう。次は鞘について説明してやれ、アルステイン」


「あなたって人は……。鞘に使われているパンセリノスはアステール山の頂上にのみ群生している、これもすごく珍しい木材です。アステール山は非常に高い山ではあるんですが、何よりも環境が非常に劣悪で、そこに生息している魔獣などもその環境に耐えるために進化したものが多く、ベテランの冒険者でも近づかない危険地帯なんです。その頂上に群生しているパンセリノスも環境に耐えるために進化していて、空気中の魔力量で硬度が変化する特性を持っています。ですが、パンセリノスが成長するのは満月の時のみで、伐採ができるまで成長させるには数百年という年月がかかります。そういったこともあり、別名『月光樹』とも呼ばれてます」


 翔も徐々に混乱を覚えはじめてきたのか、だんだんと頭を抱えて俯き始める。たまたま拾った剣が『自分が考えた最強の素材図鑑』みたいなものをかき集めてミキサーにかけて組み合わせたような代物だとは思いにも寄らなかった。


 淹れ直されて随分と立つ冷めた紅茶を一気に飲み干し、気合を入れ直してからもう一度リーフェと向き合う。


「……それで、次はベルトなんですけど。生息している龍にはギルド基準でそれぞれ色が振り分けられていて『緑龍』『蒼龍』『赤龍』『黒龍』『白龍』と五つに別れていて『緑龍』が冒険者十数名程度での討伐が推奨されていて以降は国が討伐管理をするレベルになっています。中でも、ショウさんの剣に採用されているベルトの素材は、龍の中でも国を一息で滅ぼすと言われている最高ランクの『白龍』の翼です、それがベルトになっているということは当時『白龍』を討伐することができた人物が製作した、という事になりますね……」


「……マジかよ」


 龍というのは、地球で言う所のドラゴンである。ギルド講習で習った事だが、突然空を覆うように黒い影が地面に現れたら一目散に逃げるか、身を隠せと教わっているものだ。決して戦意を持ってはならず、即座にギルドに報告した上に特別任務として迅速に討伐に当たらなくてはならない代物らしい。それが一体で国を滅ぼしかねない、というのならばわかる。だがというのに明らかな異常性を感じる。


 息をする、それは生き物ならば至極当然の話であって。その行為一つですら命を奪い取るというのだから会ったら最後、死を覚悟しなくてはならないのだろう。考えただけでも恐ろしい生き物のいる世界なのだと改めて実感する。


「と、いったところですか。ステラ」


「あぁ、十分だ。ありがとう、アルステイン」


 リーフェの話を聞いていたステラが満足げな表情で立ち上がる。だが、説明を終えたリーフェの表情はあまり冴えない。それもそのはずだ、自分自身で信じれらないものの説明をしているのだから仕方がない。


 ゆっくりと、ゆっくりと翔に近づくステラ、その目には怒りにも似た感情が籠っている。静かに翔の肩にかかるステラの冷たい手。


「君、これ。実は盗み出したものじゃないのか?」


「……は?」


「これほどの品だ。個人が持っていていい代物ではないのは明白だろ? どこぞの貴族だか王族の金庫かは知らんが、こいつを盗み出し。追われているその途中でアルステインに頼り、信頼を勝ち取り、価値がわからないからその伝で、私に頼り価値を聞き出した上で……」


 何を言っているんだ、この女は。


 だが、決して逸らすことのできないほどの深い目の色。感情が揺れるように、瞳の奥が震えるのがわかる。なぜなら、今目の前で話している女の言うことの辻褄は決して合わないものではないからだ。


 ゆっくりと、ステラの薄く柔らかい唇が開く。


「私たちをここで殺し。こいつを持って逃げる気なのではないか?」


「ふざけるなっ!」


 椅子を蹴り倒す勢いで翔は立ち上がる、この世界に来て初めて怒りというものが湧いた。顔が熱い、血が沸き立つのがわかる、視界が霞んで手が震える。


 この世界に初めて来たときに言われていたらここまでの反応はしなかっただろう。『仕方がない』で済む話だ、だが、


 今は違う。


 そんなことをするわけがない。


 するはずがない。


 この世界にいる事に希望を与えてくれた人、そんな大事な人を傷つける? バカな。


 そんなことを、俺が。


「俺が……、俺がそんなことをするはずがないだろうっ!」


 次の瞬間、激しい破裂音のようなものが部屋に響いた。突然のことに、三人はとっさに音の方を向くと、机の上で鞘が大きく跳ね上がって地面にカランと軽い音を立てていた。跳ね上がった鞘の下の机は焦げ付いている。翔から視線を外したステラが机の上に手を伸ばし、鞘の外見を眺めながらボソボソと何かをつぶやき始めた。


「おい……、あんた。話はまだ……っ!」


「すまない、非礼を詫びよう。イマイシキ ショウ」


 身を乗り出し抗議をする翔。だが、そんな彼の前に差し出されたのはステラの持つパレットソードの鞘。黒塗りの木製の鞘に施された銀細工、そしてそこに不自然に並ぶように空いた七つの穴、そこに嵌められた魔石と思しき小石。


 それが赤く煌々と輝いていた。


「これは……」


「どうやら、君に反応したようだ。見た所、ただの魔石というわけでもないらしいが……。道具は人を選ぶと言うけど、これは本当に君の物らしい」


 怒りと緊張が解け、翔は大きく息を吐く。ステラから差し出された鞘を手に取る、それは最初に手にした時よりも重み感じた、そして同時にただの冷たい道具であるはずの物に熱と脈動のようなものが翔の両手に伝わる。


 今までにない現象。そもそも、ただの物である鞘がこのような現象を引き起こすこと自体があり得ない。だが、翔の感情が平静を保ち始めるのと同時に鞘の石は徐々にその輝きの化を潜め、しばらくするとまた、ただのくすんだ色の石に戻ってしまった。


「あ……」


「ふむ……、一時的なものだとは思うけど興味深い……、なぁ、君。もう一度激怒しテッ!?」


 突如、ステラの後頭部に激しい破裂音が叩き込まれる。大きく体制を崩すステラ、その背後には鬼の形相を浮かべたリーフェが硬く拳を握りしめていた。


「あ、アルステイン!?」


「ステラ……、貴女。少々調子に乗りすぎてません……っ?」


 怯えた表情のステラ、にじり寄るリーフェ。その後、十数分によるリーフェの説教が始まり翔は完全に怒るタイミングを失ってしまった。だが、自分のためにリーフェは怒っているのだと考えると、自然と翔は自分の中の怒りが徐々に消えてゆくのがわかった。


 そんな姿を横目に、翔は鞘に剣を収める。


 これだけの希少素材を使用して作られたパレットソード。一体誰がどのような目的で作ったのか、これを手にする以上は知らなくてはならない時が来るのだろう。


「ハァ……、ショウさんっ! もう帰りましょうっ、お腹が空いちゃいましたっ!」


「えっ!? あ、はいっ!」


 一頻り、あれやこれやと言い終えたリーフェは地面に正座しているステラを置いて扉を乱雑に開けると先に部屋を後にする。暗い廊下の向こう側を平然とランタンを持って歩くリーフェだったが、再びあの暗くおどろおどろしい道を通って帰らなくてはならないと思うと自然と足がすくんでしまう。


 怒られヘコんでしまっているステラを置いてゆくのに多少罪悪感を覚えつつも、部屋の外を抜けくらい廊下の奥に見えるランタンの明かりを辿りに恐る恐るリーフェの後を追う翔。


「リーフェさんっ!」


「あ、ショウさん。もう……、ステラには本当に困りました。すみません、嫌な気持ちにさせてしまって……」


「いえ、それはもういいんですけど。珍しいですね、リーフェさんがあそこまで怒るのは」


 リーフェが最後に怒ったのを見たのは、ガルシアとの模擬戦で翔が怪我を負った時以来だった。普段からガルシアの横行にも多少なりとは怒っているものの、軽いグチ程度だったり注意だったりと人前で怒ることがそもそも珍しいのだ。


 翔に指摘され、リーフェは軽く俯く。


「ショウさんは……、いい人ですから。優しすぎるくらいに」


「ハハハ……、恐縮です」


 言われて、悪い気分ではない。何より、美人にいい人だと言われるのはとてもいい気分だ。これが聞けただけでもここに訪れた意味はあっただろうと翔は思っていた。


 二人は長い廊下を抜け、屋敷の玄関を抜け外へと出る。空は暗く、大きな月が二つぽっかりと浮かんでいる。今日は珍しく、二つとも満月で林の中に差し込む月光がキラキラと輝いて幻想的な光景を映し出している。


 月明かりに照らされる彼女を、本気で女神だと思ってしまった。


「ショウさん?」


「えっ!? いや、やましいことはっ!」


「……あ」


 リーフェが立ち止まり、翔の後ろを見つめる。その視線の先にはさっき出たばかりの屋敷の玄関。翔も同じように玄関先に視線を向けると、玄関の向こう側からステラがゆっくりと歩いて出て来る姿が見える。


「アルステイン、イマイシキ。その……、なんだ。さっきは言いすぎた、心より謝罪をしよう。せめて、見送りだけでもさせてくれ」


 深く頭を下げるステラ、その姿はリーフェはジッと見つめ翔の顔を見る。翔は軽く頷くと、一歩ステラの側へと近寄り、頭を下げるステラの視線に合わせて体を低くする。


「頭を上げてくださいステラさん、もう怒ってませんから」


「……そうか、改めて疑うような真似をしてすまなかった」


 ゆっくりと顔を上げるステラ。翔は振り返りリーフェの顔を見ると「仕方がないですね」といった顔をしながら翔の隣に並ぶ。そこには困った子供を見る母親のような姿のリーフェがいた。


「ステラ。今日は一緒に夕食は如何ですか? ショウさん作るご飯はとても美味しいんですよ?」


「……、それはいい話だ。だが、今日はお断りしておくとしようか。二人の時間を邪魔するのは野暮だからね」


「な……っ」


 反省しているのかしてないのか、リーフェを再びからかい追いかけ回されるステラ。その様子を見ながら翔は思わず吹き出してしまう、先ほどまで言い争っていた二人だったがこんな姿を見てしまってはどこか微笑ましく感じる。


 なるほど、妹のような。というリーフェの言葉は、あながち間違いではなかった。


「ハァ……、ハァ……。あ、アルステイン。もうここまでにしようか……、流石に体力が。後、イマイシキ、君に話さなくてはならないことが……」


「僕に、ですか?」


「あぁ……、そ、その剣についてのことだ」


 肩で息をしながらステラは翔が腰に下げている剣を指差す。ゆっくりと呼吸を整え、ステラは翔に近づくと肩にもたれ掛かるように手を置き、顔を翔の耳に近づける。


(魔力を込めて、剣の文字を読んでみろ)


「……え?」


 ささやくような呼吸混じりのステラの声。翔は咄嗟に軽く身を引いてしまうが、すでにステラは踵を返し、廃墟の屋敷へと向かっていた。


「え? ステラ、食事は本当にいいの?」


「あぁ。ちょっと今日は忙しくなりそうでね、すまないが別の機会に……」


 後ろ振り返らず、手を挙げひらひらと降りながらステラは屋敷の中へと入って、そのまま暗闇の中に姿を消した。翔はといえば、先ほど言われたことの説明を求めようとし彼女を引きとめようとしたまま固まって動かずにただただ彼女が屋敷の中に入るのをぼんやりと見ていた。


「では……、帰りますか?」


「そう、ですね。遅いですし、また会える機会があったら、その時にでもお礼でお誘いしましょうか」


 諦めた表情をするリーフェと一緒に帰路につく。ステラの言葉が意味するものは一体なんだったのか、それを翔が理解するのは少しだけ後の話だった。


 さて、後日談として。


 あの後、何度かリーフェと翔は何度か廃墟の屋敷を訪れたが鑑定に訪れた日以降、ステラ=ウィオーラの姿を見ることは終ぞなかった。もともと人のいること自体が信じられないという荒れ果てた様相の屋敷だったが、唯一彼女がいた部屋ですら最初に訪れたときと違い、並べられた実験器具や素材などのその一切が綺麗に片付けられていた。


…………………………………………………………………………………………………


 翔とリーフェが帰ったあと。屋敷の天井裏へと向かうステラ。その手にはランタンの明かりなどは持っておらず、暗闇の中を窓からこぼれる月の光をたどるように歩いている。


 たどり着いた天井裏、そこにあるのは大人一人分を容易に映すことのできる気品のある姿見。


 その前にステラは立ち、軽く手を触れる。姿見に映るのは、もう一人のステラ。


「さて……、どうしたものか。とうとう、を手にする奴が来るとは。よりにもよって、この私のところに来るとはね……」


『……あの人、使える?』


「さぁな。だが、決して悪いやつではなかった。それだけは言える」


『……そう』


「不安か?」


『……うん』


「なぁに、安心しろ。いざとなったら私が身を呈して必ず守る。お姉ちゃんとの約束だ。それに、あの人も徐々に起きてるみたいだし」


 鏡の前で座るステラ、


 鏡の中で見下ろしているステラ、


 小さく息を吐くと、たまった埃が渦を巻いて宙を舞う。ステラはおもむろに立ち上がると、ゆっくりと鏡に向かって手を伸ばす。


「また会おう、イマイシキ ショウ。君がに呑まれないことを願うよ」


『……バイバイ』


 吸い込まれるように鏡の中へと消えてゆくステラ。その両目は暗闇の中を泳ぐように、紫色に輝いていた。

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