第2話 再会の色


 とても悪い夢を見ていたような気がした。


 どこか遠くの世界に飛ばされて可笑しな格好をした人間に話しかけられるような夢だ。


 しかし、目を覚ますと、そこはいつもの場所だった。いつもの小さな六畳一間。鴨居にぶら下がる作業着と、床に散らばる請求書。そして、壁に立てかけられた模造刀に過去の栄光の数々。


「はぁ……、変な夢見た……」


 布団から起き上がり、洗面台へと向かう。翔は鏡を見ながら、蛇口をひねり水を出すとそれを頭からモロにかぶる。これが、彼の朝のルーティンだった。そして、びしょ濡れの頭と顔を何日も洗っていないタオルで乱暴に拭くと、その隣にあるステンレス製の安っぽい台所へと向かう。そして横に備え付けられた小さな冷蔵庫の中から作り置きのサラダと冷製トマトスパゲッティを取り出し朝食の準備を始める。


「…あれ、今日何曜日だっけ」


「今日は水曜日だぞ、翔」


「あ、そうか。ありがとう、おや…」


 次の言葉が口からこぼれる前に、翔は右手に持っていたサラダの入ったボウルを床に落とした。カランと軽い音を立てて落ち、それから色とりどりの野菜が溢れて散らばっていく。


 聞こえてはいけない声が聞こえた。


 二度と聞けないと思っていた声が聞こえた。


 もう一度聴きたいと思っていた声が聞こえた。


 そして、同時に翔は確信した。これが、どうしようもない夢なのだと。


「……親父」


「よう、久しぶりだな。元気にしてたか?」


「親父……、テメェ…生命保険くらい入っておけっ、バカやろうっ!」


「いきなりそこかよ、お前」


 先ほどまで、そこには誰もいなかったはずの部屋にその人物は立っていた。その剽軽そうな顔からは全く似合っていないしっかりと着込んだ道着、そしてその腰に刺さっている居合刀。


 今一色 一登。翔の父親であり、とある流派の剣術を叩き込んだ師範でもあり、そして。


 数年前、事故で死んでいる人物だ。


「あんたが死んでから俺……、大学行くのも諦めて、それで……、道場引き継いで……」


「辛い思い、させてしまったな」


 全てがおかしくなったのは父、一登が死んでからだ。翔に母はいなかったが、父親の一登が男手一つで育てた。もともと生活は楽ではなかったが、一登の周りには多くの門下生が集まり金はなくとも、人の優しさに囲まれた温かな生活を送っていた。


 しかし、翔が高校二年の冬に入る前の出来事だった。


 一登が交通事故にあったと聞いたのは、翔が高校の剣道全国大会の遠征中だった。すぐさま棄権をし、一登がいる病院に駆けつけた時には彼は生命維持装置に繋がれ全身赤く滲んだ包帯で巻かれたままベットに横たわっていた。


 一登の周りには多くの門下生が訪れてはそれぞれ花や、果物などを手にやって来た。だが、それらがまるで葬式の前準備のような気がして、ひどく怖かったのを翔は覚えていた。


 そして、数日後。結局、一登は一言も言葉を発さないまま帰らぬ人となった。


 事故の原因は、一登が車道に飛び出した子供を助けようとしたからだそうだ。しかし、結局その子供も、母親もついぞ見舞いに来ることはなかった。


 助けようとしたやつが死んでどうする。


 葬式の日、花に囲まれ。そして、剽軽に笑う無機質な遺影を前に涙ひとつこぼすことできず、いつの間にか道場も、家の中もシンと静まり返ってしまった。


 だが、一登が残してくれたものは大きかった。多くの門下生と彼の友人が心の隙間を埋めるように徐々にその賑やかさを取り戻してゆくようになった。そして、高校生を続けながら道場の新たな師範として門下生を指導する傍ら、生活をするためのバイトを増やしてゆき、なんとか高校を卒業することができた。


「……人を助けても、自分が命を落としたらどうしようもないだろ…」


「けど、俺なんかよりずっと先を生きるべき命だったさ」


 実に清々しい表情で死人は言った。そして、ずっと溜め込んで来た言葉が、つっかえていた言葉が矢継ぎ早に紡ぎだされてゆく。全てを言う頃には喉は枯れていて、視界は歪んでいて、床が水浸しになって、息をするのも辛くなっていた。


 すまなかった


 ひとつ言葉を吐くたびに一登は、その一言積み重ねていった。


「……」


「…言いたいことは、言えたか?」


 全て言い終わる頃には、部屋は水浸しになっていた。それは、翔の二年と言う月日を溜め込んだ涙だった。足首まで浸るほどの涙を、狭い六畳一間に埋め尽くす頃には、翔の感情も収まりつつあった。


「…あと二年かかるぞ、言い終わるの」


「そうか…、また今度の機会にゆっくりと聞こうか、今度は刀を交えてな」


 涙を流しすぎたせいだろうか、翔の視界は霞、朧げにしか一登の姿を捉えていない。だが、はっきりと彼の言葉は聞こえていた。そして、徐々に体がだるく、重くなってゆく。この感覚を翔は知っていた。


 これは、夢が覚める前だ。


「待て……待てよ、まだ全部…言ってねぇよ…」


「翔、お前に伝えたいことがある」


 膝をつき、ビシャリと水が体に跳ねる。周りはいつの間にか、見慣れた六畳一間から、濃紺の夜空に散々と広がる星に埋め尽くされていて、そして。涙でできた水たまりが翔の体を被ずりこむようにまとわりついて行く。


「翔、今から覚める場所は。夢でも、幻でもない。全て現実だ。紛れもない、正真正銘の現実だ」


「おい……っ、何言って……」


「まっすぐ生きろ。俺が教えたことを、存分に活かせ」


 翔の体に纏わり付く涙は、すでにその体のほとんどを飲み込んでいて、引きずり込まれるのも時間の問題だった。だが、いくら手を伸ばそうとも、その手はもはや一登には届くはずもなく、次の瞬間にはドプンと体全身が沈む。


 沈んだ先は、とても深い深い暗闇の広がるところで。何もなす術などなく、ただただ無抵抗のまま沈んでゆく。


 沈んでゆく、そこに。何か光が漏れ出しているのが見えた。


 そこへ、進まなくては。


 もがくことで、生きていかなくては


 挫けることなく、光に進まなくては。


…………………………………………………………………………


 それほど強い光ではないが、淡く黄色い光が視界に翔の薄く開かれた視界に入り込んできた。ゆっくりと目を開け、天井に括り付けられたランプを確認すると、徐々に体を起こして行く。


「……」


 周囲を見渡すと、小綺麗に片付いた部屋と所々壁にかけられている小さな灯りの灯ったランプに、どこか非現実感があった。壁は木製の木の板で、目が覚める前にいたギルドの壁に類似している。


 ふと、物音がして。翔は部屋の扉の方へと視線を向けた。


「あら、起きてる」


「あ、」


 扉の向こうから灯りを持って現れたのは、気絶する寸前に会話を交わしたエルフの女性だった。


「え、えっと。その、おはよう、ございます?」


「えぇ、おはようございます。と、いうのは少々遅すぎますけれどもね」


 女性の言葉にハッと気づいたように、翔は寝ていた場所のすぐそばに備え付けられていたくすんだガラスの窓を覗く。


 外は、夜だった。窓の隙間から青草の匂いと少し湿った冷たい空気の匂いがする。そして、ガラスの向こう側に広がる夜空に浮かぶ大きな二つの光源。


 冷たいようで暖かい、白い光は紛れもなく月だ。


 すなわち、今見えている光景が本当ならば月が二つあることになる。


 現実離れした光景に、すでに頭の処理が追いつかず。窓から離れて翔は軽く頭を抱え込んだ。


「あの、大丈夫ですか? 倒れた時にかなり頭を打ちましたから」


「すみません……ご迷惑をおかけして」


 頭を抱え込んだまま、翔は夢の中で一登に言われたことを思い出す。


 『紛れもない、正真正銘の現実だ』


 もはや疑う余地はあるまい、これは現実だ。少し埃っぽい空気に、腰に感じる少し硬いベットの感触。そして、今額に手を当てられている暖かさ。


 これは、現実だ。


「熱はないようですね。よかったです」


「すみません、何から何まで…。それで、ここは一体どこですか?」


 色々と諦めて、今自分がいったいどこにいるのかを彼女に問いかける。すると、彼女は若干ハッとした表情になるがすぐに平静を装うように答える。


「ここは私の家です」


「……え?」


「貴方が倒れて、ギルドからここまで運びましたっ」


 ここは、女性の家である。そう知った瞬間、翔の頭の中が急に熱くなる。決してやましいことを考えているのではない。だが、そういう免疫が全くない翔にとって女性の家に存在しているという事実だけで緊張で体が強張ってしまう。


 どこかいい香りがしたのは部屋の匂いか、彼女の匂いか、それとも寝ているこのベットからか。


「でも、自分みたいな余所者を。なんで」


「だって、あのまま放置しておくわけにはいきませんし。何か問題を起こしたなら憲兵隊に引き渡せますけど何もしてませんし……」


 そう言いながら、若干俯きながら頬を染めている彼女を少し翔は愛らしいと思ってしまった。


「それで、ギルドに置いておくわけにも行かず。結局私の家に運び込むことになってしまって……運ぶ時恥ずかしかった…」


「すみません、本当……」


 一体自分はどのように運ばれていたのだろう。気絶していたことを大いに後悔している翔である。


 そして、この目の前で赤面しているエルフ少女の正体を知らなくてはならないと同時に思った。何はともあれ、この世界で今のところ一番世話になっている人物である。


「すみません、あの」


「はい、なんですか」


「あの、お名前を伺ってよろしいでしょうか?」


 顔をあげた彼女の翡翠色の透き通った目がまっすぐこちらを見据える。その視線に思わず身構えてしまう翔だが、しばらくして、彼女の薄桜色の唇がゆっくり開く。


「……そちらの方から、名乗るのが礼儀ではないでしょうか?」


 失念していた。確かに、彼女のいう通りだ。これだけ世話をかけておいて、自分から名乗らないのは無礼というものだろう。


 軽く息を吸い込んだ。


「……今一色いまいしき しょうです」


「リーフェ=アルステインです」


 どうぞ、よろしくお願いします。

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