やぶれた手帳

ENISHI

やぶれた手帳

祖母はいつも祈っていた

俺はその理由を知りたいとも思わなかったし、祖母もわざわざ話すようなことはなかった。ただやせ細って小さくなった体をさらに縮こめて、意味があるのか、ないのか、わからぬ言葉を唱えていた。その表情はシワだらけでわかったもんじゃなかった。俺はその姿をあまり好ましくは思っていなかった。多分祖母はそれに気づいていて俺がいるのに気がつくと、よいしょっと言いながら立ち上がって俺に笑いかけてくれた。若いんだからいっぱい食べなさいとか、怪我や病気はないかとか、色々言ってきた。でも学校のことを全く聞いてこない祖母の隣は、他の家族の近くにいるより気が楽だった。だから俺は祖母の家に入り浸っていた。


ある日、祖母が倒れたと連絡があった。倒れる前日も会っていたがいつもと変わらぬ様子だったので驚いたが病院に行ったら案外元気そうな様子で拍子抜けした。

「風邪をこじらせちゃったみたいでね、ちょっとだけ入院することになったの」

祖母はいたずらっぽく笑ってそういった。両親もおじさんたちも仕事が忙しいので姉と俺で着替えやら何やらを持っていくことになった。祖母は前日の片づけが終わっていなくて部屋が散らかっていることを気にかけていたがタンスの近くに一通り着替えの入ったリュックがあるからそれを持ってきてほしいとお願いされた。やけに準備がいいなと言ったら災害に備えて非常持ち出し用にと準備していたのだといわれた。


それから鍵を預かって姉と合流し、祖母の家へ向かった。

「あんたいつまで学校休む気なの?」

大学に入って少し明るく染めた髪を軽やかに揺らしながら俺の横を歩いている姉は俺に会うと必ず聞いてくる。姉は家族一番のおせっかい焼きなのだ。祖母が倒れたと聞きつけて、飛んで来たのもそのせいだ。

「髪が伸びるまでかな」

短くかった髪が少し伸びてきた頭を撫でて、俺は答えた。

「あ、そう。それならそれでもいいけど、あんまり周りに心配かけないでよ?」

「別に心配かけてないよ」

パン

言い終わるやいなや、後頭部を持っていた小さいバックで殴られた。

「なんだよ」

「べ、つ、に。いいからとっとと行くわよ。日が暮れちゃう」

そう言って姉はつかつかと歩いて行ってしまう。


俺はしばらく学校に行っていなかった。上級生に「生意気に髪を伸ばしてんじゃねえよ」といわれて絡まれたのがきっかけだった。俺も大人しく、はい、そうですね、とある程度短くすればよかったのだが、なにぶん面倒くさがりだったため無視していたのがよくなかった。ある日、再三の忠告も無視した俺に、むかついた先輩がはさみを持って襲ってきた。その時、俺が抵抗したために先輩のはさみは髪だけでなく俺の耳をも裂いた。事件は学校中に広まったらしい。俺は耳を裂かれた痛さより、先輩のおびえた表情が記憶にこびりついて離れなくなった。同級生から聞かされた噂によると、先輩の推薦は今回の事件で取り消されたらしかった。俺は本当にくだらないなと思った。心の底から。そして好奇心から色々聞いてくるクラスメイトの対応をしたり、勝手に悲劇のヒロインにまつりあげられたり、奇異の目にさらされるのはごめんだった。それまでも割とふらふらしていてサボったりもしていたが、事件のあとから俺は学校に全く行っていない。元凶となった長く伸ばした髪も今更切り落として坊主にしても何の意味もないことだった。


祖母の家について鍵を使うのは不思議な感覚だった。家の中に入ってもなぜか祖母の家に来た気がしなかった。でも匂いはいつも祖母がたくお香のそれだった。それだけで少し安心した。姉は誰もいない家の中にお邪魔しまーすと声をかけながら中に入っていった。


最初のころは俺も、お邪魔します っていって入っていたことを思い出した。だがいつのまにか言わなくなった。耳を怪我して初めて祖母にあいに来たときは、何となくお邪魔しますと言って入った。すると祖母も珍しく玄関の方まで出迎えてくれた。怪我をしていたのは伝えていたのだが出迎えてくれた祖母は丸刈りにした姿を見てびっくりした表情をした。それでもすぐにいつも通りにっこり笑って迎えてくれた。


仏壇のある部屋は祖母の言った通り片付けの最中で古い手紙や写真、洋服などのはいった箱が床に出してあった。最近祖母は早めの大掃除なのといって、ものの整理や掃除をしていた。姉は珍しいものを見つけたとばかりに、散らばった箱を開けて、広げてみたりし始めた。さっきは日が暮れると言っていたのに。俺はお目当てのリュックサックを探した。祖母の言う通りの場所にあったのでそんなに時間もかからなかった。

「見つけたぞ、リュック」


姉の方を見て声をかけると、姉は一つの箱を手に固まっていた。中には薄汚いボロボロの服が入っていた。

なんだよそれ。寄っていくと姉はおじいちゃんのだといった。へー、ときのない返事をしたらキッと睨まれてしまった。

「え、なんだよ。」

たじろいでそういった俺に

「知らないの?おばあちゃんが熱心にお祈りしていたの。」

と聞いてきた

「それは知ってるよ。いつもなんか唱えてたやつだろ。」

「知らないの?って聞いたのはその理由よ。」

すっと立つとずかずかと歩いて行っていつも祖母が祈っている仏壇の方から黒くて古い手帳を持ってきた

渡されるがまま中を見てみるがそこには何も書いてなかった

「なに?これ。」

姉が手を伸ばし最初のページを開いてみせた。1ページ目はやぶれた跡があった

よくわからないという顔で見ると、姉はため息を一つついて俺が知ろうとしなかった話を始めた。

渡された手帳は祖父のものだ。戦争に行く前、祖母が祖父にわたした。

戻ってきたのはこの手帳と軍服だけだった。祖母は血がこびりついた軍服はほとんど触らぬまま仕舞い込み、手帳は仏壇にずっと置いていたそうだ。遺品を受け取って手帳を開き祖母は自分のせいだと泣き崩れたそうだ。先ほど見た破られた1ページ目には祖母が無事を祈ったメッセージをかいていたそうだ。そのページが破られていようがいまいが祖父の生死は変わらなかったと家族も言ったし、誰がどう考えてもそうだ。しかし全く使われていない手帳は祖母を絶望させるには十分だったらしい。もっと気持ちをこめていたら。そもそもそれを願ってはいけない時代、その罰を受けたのではないか。祖母はずっと苦しんでいたらしかった。1ページ目が破られた理由は検閲で引っかかったか、祖父が手帳を守るために1ページ目だけ捨ててしまったのではないかと言われているそうだ。姉も祖父の軍服は初めて見たのだという。確かにあれがどんなものか知るともう一度見てみたい。姉に見てもいいかと聞くとこちらに渡してくれた。ボロボロだがたたまれた状態できちんと箱に入っていた。俺はそっと触れてみた。教科書の中だけの世界。展示のショーケースの向こう側の世界。何となく別の世界のことに思っていた事が本当に昔あったことなのだと急に実感した。手を引っ込めようとしたとき胸ポケットに他と違った感触がした。わずかな違いだったので普段なら気が付かないくらいの違いだった。けれど指先に電流が走ったかのように感じた。よく見るとポケットがふさがれている。他の縫製と違って少し不恰好に縫われている。縫ってある糸はもろく崩れる寸前だった。横から何してんの?と声をかけられたがその時すでにポケットは開いていた。


そこには紙の切れ端が折りたたんで入っていた。何の切れ端かはすぐにわかった。さっきまで見ていた黒い手帳の切れ端だった。祖母のものらしき「どうかご無事で」という文字の隣に筆跡もインクも違うメッセージがあった。横から姉ものぞいて驚いているのが感じ取れた。


祖母に見せなければ。俺は切れ端と黒い手帳をひっつかんで走り出した。後ろから姉の声がした気がしたがなんて言ったのかは聞き取れなかった。


病院の中でなんども看護師さんに注意されたが気にせず走った。

「ばあちゃん!」

祖母の病室について 乱暴に扉を開けると祖母は目を見開いて何事かと扉の方を見、さらに汗だくの俺をみて「どうしたの?」と戸惑いつつ声をかけた。

そんな祖母にちかよって切れ端と手帳を渡した。

「じいちゃんはもってたよ

ずっと胸にしまってたんだ、帰りたかったんだ

だから検閲で引っかかるページをちぎっていたんだ

じいちゃんが帰ってこなかったのはあのページがちぎれたせいじゃない

全部・・・誰が悪かったか俺わかんねーけど

ばあちゃんのせいじゃないから」

一気にまくしたてた後、思い出したかのごとく全速力した反動が来てせき込んでしまった。

祖母は心配した表情に一瞬なったがすぐ微笑んで

「あせらなくてもここにいますよ。そんなに走ってきて、汗だくじゃない。まあまあ、ジュースでも飲む?」

と穏やかに言った。落ち着いて切れ端を見た祖母は涙を流して「見つけてくれてありがとう」と言った。その様子から察するにずいぶん前に気持ちの整理はできていたらしかった。何となく触れずらい話題だったから家族みんな祖母が吹っ切れていたことを知らなかったのかもしれない。でも祖父をおもう気持ちは変わっていなかった。祈っていた理由がわかった今は苦手だった祖母が祈る姿も違って見えるのではないかと思った。


それからおれは祖母の横に座って話をした。毎日会って話していたけどその日はどこかいつもと違っていた気がする。しばらくして姉がリュックを持ってきた。いつもなら小言の一つでも言いそうな姉は祖母からジュースを受け取るとうれしそうにしていた。そこからは3人で話をした。祖母は姉に若いんだからいっぱい食べなさいとか怪我や病気はないかとかおれにいうのと同じようなことを言っていて当たり前だけど姉も祖母の孫なんだと思った。よく考えてみれば姉のおせっかいは祖母ゆずりなのかもしれない。珍しく昔の話もした。父さんやおじさんおばさんの子どものころの話も、俺たちの知らなかった祖父の天然なエピソードも聞いた。祖母は俺が一番祖父に似ているといった。坊主にした時に祖父が化けて出てきたかとびっくりしたらしい。


面会時間の終わりが近づいて俺たちはまた明日も来ると約束をして帰ろうとした。すると祖母はちょっと戸惑いながら俺に向かって「もう痛くない?」と聞いてきた。とっさに何のことか分から無かったが、後ろから姉が小さな声で「みみ」と言ったので「ああ、もう大丈夫」と答えた。それでも祖母は心配そうな表情を崩さなかった。姉の方を見たが姉も困った顔をしていた。沈黙がしばらく続いた。「触ってみる?」俺は祖母にそういった。祖母はびっくりした顔をしていた。ドアの方からふたたび祖母のベットへ近づいていって少しいびつな左耳を近づけた。祖母はそっと腕をのばした。祖母の家い行くといつもするお香の香りがした。しわくちゃな手は 優しく耳にふれた。沈黙が訪れ、何か言わないとなと思った。でてきたのはわれながらくだらない提案だった


「髪触ってみる?ちょっと伸びて来ちゃったけど短くても案外さわり心地がいいんだよ」


何気ない一言だったはずだ。でも気が付いたら祖母は泣いていた。姉も俺もびっくりして急に具合が悪くなったのかと思ったが、祖母は何でもないのと言って泣きながら笑った。切れ端を見せたときよりずっと涙を流していた。面会時間は終わっていたが姉は祖母の背中をさすり、俺は祖母に頭を撫でてもらった。


次の日、祖母は死んだ。風邪を引いたのは嘘だったらしい。なんかよくわからない病気にかかっていてそろそろだったらしい。入院セットも用意していたわけだ。大掃除だってほんとは終活だったのだ。つくづく何も知らねえなあと思ったけど今更だ。父さんもおじさんもおばさんも知らなかったそうだ。


「あんた、もう逃げ場ないわよ」

全身黒い服に身を包んで、少し腫れぼったい目をした姉が後ろからやってきた

「なんのだよ」

分かっていたが聞き返した。そして姉も分かってるでしょというように無視して話を続けた。

「ばあちゃん死んじゃったからでしょ。いっつもあそこに逃げてたじゃない」

祖母譲りの心配性は健在だった。

「そうだね」

今まで何も言わなかった祖母も、本当は心配していたのだろうな、と思ったら決心はついた。

「出席日数今からでも足りるかな」

「さんぶんのいちまでは平気よ。それに理由が理由だから融通もきくだろうし、最終手段私が頼みに言ってもいいのよ」

姉は卒業生だ。優等生だったから先生たちにも気に入られている。事の発端となった先輩も姉のことが好きだったがこっぴどく振られたらしい。姉はそれも事件の要因なのではと気にしていたがそんなことはないと俺は思っている。きっと先輩は弟だとは気が付いてない。そもそも姉がもてるのもいまだに信じられないがそれは言わないでおこう。

「姉ちゃんに出てきてもらうのは最終手段だな、カッコ悪いし」

「そう、私は きにしないからね。」

姉はすこし嬉しそうにそういって建物の方に戻っていった。遠ざかる足音を聞きながら

「ありがとう」

と言ったが聞こえたかどうかは分からない。それでもいいと思った。気持ちも言葉もすれ違ってなかなか伝わらない一族にふさわしいなと思った。祖母と手帳の切れ端は今煙になって天にのぼって行った。


パチパチと爆ぜる音がする。

作戦の合間。火の番をしながら黒い手帳をながめている男がいた

「おう、お疲れさん。」

「あ、ああ、おつかれ。」

「また見てんのか?何でその手帳使わないんだよ」

手帳の中に何も記入していないのは皆に不思議がられる。

「使ったらもったいないだろう?」

少し笑いながら言うと

「何だそれ、観賞用の手帳か?贅沢なもんだな。」

と言いながら隣に同僚が座った。

「可愛い妻の贈り物だ」

「あーなるほど。お熱いことで。」

「羨ましいか?」

「あーはいはい、そんなこそばゆぅ~い話は結構毛だらけ猫灰だらけだ」

「俺らは泥だらけだけどな」

「違いないな。ん?でも1まい目ちぎってんじゃねーかよ」

「あぁ、それはここに入ってる」

俺の軍服の胸ポケットはふたが開かないように縫い付けてあった

「胸ポケット? 縫い付けてんのか?」

「妻が1まい目にどうか御無事でって書いてくれたんだが検閲がこわくて。」

「あー、そりゃ確かに見せない方がいいな。回収されるかもな。」

「それに何となくだが守ってくれそうな気がして。」

俺は妻を思いだした。

「おまえそれ癖だよな。」

といって頭をかき上げるしぐさをされた。

「ああ、無意識だったな。」

「いいおとこはしぐさまでさまになってるねえ、ああうらやましい」


見送りの時、妻はずっと不安げな表情を隠せていなかった。手帳だってあなたはすぐうっかりするから忘れないように…とくれたものだった。人一倍心配性な人だ。その心中を思うとやるせない思いがこみ上げた。なにかこの人を笑わせるようなことを言えないだろうか。頭をひねってみたが出てきたのはこんな言葉だった。

「髪触ってみますか?軍に行くから短くしたけど、短くても案外さわり心地がいいんですよ」

われながらくだらなすぎる言葉だったとおもった。妻はぽかんとしていた。俺は苦笑いしながらいやあとか、なんとか言いながら頬をかいていたらすっと手があたまに伸びてきた

「本当ですね、きもちいいです」

と妻が言いながら頭を撫でていた。触ってみるかと言った俺の方が驚いてしまった。妻はしばらくすると撫でるのをやめてまっすぐ俺を見た。

「また触らせていただけないでしょうか」

そういった妻は少し照れたようないたずらっぽい笑みだった。

「ええ、おやくそくします」

私は笑ってそう答えた。妻からもらった手帳はずっと希望だった。戦争が終わったら戦争から帰ったら、まず妻と出かける予定を記そう。子どもの好物をメモしてお土産リストをつくろう。思い出もここに記そう。手帳がいっぱいになったら2冊目3冊目と増やしていこう。そしていつか希望の手帳がいらない未来を子供たちと歩んでいこう。


妻が書いた「ご無事で」という文字の隣につづった「必ず」という決意を再度誓うようそっと胸ポケットをおさえた。

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