【幕間】
春の宵。
故郷である街に、男は帰ってきた。
「……懐かしい気配だな」
柔らかな風の匂いに、目を細める。はためくぼろぼろのコートは、どこもひどく汚れていた。
「もう、三年だってのに。諦めの悪いヤツがいるんだな」
藍色に沈んでいく空。
浮かび上がる街灯。
行き交う人々。
見慣れた景色は変わらず、自身の心は変わってしまった。
失われたものへの代償。
悲嘆にくれる刻は、とうに過ぎた。
いや、まだ諦めるには早いらしい。
光明は残されている。
その思いがけない幸運に、男は強気に笑う。
「どうやら……俺も、まだ見限られたわけじゃないしい」
同時刻。
春とはいえ、夜はまだ肌寒い。濡れた前髪から冷えた雫が落ちてくる。
軽く袿を引っかけただけの格好で、漣は文机の脇に視線を落とした。
将棋盤ほどの大きさで、底の浅い盥には水が張ってある。手の中で、色のついた碁石ほどの小石をもてあそぶ。その姿は扇情的だが、本人としては不精しているだけだ。
事実、周辺は相も変わらず乱雑に散らかった空間だが、局の主はこれが一番機能的だと信じている。
就寝前の沐浴と占術は、漣の日課だ。
的中率は苑依と比べるだけ無意味だった。大半は外れるが、漣は気にしない。むしろ、そのために占じる。予見した未来を変えるために。
漣の個人的な見解だが、苑依のような精度の高い【星詠み】は意味がない。知ったところで災難を回避できないし、無理にねじ曲げようとすれば、反動でこちらがとばっちりを食う。
人が『運命』と呼ぶ、無限に張り巡らした因果の糸。特に『彼女』が絡むと、占術が乱れる。元の気質なのか、異世界の住人だからなのかは、わからない。天帝が決めたとされる寸分の違わぬ人々の宿命。ひとりひとりの紡ぐ因果の糸は、蜘蛛の巣のように絡み合っている。全体像を知り得ない漣は、案外、そのことを楽しんでいた。
ただ人の干渉でも、ほんの少しだけ道を変えられることを知ったから。
占術のために意識を研ぎ澄ます最中、遠くで慌てた声が耳に届く。
「お師匠さま、お師匠さま!」
床板を激しく踏み鳴らす足音が迫ってきても、漣は無関心だった。揺れることのない水盤を凝視していると、几帳から弟子が飛び出してくる。
「大変です! 【御門家】からの早文が……あいたッ!」
踏みつけた料紙に滑って、几帳ごと倒れた。漣は視線さえ向けずに答える。
「そこに置いといてくれ」
その言葉と同時に、宗真は勢いよく起きあがった。しっかり握っていた文を見せつけてくる。
「お師匠さま、【御門家】からの早文なんです!」
「あとで見るよ」
「ここでそんなことしたら、他の文と混じって行方がわからなくなるでしょう!? いい加減、柚月さまの片付けを期待しないでください! それに、文使いが返事を持って帰るようにとのご指示ですから、緊急の言伝です!」
「……わかったよ、文をくれ」
痛いところを突いてくる弟子に根負けした漣は手を差し出す。
「どうせ政務での愚痴か、新しい側室をよこせとかのくだらない用件だろ」
ぶつぶつと文句を零しながら、文に目を通す。
その横で、弟子の顔色が何故か青ざめていく。
「こんな時間に早文ということは……もしや、ご当主の御身に何か……ッ!?」
「落ち着け。あんな浄めすぎな場所で血が流れたら、もう少し【氣】が乱れる。警護する人間は、年貢泥棒と言って差し支えないほど大勢いるし、大体、ただの賊にあっさり殺される人間を当主を指名した覚えはない」
きっぱりと否定すると、宗真は眉をハの字に寄せた。上目遣いにしゅんとした様子は、まさに飼い主の許しを待つ仔犬である。
「それは、そうですけど……」
「…………」
漣は、呆れた心地で宗真を見つめた。
どうも、この弟子は他人の言葉を信じすぎる。術者として側に置いたのは間違いだったかもしれない。何でも素直に鵜呑みにしすぎる。疑うという単語すら知らないのでは?
これでは先行きが不安である。彼が独り立ちする暁には、自分の跡目として全ての権限を譲るつもりなのに。
「あ、あの……なら、柚月さまは、どこかご加減でも悪いのでしょうか?」
おずおずとした問いに、漣は少しだけ片眉をつり上げた。
「先ほど、お師匠さまの言いつけで柚月さまをお迎えにあがったら、いつもと様子が違うようで……顔が赤かったような。ご本人は何でもないとおっしゃられていましたが、風邪でも召されたら大変です。そもそも、庭で何してたんです? わざわざ人払いまでして……」
不思議そうに首を傾げる宗真を、漣はじっと見つめ続けた。
問われた身としては、どこから説明するか考えていただけである。それなのに、視線に気付いた弟子は素早く頭を下げた。
「も、申し訳ありません! ですぎたことを……はうッ!」
予想通り、額をゴンッと派手に床板へと打ちつける。
「失礼します!」
ぶつけた場所を押さえ、転がるように局を去った。
まだ何も言ってないのに。
宗真が恐縮するほど、漣は彼を疎んじてはいない。むしろ、内心では感心していたりする。
あの気難しい彼女の笑顔を、いとも簡単に引き出せるのだから。
自分には、決して真似できない芸当だ。
当然だろうなと思う。
自分の欲のために、彼女を呼び寄せた。理不尽な要求を突きつけているのは漣自身。彼女に心を開いてほしいと願うのが、そもそもの間違いだ。
泣かせないようにするだけで精一杯。宗真のように、穏やかな表情をさせるのは至難の技だ。
思い出すのは、むきになって噛みついてくる少女。
山猫のように警戒心が強く、容易に他人に心を触れさせない。そのくせ、たまに驚くほどの無防備な姿を見せるから、かなり厄介だ。
というより、困っていた。どうにも距離をうまく保てない。山猫は野生の気性だから、不用意に触れても馴れ合いにしかならないのに。
からかうと、いつだって全力で反論してくる。いちいち反応する彼女が面白くて、つい怒らせてしまうのだ。笑顔なんて、数えきれるほどしか見ていない。
近頃、さらに負担を重ねたことでえらく嫌われた。ご機嫌とり程度に折れてはみたが、あれしきの小細工で全てを許されるとも思わない。
自然と苦笑が洩れる。
もっとも、そんな気持ちさえ彼女にとっては迷惑な話だろうが。
漣の心に呼応するように目の前にある水盤が、揺らめいた。
「…………」
片膝をついた姿勢のまま、じっとさざめく水をみつめること数秒。漣は手に持っていた、五色の小石を水盤の中に入れる。
蒼、白、朱、黒、黄色の石たちは、ぶつかり合い、水流に揺られて落ちていく。
その時、漣はわずかに目を瞠る。蒼の石がひび割れ、あとの石は水中に沈んでいった。
鮮やかに輝く朱の石を残したまま。
「もう偶然では片付けられないな……そろそろ潮時か」
誰がいるわけでもないのに、そっと呟いた。
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