甘える日

「……ん」


 ふと目を開けて、部屋に差し込む西日の強さに驚いた。

 身体は相変わらず重たくて、結局汗も拭かないで再び眠ってしまったみたいだから、身動ぎするたびに服がぺとぺとと肌を吸う。今度こそ起きて身体拭かなきゃ、とぼんやり考えたあたりで「おや?」と首を傾げた。


 そういえば確か、意識が落ちる前にマキちゃんから電話があったんじゃなかったっけ? 電話がかかってきたのが三時過ぎ。マキちゃんの家からも学校からもこの家まで三十分もかからない。外はすっかりオレンジ色で、マキちゃんがうちへ来るならとっくにチャイムが鳴っているはずだ。

 けれどマキちゃんを待っていたはずの私はいつの間にか意識が飛んでて、気づけば電話がかかってきてから二時間近くは経っている。


 チャイムが鳴ったら気づくだろうし、それなのに今の今まで私がすっかり眠っていたということはマキちゃんは結局来ていない?


「……綾女さんに止められた、とかならいいけど」


 会えないのは寂しいけど、親として綾女さんがマキちゃんを止めたのならそれは正しいし、私としてもありがたい。でも、電話の勢い込んだマキちゃんの様子を思い返すに、そのくらいでは納得しないような気もする。


 行けない理由が出来たなら何かしら連絡が入っているはず、とスマホに手を伸ばす。アプリの通知も着信履歴も新しいものはなく、眠る前にマキちゃんとやり取りしたままだった。


「じ、事件とか事故とかじゃ、ないよね?」


 まさか、と思いつつも最悪の可能性が脳裏に浮かんで、私の背を病気とは違う寒気が撫でる。

 電話する? 探しに行く? いやもう電話しながら探しに行けばいいよね?

 とスマホを握ったままベッドから飛び出そうとして思いっきり転げ落ちた。ドスッと鈍い音と共に床に転がって動けないまま壁を睨みつけて「私病人だったわ」と思い出す。


 結局丸一日ベッドの上で怠惰を貪り熱に侵された身体は意思に反して重く軋んで動かず、起き上がろうにも腕に力が入らない。

 でも、もしもマキちゃんの身に何かあったら? 私がこうして情けなく這いつくばっている間にマキちゃんが病院に運ばれてるかもしれない。いや病院ならまだいい。マキちゃんは可愛いから、もしも何かの事件に巻き込まれていたとしたら、たとえ警察沙汰になって無事救出されたとしても、それまでの間に何をされるかわからない。


 私が、行かないと。身体が重くても、熱で頭が沸騰してても、這ってでもマキちゃんを探さなくちゃ。私が、わたしが、わたし、が――。


 ガチャ。


「靜さん? なんかおっきい音がしたけどだいじょー……ぶ?」


 …………………………………………あれ?


 寝室のドアを開けてひょこっと顔を出したマキちゃんと目が合う。予想外の自体に私はぽかんと口を開けてマキちゃんを見上げることしか出来ないが、マキちゃんはマキちゃんで、なぜかベッドから転げ落ちて掛け布団を引きずったまま扉に向かって這いずっていた私を見て目が点になっている。


「ま、マキちゃん?」


「……戻って」


「え?」


「なにしてたのかわかんないけど、ベッドに戻って。靜さんはびょーきなんだから、寝てなきゃダメでしょ! はやく!」


「ぃ、いや、私は」


「はやく!」


「は、はい!」


 状況が飲み込めないまま私はマキちゃんの指示に従って落ちたばかりのベッドにもう一度よじ登る。重たい身体と力の入らない手足に難儀しているとマキちゃんが手を貸して私をベッドに押し上げてくれた。


「ごめん、ありがと」


「…………」


 マキちゃんは無言のままぷぅっと頬を膨らませ、ジト目で睨んでくる。病人がベッドを抜け出そうとしたことにだいぶご立腹の様子だった。


「ぁ、あの、マキちゃん?」


「……なに?」


「怒ってる?」


「……ん」


 コク、と小さく頷く。お、怒ってらっしゃる!


「靜さんは、はやく治したくないの?」


「え?」


「わたし、はやく靜さんに良くなってほしいよ。いっしょにお出かけしたいし、たくさん遊びに来たいし、かっ――カノジョには、元気でいてほしい、し」


 最後だけちょっと目を逸らし気味に、でも言葉はまっすぐに。マキちゃんは心配と怒りの混ざった複雑な目で私を睨みながら言う。


「……ごめんね」


 正直、びっくりした。

 あれだけ想いを受け入れられないと駄々をこねた私に怒りもしなかった彼女が、ただ私の身体を案じて本気で怒っている。嬉しいと同時に少し恥じ入るような気持ちもあって、こんな小さな子に心配をかけたことは情けなく思う。けど、それより何より。


「無事でよかった」


 私が重い手をゆっくり持ち上げて、そっとマキちゃんの頬を撫でる。


「無事……?」


 キョトンと首を傾げたマキちゃんに、ベッドから転げ落ちていた理由を説明する。


「……あの、靜さん、わたし鍵もってる、よ?」


「だよね」


 そう、合鍵を渡してあるのだからチャイムを鳴らさずに入ってくることだって出来る。私が寝ているかもしれないとマキちゃんが静かに入ってきたのだとしたら、気づかなくてもなんの不思議もないのだ。

 熱でぼーっとしていた上に寝起きだったこともあって、至極当たり前の可能性に気づかなかった私がバカなのだ。


「でも、そっか……えへへ」


「ん、どしたの?」


「靜さんがびょーきでもわたしのこと探そうとしてくれたの、嬉しい」


「……ま、彼女だからね」


「うん、カノジョだもんね」


 噛みしめるように口の中で小さく「かのじょ、かのじょ」と繰り返して、そのたびに嬉しそうにえへへとはにかむマキちゃんがもう銀河級に可愛い。


「あ、でもダメだよマキちゃん。来てくれたのは嬉しいけど、電話でも言ったでしょ? 感染ったら大変なんだから、今日はもう帰らなきゃダメ」


「靜さんだってダメ」


「え?」


 ダメ出し?

 マキちゃんに言われたダメの意味がわからずにぽかんとしていると、マキちゃんがちょっぴり得意げに胸を張る。


「びょーきなんだから、ちゃんとカノジョを頼らないとダメだからね」


 ……そっか、彼女だから、いいのか。頼っても、許されるのか。

 そう思ったら、途端に安心感がこみ上げてきて胸を突き上げるような感情が迸って、自分が笑ってるのか泣いてるのかよくわからなくなる。感情の切り替えができなくなったみたいにぐちゃぐちゃの心が、私の頭を優しく撫でる小さな手を握らせた。


「靜さん?」


 手を取られたマキちゃんが不思議そうにこちらを見返したけど、私は上手に微笑むことも出来ない。

 ただ、マキちゃんがここにいてくれることを、ようやく素直に嬉しいと思えて、喜びが胸に満ちれば、何がその空白を作っていたのかも理解する。


「………………さみしかった」


 ほんとはずっと寂しくて、心細くて、でも誰かを頼ってはいけないと思っていた。

 でもマキちゃんはこうして私を「おねーさん」ではなく「カノジョ」にしてくれて、縋ることを簡単に許す。


「靜さんには、わたしがいるから」


「うん、嬉しい」


「ふふ、あまえんぼの靜さんもかわいい」


「…………」


 あやすようにぽふぽふと頭を撫でられて、ほんの少し残っていた年上のプライドが恥ずかしがったけれど、今はそれよりその手の温かさが嬉しい。

 不快な発熱とは違う、柔らかくて優しい温もり。私の方が幼くなっているような錯覚が、どんどん私を素直にさせる。


「いっぱい甘えて、ね?」


「ん」


 ついつい素直に頷いてしまう。マキちゃんの不思議な包容力に、私は童心が戻ってきたような気がして、その小さくて大きな、包み込むような手の温もりに頬ずりした。

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