良薬
「…………け、っほ……ぅあー」
目を開けて枕元の時計に目をやると午後三時を回っていた。結構たっぷりと眠っていたらしい。それ自体は良かったのだろうけれど、全身汗でべとべとだし、そのくせ口の中はからからでとにかく不快指数が高い。
完全に風邪っぴきである。朝目覚めてすぐ、不調を自覚して測った体温計の表示は三十八度七分。昔から寝てれば治るタイプの療法で生きてきた私としては病院に駆け込むほどではないが、そうは言ってもしんどい。眠ったことで多少は回復したかもしれないが、未だ熱でぼーっとする頭は重たく、熱はあまり下がった気がしない。
身体が弱い方ではないので大学に入学したあたりから高熱を伴う風邪とは無縁だったのもしんどさに拍車をかけている気がする。大人になって初めての風邪は、子供の頃はこんなにしんどかったっけ? と体力と精神の陰りを感じさせた。これが歳か。
朝の時点で遥さんには電話で欠勤を伝えてある。恐らく明日も復帰できなそうであるとも伝えてあるし、その辺り遥さんは身内に甘いので心配されども怒られる不安はない。佐川くんあたりには嫌味のひとつくらい言われるかもしれないが、それはそれで彼なりの親愛と心配の証だろうなと思えるので心配していない。
だから本当に風邪を治すこと、自分の体調のことだけを心配していればいい、実に気ままな病人暮らしのはずなのだけど。
「……ぅぅ、さむ」
熱に加え、半日布団にくるまっていて汗だってかいているのにぶるると身震いして、思わず口をついたのは実際の体温とは真逆の言葉だった。だって、さむい。
さむいし、寂しい。
子供の頃に何度かこうして重めの風邪を患った時は、家族の誰かが世話を焼いてくれたし、一人で寝ている間も、誰かが帰ってくるまでの辛抱だと我慢に期限を設けて意識を前向けることが出来ていた。
けれど現在の私はぐーたら気味なフリーターとはいえ、一人暮らしの社会人であることは覆せない。甘やかしてもらう前提ではなく、自分のために自分自身を鼓舞して回復の努力をしなければいけない。いけない、のだけど。
「……むり……しぬ……」
一人なのをいいことに弱音ばかりが漏れる。風邪を引いたことについては遥さんにしか連絡してない。バイト仲間たちには伝わるかもしれないが、マキちゃんもいつせも知らないことだしお見舞いは期待できない。というか、社会人も四年目とあっては安易に体調不良程度で人を頼るなという変なプライドもある。
他人を頼らないという意地だけを守るので精一杯で、誰にも聞かれない弱音はぽんぽんこぼれる。言えば言うだけ自分が弱気になるとわかっていても、引っ込んではくれない。
弱音くらい吐いていないと、熱に浮かされて自分を見失いそうだった。
「……汗拭いて着替えなきゃ」
ぼーっと天井を見つめて弱音を吐き散らしているうちにぼーっとしていた頭がいくらかハッキリしてきて、なんとか行動の指針を示し始める。いくら身体が重かろうと、自分のことは自分でどうにかしなくてはならないのだ。気ままな一人暮らしの弊害である。
「ぅぅ……」
よろよろとベッドから身を起こすと同時に、スマホがぴこんとメッセージアプリの着信音を鳴らす。そちらを見ずに手を伸ばしたらむくんだように感じる指が上手くスマホを掴めずに取り落とした。
「ちっ」
舌打ちも出るというものだ。落ち込むと同時に苛立ちも沸き起こる。ネガティブな感情は連鎖しがちだ。
ぐらぐらする頭をなるべく揺らさないようにゆっくりと床に落ちたスマホを拾い上げる。画面にはアプリの新着メッセージ表示と、送り主の名前が……あ、マキちゃんだ。
『今日あそびにいってもいーい?』
というメッセージと共に「いー?」と歯を見せて首を傾げた自撮りが添付されている。あああ可愛いいいい。
すぐおいで、と返信しかけていやいやと頭を振る。いかんいかん、今日の私は体調極悪なのだった。私の体調が悪いだけならどうでもいいが、風邪は感染るものだ。マキちゃんにこんなツラい思いをさせる訳にはいかない。
少しだけ、ほんの少しだけ寂しい気持ちに駆られながらも、私は熱に溶かされ切る前の最後の理性を動員して『今日は風邪引き中だからダメです。マキちゃんも体調に気をつけて、手洗いうがいはしっかりするよーに』と精一杯「おねーさん」な言葉を返しておいた。
起き上がっているのがだんだんキツくなってきて、枕元に置いていたペットボトルのスポーツ飲料に口をつけてから、ぱたっと再びベッドに倒れ込む。
寒気がして軽い震えが走るが、毛布をひっかぶっていると汗をかくし暑さも感じる。体温の感じ方が程よくイカれていて、自分が身体的に壊れていくような錯覚すら覚えていた。
と、枕元のスマホが再び音を立てて振動する。今度はすぐに止まらず、着信音を繰り返し響かせている。頭の動作が緩くて、どうやら電話がかかってきているらしいと気づくまでに数秒を要した。
懲りずに手だけを伸ばしてスマホを探る。幸い今度は掴むことができた、のだけど、思いっきり握った拍子に指が通話ボタンに触れたらしく、画面にはマキちゃんの名前と通話中の文字が表示されていた。
「あー……マキちゃ、こほっ、マキちゃん?」
『靜さん! あの、風邪ひいたの?』
「うん……そりゃもう、ばっちりと」
口が上手く回らず、返事はゆっくりと細切れになる。スポーツ飲料で潤したはずの喉が、もう既に掠れていた。
『大丈夫? お見舞い、いく?』
「ダメって言ったでしょ……感染ったら大変なんだから」
『でも、靜さん声が』
「いいから、マキちゃんは余計な心配しないで帰りなさい」
『余計じゃないもん!』
思わずスマホを取り落としそうになった。マキちゃんの大声に頭がぐわぐわと揺れる。
「ちょ、ごめ、マキちゃん、静かに……」
『靜さんが悪いんだから! 余計とか、そんなこと言うからダメなの!』
「わかった、わかったから静かに喋って」
『もういい! 行く!』
「え? なに、どこ」
ブツッ。
「……えー」
一瞬、熱からくる頭痛も忘れて手元のスマホを凝視してしまった。行くって、もしかしてウチに来るってこと? いや、ダメだって言ったじゃん。
「ていうか、何をあんなに怒ってたんだろ」
家に来ちゃダメって言ったのがそんなにいけなかっただろうか。いや、だってマキちゃんに風邪を感染すなんて、私にとっては万に一つでもあってはいけないことなのだから、仕方ないじゃないか。
「……考えてても、しょーがないかな」
マキちゃんの家からここまではそう遠くない。徒歩通学らしいから、学校からでもあまり変わらないだろう。とにかくマキちゃんが来たらちゃんと追い返さないと。一時的に合鍵を取り上げてでも家に帰さないと、私が口でダメと言うだけじゃ何度でも戻ってきちゃいそうだ。
「……ふふ」
戻ってきてくれそうだ、という想像にちょっぴり身体が軽くなる。電話越しのマキちゃんはお怒りだったけれど、私を心配してくれているのが伝わってきた。私にとって大事な人が、私を大事に想ってくれる。それを感じられることに安堵している自分のしょーもなさに呆れた。
なにより、玄関先で、ほんの一瞬、追い返すだけのやり取りだとしても。
今日もマキちゃんに会えるのが、結局私の一番の薬になりそうな気がした。
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