今は、いつでも

「コホン」


 油断すると即座に茹だってしまいそうな頭をどうにか正常に保つため、私はわざとらしい咳払いで場を仕切り直す意思を伝えた。


「靜さん、喉、いたいの?」


「……や、平気」


「よかった」


 はああ天使いいい。ソファへ移動した私の膝の上に座ったご機嫌なマキちゃんに笑顔を向けられて律したばかりの表情筋がすぐさま弛緩していく。

 って、いやいやそうじゃない、そうじゃないんだって。いけないいけないと頭を振ってなんとか話すべき内容に向けて頭と表情を切り替える。


「あのね、マキちゃん」


「えへへー」


 ぎゅうっと背中に腕を回されて、マキちゃんの体温に包まれる。興奮で脳みそが耳から溶け出しそうになるのをどうにかこらえて、両肩を掴んで引き剥がした。


「こら、真面目な話だよ」


「や、もっと!」


「ダメだってば」


「ダメじゃない! 彼女だもん、いっぱいぎゅってする。アナンちゃんも、彼女になったらたくさんぎゅーって出来るよって言ってたもん」


 待てアナンちゃんその情報のソースは何だ。どっから出た。


「もっと!」


「…………お話、終わったらね」


「うー」


 マキちゃんはまだ名残惜しそうだったが、私が提示したそれが譲歩の限界だと察したらしく不満そうに口を尖らせながらも私に密着していた上体を起こして座り直した。……まぁ、結局膝の上だから、十分近いし体温も吐息も感じちゃうんだけど、そのことは極力意識の外に追い出しておく。


「あのねマキちゃん、確かに私はマキちゃんのことが好きで、お付き合いしてくださいって告白もしたよ」


「わたしも靜さんのこと好きー」


「嬉しいけどちょっと待って、今そういう話じゃないから」


 油断も隙もない。ちょっと気を緩めるとすぐさま抱きついて好き好きモードに入ってしまうマキちゃんが愛おしくもちょっと厄介だ。私の理性の弱さは昨晩証明されてしまったし、あまり心のブレーキに負担をかけないで欲しい。我ながらいつタガが外れるかわかったものじゃない。


「それで、お互いに気持ちを確かめて、おづっ、……お、お付き合い、することになったわけだけど」


 緊張しすぎて激しく噛んだが、幸いマキちゃんは突っ込んでこなかった。よかった、指摘されたら折れてた。


「私達がお付き合いしているのは、他の人には秘密です」


「どうして?」


 一瞬きょとんとしたあと、不服そうにぷくっと頬が膨らむ。そんな姿も愛らしいのだけど、さすがに今度は内容が内容だけに私も「かわいい……好き……」と呟くに留まった。留まってない。


「じゃなくて。まず、私とマキちゃんは女同士。これが、世の中ではあまり普通じゃないのは、わかるよね?」


「うん、どーせーあいしゃはまいのりてぃーなんだよね」


「お、おう……そうだけど、マキちゃんよくそんな言葉知ってたね」


「アナンちゃんが教えてくれた!」


 すげーなアナンちゃん。マキちゃんの口からしか聞いたこと無いけど、本当にマキちゃんの同級生? 実は親戚のお姉さんをお友達みたいに呼んでるとかじゃないよね?


「まぁ、私自身はそんな差別に屈したくはないんだけど……それとこれとは別。やましい関係だと後ろ指さされないためにも、お付き合いのことは基本的に秘密にしていきましょう」


「うしろ、ゆび?」


「あー、ええっと……」


 どう言ったら伝わるだろうか。学校でも職場でも、基本的にマイノリティーは立場が弱くなりがちなのが今の社会だ。だからカミングアウトには相応の覚悟が必要だと思うし、私はともかくマキちゃんはその辺りを自己責任で見定めるにはまだ幼すぎる。


 子供扱いしない、したくないという私の気持ちは変わらないけれど、事実としてマキちゃんはまだ小学五年生で社会的には責任能力も認められない歳だ。それにマキちゃんが同性愛者なのか両性愛者なのか、はたまた何かのイレギュラーで今回だけ女である私を意識してしまった異性愛者なのか、それについては適切な年齢に至った彼女が自分で判断するしかなくて、いまからいたずらに同性愛者のレッテルを貼られるのは避けて欲しい。


 私自身が男より女が好きな両性愛者、と自分をハッキリ認識できたのは高校を出てからだったし、今でも積極的にそれをオープンにしていく気にはなれない。差別自体は撤廃されて欲しいし愛情は性別に寄らないフラットな価値観で語っていいものだと思うけれど……それには傷を負う覚悟が必要なのが現状なのも事実だ。


 自分でその判断が出来ない年齢の子に、大人である私がその開示を後押ししてしまう訳にはいかない。マキちゃん自身が望んでも、そう望ませてしまった責任が、私にはある。


 ……ただ、それをどう伝えるべきか。さっきのマキちゃんの発音から察するに、同性愛者もマイノリティーも、それに由来する様々な差別の実情も、マキちゃんはきちんと理解しているわけじゃないんだろう。けれどそれを一から十まで説明するのも、全て理解してもらおうというのも酷な話だ。

 かといって、差別されるから、と言うのも嫌だ。それはマキちゃん自身に、自分が間違っているという意識を与えかねない。そんなことが言いたいわけじゃない、誰かを好きになる自由は疑わないで欲しい。


「……あのね、女の子が女のひとを好きになるのって、男の子を好きになるより大変なことなんだ」


 本人ではなく周囲にとって、というのが本当のところだけど、ひとまずそこは曖昧にしておく。マキちゃんは「そうなの?」というキョトン顔だが、私はそれらしく頷いてみせた。


「結婚制度もないし、ずっと一緒にいるのって大変なの。しかも、私とマキちゃんはその、歳が離れてるでしょ? あんなことしておいてなんだけど、本当は大人はマキちゃんみたいに小さな子を好きになるのはあんまりよくないの」


「……んー」


 よくわからないとも、納得しかねるとも取れる反応に苦笑する。まぁ、それが当たり前の反応だと思う。私の言い方も根本的な部分はオブラートだし、マキちゃんの年頃で根深い差別やLGBTの社会的地位なんてものを一から十まで理解されてもそれはそれで怖いし。


 でも同性、という部分はともかく年齢差があって、それでも私がマキちゃんを愛してしまったことについて、私には責任があるのだということは理解して欲しい。実際問題おおっぴらには出来ないし、それさえ理解していればマキちゃんが大人になったときも、きっと私のせいにできるだろう。


「だから、マキちゃんに告白した私は、実は悪い人なんです」


「靜さんは悪い人じゃないよ」


「マキちゃんがそう思ってくれるのは嬉しいよ。でも、大人の世界ではやっちゃいけないことをしたのは本当なの。だからお願い、このことはみんなには秘密にして欲しいの」


「……秘密?」


「そう、秘密。マキちゃんが大人になったら、ちゃんとみんなに言ってもいいよ。でも、それまではダメ」


「誰にも、言っちゃダメなの?」


「それは……あー……」


 本音を言えば好ましくはない、けれど私は返事を躊躇ってしまった。秘密を抱えるというのは大変なことだし、相談できる相手だって必要だ。

 ……というか、それ以前に。


「マキちゃん、私に告白したこと、誰かに話したりした?」


「アナンちゃんには言っちゃった……」


 手遅れじゃん。

 いやでも、聞く限りではアナンちゃんという子はマキちゃんの同級生とは思えないくらいしっかり者っぽいし、同性愛者についても一般常識レベルの理解度はあるみたいだったし、そういう意味ではむしろ良かった、のか?


「じゃあ、アナンちゃんだけ。私達のことを話していいのは、アナンちゃんと二人の時だけにしてくれないかな」


「……どうしても?」


「私はマキちゃんの彼女だから、絶対なんて言わないよ。あくまでもお願いするだけ。マキちゃんがどうしても嫌なら断ってもいいし、それでマキちゃんを嫌いには絶対ならない。でも、私の意見として、マキちゃんと私のお付き合いは、あまりたくさんの人に言わない方がいいと思ってる」


 ズルい言い方かもしれないけど、嘘のつもりはない。マキちゃんがどうしても言いたいというなら、それを止める権利は私にはない。その時はマキちゃんの周囲にいるのが理解ある人達であることを天に祈るだけだ。


「……靜さんが、そうして欲しいなら我慢する」


「ごめんね、ありがとう」


「……じゃあ、じゃあね!」


「うん?」


「靜さんのお願い、きくから、わたしのお願いもきいてほしいの」


「もちろん。私にできることなら何でも」


「ほんと?」


 私が頷くと沈んでいたマキちゃんの表情がパッと輝く。


「じ、じゃあね、あの、ね」


 期待に目をきらきらさせながらも、マキちゃんはもじもじと恥ずかしそうに言いよどむ。あれ、私早まった? そんなに恥ずかしいお願いされるの? それ高確率で私も恥ずかしいやつじゃない?


「ま、」


「ま?」


「また遊びに来ても、いい……?」


 ………………。

 っは、いけない、あまりにいじらしくて意識が飛んでた。


「マキちゃん」


「な、なに?」


「ちょっと待っててね」


 私は膝の上からマキちゃんを下ろすと寝室に舞い戻った。そしてベッド脇の小机の引き出しからとあるものを拾い上げると、リビングにとって返す。


「靜さん、あ、あのね、ダメだったら、我慢するから」


「はい、これ」


 おずおずと何か言いかけたマキちゃんの前に、持ってきたソレを差し出すとマキちゃんの目つきが不安から驚きに変わり、そして興奮に輝いた。


「これ……!」


「ん、この部屋の合鍵。マキちゃんが来たいときに来ていいよ」


「やったぁ!」


 ぴょんっとひと跳ねして喜びを表現したマキちゃんは、私の顔と手元の鍵の間で何度も視線を往復させながら、こらえきれない様子でにまにまと口元を緩めている。うんうん、素直に目いっぱい喜んでくれておねーさんも嬉しいぞ。


 元々、頭の片隅にはその考えはあったのだ。おおっぴらに出来ない関係である以上は、二人きりになれるこの部屋での時間は大事にしたかったし、外で恋人として振る舞えない分、マキちゃんがそれを望んだ時にそう振る舞える場所が必要だった。だから、合鍵を渡すタイミングについては少し考えていた。……こんなに早いとは、思わなかったけど。


「毎日来るね!」


「やーそれは……私も仕事あるし」


 バイトが昼からの日なんかは帰宅が夜中になるし、そんな時間までマキちゃんを待たせるわけにはいかない。


「じゃあ、じゃあ、その日はお店に行く!」


「嬉しいけど、毎日はだめだよ。ちゃんとお友達やお母さんとの時間も大事にしなきゃ」


 合鍵を渡したのはそのためでもある。ちゃんと約束して会うのもいいけれど、その時にしか会えないからって他の予定を諦めて欲しくはない。いつでも会えるから、今日は友だちと遊ぶ。それくらいの方が、子供のお付き合いとしてはきっと健全なはずだと思う。


「靜さんは、わたしと会いたくないの……?」


「そんな訳ないでしょ」


「だってぇ……」


「でもダメ。恋人って特別かもしれないけどね、友達だって家族だって特別だし、大事なんだよ。だから、私と会うために他のことを我慢しちゃうなら、私はマキちゃんとお付き合いできない」


「やだ!」


 慌てたマキちゃんが私の手をひしっと握る。今にも泣きそうな目で見つめられると罪悪感に苛まれる、けど、これは譲れない条件だ。


 ……だって、きっと私とマキちゃんは、一生隣にはいられない。


 この幸せが永遠だなんて思えるほど、私はもう幼くない。恋愛経験に乏しかろうとも、私とマキちゃんの関係はきっとそう長く続くものじゃないってことくらいわかってる。


 この子が十八歳、いや結婚年齢まで引き下げて十六歳になる時と考えても、その時には私は三十路を過ぎている。世代が違えば価値観だって違う。今は良くても、その頃にはマキちゃんにとって私の魅力なんて半減どころじゃなく暴落していたって驚かない。


 いま楽しいからって私ばかりを優先して友達との関係を疎かにすれば、いつか別れが来た時にマキちゃんは一人ぼっちだ。

 私だって友達が多いワケじゃないが、それでもいつせと別れた時にはそんな少ない友人たちが支えてくれたし、今だってそのいつせや店長に頼りながら生きている。だからマキちゃんにも、そういう繋がりを、私と天秤にかけるのではなくそれぞれ大事に育んで欲しい。


「ちゃんと、お友達との時間も大事にしてね?」


「……わかった」


「いい子」


 ちゅっとほっぺにキスすると「んっ!」と唇が突き出される。もうほっぺじゃ物足りないらしい。


「……マキちゃんのそういうとこは、悪い子だと思う」


 言いながらも、私はむーっと突き出されたその唇に自分の唇を押し付ける。唇から伝わる心地よい痺れに小さく身震いして、すぐに離れた。……ほんと、マキちゃんとのキスは強烈すぎていけない。この感触はすっかり私の身体に刻まれてしまったみたいだ。


「……靜さんがキスしてくれるなら、悪い子でもいい」


「いい子にしてたらもっとしてあげる」


「いい子にする!」


 単純な反応に私が思わず小さく吹き出すと「なんで笑うのー!」と一瞬不満げになったマキちゃんもすぐにつられて破顔した。


 私達は大人と子供だとしても、いつか、そう遠くない未来に終わってしまう関係だとしても、今この瞬間だけは。

 私達は確かに、等身大の恋人同士だ。

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