恋をしている

「はい、どうぞ」


「……うん」


 自分の分のコーヒーと一緒に、ホットミルクがなみなみと注がれたマグカップをリビングのテーブルに置く。マキちゃんは控えめに顎を引いて頷いたけど、手を付けようとはしない。本当なら何か声をかけて安心させてあげるべきなのかもしれないけれど、目の前の女の子を不安にさせている張本人が何を言ったところで逆効果だろう。それに、私自身も未だに、マキちゃんに言うべき言葉がきちんと整理整頓できているわけではなくて、情けないことに既にいっぱいいっぱいだ。


 でも、口を開くのは私からじゃないと。何より、どう言えばいいかが纏まっていなくても、何を言わなくちゃいけないのかはもう、決めているのだし。


「あのね」


「っ」


 びくっと、俯いたままのマキちゃんが肩を跳ねさせた。そんな風にさせてしまっていることを申し訳なく思うのと同時に、その震えが私に突き放される恐怖から来ているのだとしたら、そんなに想われているんだなぁと優越感にも似た気持ちが滲みそうになっていけないいけないと内心で首を振った。そんな浮ついた気持ちでするべき話では、きっとない。


「まず、謝っておきたいの。寝ているマキちゃんに、その……キスしたこと」


「……やっぱり、したんだ」


「うん、ごめんなさい。私、マキちゃんとは付き合えないって昨日も言ったのに、それなのにこんなことしたのは、いけなかったと思ってる。我慢できなかった、なんて、最低の理由だよね」


 マキちゃんは無言のまま、ぶんぶんと首を横に振る。それは優しさから出たものか、それとも私に拒絶されることを恐れて、半ば強迫観念から出た否定なのだろうか。今の私は、それをどちらとも見定められない。あるいは両方なのかも。


「正直に言えばね、公園でマキちゃんとした約束も、忘れてた。恋人になったらキスする、って約束したけど、そんなことはあり得ないって、思ってたの」


「…………」


 ひどい話だ。マキちゃんはいつだって真剣に気持ちをぶつけてくれたのに、私はそれを裏切り続けていた。


「マキちゃんは子供だから、ってずっと心の何処かで思ってた。私ね、マキちゃんの気持ちにちゃんと向き合ってたつもりで、全然そうじゃなかった」


 誰かを好きになったことなんて、いつせの時以来一度もない。だから、という訳でもないけれど、私は人を好きになるってことに鈍感で、その気持ちがどれだけ切実なものだったかを忘れていた。いや、覚えていたのに、その感覚を忘れていたというべきか。

 だから、マキちゃんの気持ちと向き合っているつもりで、一方的に不誠実な返事をして、それをなんとも思っていなかった。絶対に受け入れるつもりのない告白を、友達から、なんて濁しても彼女のためだなんて思い込んでいた。


 そんなの、真剣な気持ちに対する裏切りでしか、ないのに。


「だから余計に、だったのかな。昨日マキちゃんにキスされて、すごくビックリして、すごく嬉しかったの」


「……ぇ」


 じっと俯いて話を聞いていたマキちゃんが、思わずといった様子で顔を上げた。目には今にも溢れそうなほどの涙が揺れていて、その涙を掬ってあげられないのがもどかしい。


「それで私ね、自分でもわけがわからなくて、昨夜は泣いちゃった。私もマキちゃんが好きなのに、どうして付き合っちゃいけないのかって、もう自分で自分のことがわからなくなっちゃって」


 誰に嘘をついて、何を誤魔化して、どこに意地を張っていたのか。そういうのを全部見失って、マキちゃんが好きで、大事で、すぐそばで触れていたい気持ちだけがハッキリと残ってしまう。


「私はこんなんだけど、一応立場としては大人でさ、マキちゃんと恋愛するのに、お互いの気持ちだけじゃどうしようもないことってあると思うんだ」


 そもそも手を出したら犯罪だし。年の差があって同性で、おまけに私は定職にもついていない、一人でふらふらと生きて靄のように漂う人生を送る気満々だったダメ人間だ。周囲の理解を得るのだって難しいし、たとえお互いに好きだとしても、付き合うことが正しいと思えない理由なんていくらでもある。


「でも、ね」


 じゃあ私に告白してくれたマキちゃんは何か間違っていたのか、とか。私の奥底の暗い部分を照らしてくれた彼女に惹かれるのは悪いことか、とか。間違っていたとして、悪かったとして、そもそも。


 恋って、正しいからするわけじゃないじゃん、とか。


「もう私、ほんとにマキちゃんが好きなの。大好き、だから」


 彼女の将来のためとか、私の名誉のためとか、付き合わない言い訳はいくらでもある。


「もし、もしもマキちゃんがこんな、マキちゃんの気持ちを受け止められないで、逃げ回って、みっともなく泣いて、勝手にキスとかするような私でもいいなら」


 この期に及んで自分を守るような予防線を張る自分に呆れる。でも、これが私の精一杯。身体ばっかり大人になって、無責任な子供の生き方を引きずってきてしまった私にできるのは、結局虚勢を取り払って正直になることだけ。


「もしかしたら、私と一緒にいることで誰かに何か言われるかもしれない。マキちゃんが傷つくことがあるかもしれない。そういう時、私に何ができるかもわからない」


 恥ずかしさより情けなさで顔を背けたくなる自分を必死に鼓舞してマキちゃんを見つめ続ける。彼女は私の一言一言をじっと黙って聞いている。潤んだ目が、震える唇が、いったいどんな感情を湛えているのか、私には推し量れない。


 だけどマキちゃんはそんな壁を超えて気持ちを伝えてくれた。だから、私も。


「それでも私が、マキちゃんを好きなのだけは、絶対に本当、だから」


 うまく息ができなくて、喘ぐように空気を必死に取り込む。極限の緊張から涙に滲んだ視界で、それでも大好きな女の子から目を逸らさない。彼女がいつだって、まっすぐに私を見つめてくれたように、私も。


「だから、私と――お付き合い、してくれませんか」


 マキちゃんの目を見つめていた視線ごと、テーブルに額をこすりつける勢いで頭を下げた。

 勝算は十分だと思っていた。あんなに私を好きだと言ってくれたマキちゃんなら、きっと受け入れてくれる、これはただ、ケジメの問題だって直前まで思っていた。


 なのに。

 今はただ、顔を上げるのが怖い。マキちゃんがどんな顔で、どんな目で私を見ているのか知るのが怖い。情けない、ズルい私をさらけ出して、それでもマキちゃんが私を好きだと言ってくれる保証なんてどこにも無かったんだと思い知る。


 告白って、こんなに怖いんだ。


 マキちゃんはすごいな。私達が友達でもない距離感のときに、こんな恐怖と戦ってでも気持ちを伝えてくれたんだ。

 マキちゃんなら受け入れてくれる。そう信じたいけれど、緊張で強張った頭の中で使い慣れたネガティブな脳だけが軽快に活動して「でも彼女には断る権利があるんだよ」って当たり前の現実を突きつけてくる。


 がたっと音がして、脳内で悲鳴を上げていた私が現実に戻ってくる。音の主は立ち上がったマキちゃんだった。


 え、あれ、これ頭上げていいの? っていうかもしかしてこのまま黙って出てっちゃったりしないよね? などと不安になっている間に、マキちゃんの体重相応な軽い足音がとっとっと鳴ってこちらへ近づいてくる。テーブルを挟んで対面に座っていたマキちゃんはテーブルをぐるっと回り込んで、頭を上げるタイミングを見失った私の隣に立ち止まった。


「それって」


「え?」


 ふわっと、撫でるような、添えるような手付きでマキちゃんの小さな手が私に触れる。頭から頬へ滑った手が、私の顔を上向かせた。


「がまん、しなくていいってこと?」


「ん、っ……!」


 キス、だ。

 それはもう、間違いなく、紛れもなく、言い訳のしようもなく。

 公園でしたような誤魔化し混じりのそれではなく、昨夜のような勢い任せのものでもなく、私がしていた一方的な口吸いでもない。


 マキちゃんの唇が私を求めるから、私はそれに応えようと必死に唇を押し付ける。私がこらえきれずにその唇を吸い上げれば、マキちゃんは一瞬だけ身を引いて、すぐに負けじと私の唇に吸い付いてくる。

 それは確かに双方向のキスで、一方的なものではなくて、触れれば触れるほど私達の中身を交換しているような感覚になる。


「ん、ふっ、ふぁ、や――」


「っ、マキちゃ……んむ、ぁむ」


「しず、か、さっ、ん」


 名前を呼んで、唇を吸う。深いキスじゃない、あくまでも触れるだけ、吸うだけの、外側だけのキス。

 なのに、こんなに身体の内側が満たされていくのはどうしてだろう。


「っは、ぁ、はむ、ふっ」


「す、きっ……しずか、さ、すきぃ……っ!」


「ふぁむ、っん、ふぁし、もぉ……」


 わたしも、の四文字を口にするのももどかしくて、マキちゃんの唇を食みながら息だけを漏らす。息継ぎをするより口づけを続けたくて、互いに呼吸がおろそかになっていく。脳に酸素が足りていないみたいに意識がぼんやりと溶けていく中でマキちゃんの感触だけが鮮明で、考えることをやめた私はその味にどんどん没頭していく。


「――――…………〜〜〜〜っ、っはぁぁぁ!」


「っぷぁ、っは、っは」


 それでも限界というのはくるもので。

 ひときわ長い口吻のあと、ついに私達は空気を求めて身を離した。


「っは、っはぁ、はあ……」


「はっ、はっ、ぇほっ!」


 お互いに浅い呼吸を繰り返しながら息苦しさとは別の理由で潤んだ目で、恥じらいだけではない色の朱が差したお互いの顔を見つめ合う。

 き、もちよかった……やばい、マキちゃんのキス、良すぎる。


「わたしの、だから」


「え?」


「もう、靜さんの唇は、わたしのだから。他の人と、こんなの、しちゃダメ、なんだから」


 独占欲を隠さないマキちゃんの言葉。熱に浮かされた瞳の奥に吸い込まれそうな真っ直ぐさに、ああ私もうこの子のものだわ、って自覚してしまう。こんな小さな子を相手にそんな風に感じてしまっている時点で、年長者として圧倒的に敗北している気がしたけどもうなんだか、そんなことは些細な問題でしかないよね、とかそんな風に思っちゃう自分が死ぬほどポジティブで呆れ返る。


「しない。マキちゃん以外の誰ともしないから、マキちゃんも、私だけとして」


「靜さんとしか、したくないもん」


「私も、マキちゃんとじゃなきゃ嫌だよ」


 もう一度、本当に一瞬、触れるだけのキス。それだけで、さっきまで一時離れていた唇同士が歓喜にふるえて、電流のような刺激が全身を巡っていく。


「……った」


「ん?」


 マキちゃんが俯いて小さく呟いた。聞かせるつもりはなさそうな呟きだったけれど、私が首を傾げるとマキちゃんは改めて視線を合わせて言った。


「やった……靜さんの、彼女だぁ」


 ほっぺがとろけるみたいにふにゃふにゃの笑顔で言うものだから、私の方も恥じらいより喜びが勝った。ああ、どんなに情けなくても、告白してよかった。


「私も、マキちゃんの彼女だわ……」


「彼女と彼女だね」


「うん、彼女と彼女だ」


「えへへっ」


「ふふ、ふふふ」


 何が可笑しいのかもよくわからない会話で、バカみたいにニコニコして、ばかみたいに幸せで笑い合う。


 ああ、私いま、恋してるなぁ。

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