傷をつけるなんて

「〜〜♪」


 上機嫌のマキちゃんと手を繋いで歩きながら私は先程の佐川くんの言葉について考えていた。


 失恋もさせないまま――。


「……逃げる、ねぇ」


「んー?」


「あ、ううん、なんでもない。おうち、まだ遠いの?」


「もーすぐ!」


「そか」


 そうかぁ、もうすぐかぁ、と現実逃避気味に呻く。


 逃げる、なんてそんなつもりは無かった。私なんかに恋をしている事実が、マキちゃんの未来とか将来ってものにプラスにはたらくとは思えないから、その恋を平穏無事に終わらせてあげることは年長者の責任だと思っていた。


 子供だから。そんな、当人ではいくら手を伸ばしても背伸びをしても届かない理由で自分の言葉や気持ちを否定されることが、どれだけ痛くて、苦しいものか、私はよく知っているから。だから、私はマキちゃんにそんな思いをさせないために――。


「――させないために、結局拒絶して、逃げてるのかな」


 並んで歩いてもマキちゃんとは身長差があるのをいいことに、私は彼女の耳に届かないくらいの声で呟く。


 マキちゃんのお母さんに会って、娘に関わるなと拒絶されれば、私はもう今後マキちゃんと関係を持つことはないだろう。恋愛関係はもちろんのこと、友人としても、お店の可愛いお客さんとしても。

 それはもちろん寂しいことだ。たとえそれがどんなものであれ、いま目の前にあるものがふっと消えてしまって、二度と手に入らないというのは寂寥を覚えるに足ることだ。


 でも、私はその寂しさに耐えようと思った。マキちゃんが正しい道へ進むために、間違った道に転がり落ちないように。普通の壁を、知らず知らず崩してしまわないように。


 ……そうさせた責任を、負わなくていいように?


 マキちゃんが私を好きになって、そのことが数年後、十数年後、数十年後までの彼女に影響を与えてしまったら? 恨まれても、嫌われても多分私は平気だけど、もしもそれでマキちゃんが傷ついて生きていくとしたら、きっと私は彼女に恋された自分を殺したくなる気がする。


 何も出来ない、ふわふわと生きているだけの私が、誰かの人生に傷をつけるなんて。


 大袈裟? 違う。だって。


『あんたねぇ、まだ子供のくせにそうやって――』


 あの日の母の言葉に呑んだ悔し涙が。


『ねぇ、あたしと付き合ってくれない?』


 あの日いつせの言葉に高鳴った心臓の音が。


 今の私を形作る根っこのひとつなのは確実で。だから私は、自分がマキちゃんの人生の中の「そういう存在」になることを避けていたのかもしれない。

 それは佐川くんの言うように、責任からの逃避なのだろうか。じゃあ、どうすれば私は、マキちゃんの恋に責任を果たしたことになるんだろう。


 失恋もさせないまま――。


 何度も頭に反響するその言葉に、鈍く頭痛すら覚え始めたころ。


「ついたよー」


「へ? あ、ああここ」


 マキちゃんにくいっと手を引かれて危うく通り過ぎそうになった建物の前で足を止める。

 三階建てのアパートは同じ作りの建物が周囲にも他に二棟見えて、おそらく死角になる向こう側にももう一棟ありそうだ。マキちゃんの案内に従って階段を上がり、二階の左側、201号室の扉の前に並んで立つ。


 ……チャイム、私が鳴らした方がいいのかな?


「ただいまー」


「あ、ちょ」


 私がインターホンに指を伸ばそうかとわずかに手を持ち上げた時にはもう、マキちゃんがばばーんと扉を開け放っていた。

 マキちゃんとのこと、どんな態度を取ればいいか、未だ決めかねているのに、開かれてしまった扉の先で靴を放り出して「どうしたの?」ってまんまるな目で私を見返してくるマキちゃんに「ちょっとタイム」なんて言えるはずもなく。


「お、お邪魔します」


 私らしくもない戸惑いと緊張に翻弄されながら、私に告白してきた小学生の女の子の家の玄関に足を踏み入れた。……いや、うん、それはさすがに意識しすぎだ。


「って、あれ。マキちゃん、お母さんは?」


「あれー?」


 言われて初めて気付いたというようにマキちゃんがきょろきょろと廊下を見回す。

 リビングへ伸びる短い廊下は、玄関扉が閉まるとかなり薄暗い。照明をつけていない、というだけではなく、正面にあるリビングのガラス戸からも照明の光が漏れていない。人がいる雰囲気ではなかった。


「お買い物にでも行ってるのかな?」


「んー……?」


 マキちゃんは首を傾げつつ、おかしいなーといった様子ながらリビングのガラス戸を引いた。


「ん、なにこれ」


 リビングの扉が開くなりじわりと漂ってきた酸味のある臭いに思わず顔をしかめたのも一瞬のこと。


「お母さん!?」


 マキちゃんの驚いた声に弾かれたように、私はリビングに飛び込んだ。

 薄暗いリビングに置かれたダイニングテーブルに突っ伏すようにして女性が倒れている。マキちゃんがその腰のあたりにくっついて「お母さん、お母さん!」と涙目でしきりに女性を呼んでいた。


 恐る恐る女性に近づくと酸っぱい臭いの正体も判明する。女性は、撒き散らした胃液の池に頭から突っ込む形でそこに突っ伏していた。


 嘔吐? なにかヤバイ病気とか、いや、そうじゃなくても呼吸とか、喉詰まったらマズイんじゃ。


「あの、大丈夫ですか! ……うっ」


 とにかく気道を確保しようとその背中を引いて椅子の背もたれにもたせると胃液の臭いが強まって思わず顔を背けたくなった。


「意識はありますか! あの、聞こえますか? 聞こえたら返事を」


 どうしよう、こういう時ってどうするのが正解? 救急車、ええと携帯どこのポケットだっけ、っていうか救急車って何番? えっと、それとも先に応急処置とか――。


「う……」


 私の呼びかけに女性がわずかに呻いてぴくりとまぶたを動かした。よかった、死んでない! と不謹慎な言葉選びで安堵しつつもう一度「大丈夫ですか!」と呼びかける。と――。


「……きぼぢわるい……のみすぎ、た……」


「……はい?」


 女性の酸っぱい口から、そんな言葉が転がり落ちた。

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