ちゅーじゃなくて、キス

「それは多分、恋愛対象に見られてない、と思う」


 がーん。


 思わず箸で掴んでいたきゅうりの漬物をぽろりとごはんの上に取り落とす。給食って、どうしてこうちょっと渋いおかずがくっついてくるんだろう、とごはんの上のしわっとしたきゅうりを見て思った。

 ていうか、え。


「見られて……」


「ない」


 ないんです、と念を押すように頷かれる。二度目のがーんがわたしの頭をくらくらと揺さぶった。


「だ、だっておでこにちゅーしてくれた」


「おでこにキスするのは、祝福とか、そういう意味だから」


「しゅくふく」


「祝福」


 同じ言葉を口にしているはずなのに、わたしのそれとアナンちゃんのそれはなんだか全然違って聞こえた。そもそも、ちゅーじゃなくてキスって自然に言えるところも、私とアナンちゃんの大人っぽさ度の差を見せつけられた気がする。


 いや、私だっておねーさんには「キスして」って言ったのだ。別に、言おうと思って言えないわけじゃない。でもそれはドラマで見たちゅーをキスって言ってたから、大人っぽいから、おねーさんが大人だから、そんなちょっぴり背伸びした気持ちが言わせたことで、だからアナンちゃんみたいに、それがなんでもないんだって顔であたりまえにキスって言うのは、わたしにはできない。


 給食の時間。わたしたちの学校では教室から出なければ誰と机をくっつけて食べるのも、誰とも食べないのも自由だった。わたしは毎日、いちばんのお友達のアナンちゃんと二人、机を向かい合わせにくっつけて給食を食べる。今日もいつもどおり向かい合って、昨日の初デートの結果を報告した、その矢先の反応だった。


「多分だけど、そのお姉さんはまだ、マキちゃんのことをそういう風に意識してくれてないと、思う」


 少し考えるような隙間を言葉の間に挟みながら、アナンちゃんは言う。


 言葉遣いや雰囲気だけじゃなく、彼女は見た目もわたしよりぐぐっと大人っぽい。肩より少し下まである髪は絶賛伸ばし中らしいけど、真っ黒で、つやつやして、いまでも十分にキレイだ。少しふっくらした唇を本人は嫌がっているけど、それだってなんだか色っぽい。ちゅー……キスをしたら柔らかそうだなって思う。髪と同じ真っ黒な瞳は、でも髪の深くてつやつやした色と違って、ガラス玉みたいにきらきらしてキレイだ。少し眠そうな目元と柔らかそうな唇の組み合わせは、それだけで彼女を年齢以上に大人びて見せるのに、それにこの落ち着いた物腰と透き通った声が加わってちっとも小学生に見えない。とにかく全部が可愛いというよりキレイ系で、わたしと同い年だなんて嘘みたいだ。身長は私のほうが高いのに。


 ……アナンちゃんみたいに大人っぽかったら、おねーさんも私にドキドキしてくれるんだろうか。

 でも、私が今すぐアナンちゃんみたいになれるわけじゃないし。


「じゃあ、どうしたらいいのかな」


「うーん」


 アナンちゃんはわざわざ一度箸を置いて腕を組んで考え込む。なんだかお上品だ。わたしは箸を咥えたまま考え事をしてよく叱られるのに。


「えっと、確認なんだけど」


「うん」


「マキちゃんの好きなおねーさんって、大人の人なんだよね。何歳くらいの人なの?」


「うーんと……」


 何歳だろう。たぶん、二十代……前半くらい? 大人の人は年齢がよくわからない。私達と同じくらいだったら、何年生かもだいたいわかるんだけど。おねーさんはきれいだしかわいいから、見た目よりも少し年上かもしれない。


「んと、たぶんいつせ先生と同じくらい、かな」


「先生と同じ……うん、だったら、やっぱり意識されてない、と思う」


「そんな!」


「でも、チャンスはある」


「ほんと!?」


 アナンちゃんはむむむっとなんだか険しい顔をしながらも小さく頷いた。


「だから、まずは意識してもらうところから、だね」


「意識って……?」


 恋愛対象として意識する。おねーさんのことが好きな気持が、アナンちゃんを好きな気持と違うことは教えてもらったし、その違いも昨日の公園でなんとなくわかった。でも、違うんだってわかってもそれをどう説明したらいいかはわからないし、どうすればおねーさんがその違う感じをわたしに感じてくれるのかもわからない。


「ドキドキさせるの」


「どきどき」


「うん」


 アナンちゃんは頷く。わたしは考える。

 どきどき……ドキドキさせる。おねーさんを。うーん……?


「マキちゃんはさ、どんな時、お姉さんにドキドキして、好きだなって思うの?」


「えっと、笑ってくれたり、撫でてくれたり、手を握ったり、目を合わせたり……」


 多すぎた。おねーさんと一緒だと、だいたいいつもドキドキしている気がする。でも、そういえばつい昨日いちばんドキドキしたのが――。


「ちゅー、してくれた時、とか」


 おでこへのちゅー、キスは、祝福という意味だとアナンちゃんは言った。祝福、という言葉の正しい意味も、おねーさんがそんなキスをわたしにした意味もわからないし、そもそも昨日のわたしはそれを知らなかった。


 でも、たとえそれが、私と同じ好きの気持ちじゃなくても。


 おねーさんの顔がぐっと近づいて、吐く息の熱がわたしに届いて、おねーさんの甘い匂いがすぐそこにあって――少しだけ湿った感触が、おでこにそっと触れて。

 あの瞬間、わたしは確かにとってもドキドキしていた。唇にしてくれなかったことに文句は言ったけれど、半分くらいは恥ずかしかったからだ。


 ドキドキして、ふわふわして、それからとってもぽかぽか幸せになって、だけどきゅっと寂しくて。

 おねーさんがわたしをあんな風に感じてくれたら、それはとっても嬉しい。


「……マキちゃん、真っ赤」


「え! そんなこと、そんな、ちがうよ!」


 慌てて自分のほっぺたを両手で触る。あっつい。だめだめ、こんなの教室のみんなに見られたら恥ずかしい。わたしが慌ててほっぺをぐねぐねもんだりつついたりしてどうにか熱さを逃がそうとするのを、アナンちゃんは珍しく「あはは」と声を出して笑いながら見ていた。もー、アナンちゃんのせいなんだからね!


「マキちゃんがドキドキしたことを、ちょっとずつお姉さんにもしてあげたらいいと、思うな」


「おねーさん、に」


 ちゅー、するのか。おねーさんに、わたしが。


「……いい、かも」


 少しだけ引いていた熱がまたじわじわと顔に集まってくるけど、でもそれはなんだかすごく幸せな想像だった。


 靜おねーさんに、キスをする。私が、自分から。


 そうだ、そうだよ。おねーさんは彼女になったらキスしてくれるって約束した。でも、わたしがおねーさんにキスしちゃいけないなんて、言ってなかったもん。


「して、みようかな」


 ちゅーじゃなくて、キスを。わたしから、おねーさんに。

 そう考えただけでドキドキする。わたしばっかりドキドキさせられるて、おねーさんはずるいなって、そう思った。

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