第8話 蕩然・3
「待って、ポルト」
不意にラバスが手でポルトを制し声を潜めた。
「狩りに挑戦してもいいかな。そこにほら、何かいる」
右手前方、大きな木の幹の向こう側にチラチラと見えているのはシカか何かだろうか。
ラバスは腰に挿した剣を抜き、確かめるように数回空を切る。
「こういうものを使うのは初めてだが、体が覚えているらしい」
身を低く構えると獲物の様子を窺いながらそっと近づき、間合いに入ったところでグンとスピードを上げた。飛び込むような勢いで懐に入り込み一閃する。獣は声もなく力尽きた。
レダの型そのものだった。繰り返し訓練した動きだ。
「もう少し動けはするが、慣れた形は崩さないほうがいい」
獲物を抱えて戻ってきたラバスは独り言のように呟く。
「他人の体でそんなに完璧に動けるもの?練習とかしてないよね?」
「レダの体が覚えているのに任せただけだ。改良を加えるのであれば練習は必要だ」
体の記憶というもので同じように動けるらしい。なんとも羨ましい。この調子なら槍や弓も同じように扱えるのだろう。狩りに関してポルトの出番はなさそうだ。心強くはあるが、何とも言えない理不尽さを感じる。ポルトはどれだけ一生懸命練習しようともあんな風に動けはしないのに、初めての人がレダの完璧さを持っているなんてずるいではないか。ポルトが大好きだったあの流れるような綺麗な動きを、完璧にトレースできるのだ。羨ましいような悔しいような微妙な気持ちになる。
「ええと、解体の仕方はわからない。教えてくれないか」
剣を片手に、もう片手に首を切り落とされたシカをぶらんとぶら下げたまま途方に暮れるラバスがいた。
「そっか」
その様子が何だか滑稽で、思わずふふっと笑みがこぼれた。
「地竜は料理はしない。町の人間はすでに解体されたものしか使っていなかった。旅の途中、レダがやっていたのは知っていたが、見る機会はなかった」
「内臓を取って血をきれいに洗い流すんだ。それは大きいから皮を剥いで小さく切り分けるといい」
説明してやるとラバスはこうか?と首を傾げながら手探りで作業する。レダが急にポンコツになったみたいで面白い。けれど基本的にラバスは器用なのだろう、なんだかんだで上手にこなしていると思う。
「やっと笑った」
作業の手は止めず、こちらを向きもせず、ぽつりとラバスが呟いた。
「え?」
「ポルトがやっと笑った。嬉しい」
大して嬉しそうでもない抑揚のない声で言う。いつもそういう喋り方なのだ。下を向いているから表情はわからない。だが嬉しいと言うのだから嬉しかったのだろう。
(そういえば、ラバスとして相対してから笑うことなんてなかったかもしれない)
警戒していたはずだった。だから笑うことなんてなかった。なのに、いつの間にか少しずつ心を許してしまっているのだ。見た目がレダだということは、ラバスを責める思いと同時に心を解く要因でもある。見慣れた光景にどうしても緊張が緩む。
(ねえレダ、僕は間違ってる?)
憎めばいいのか許せばいいのかわからなくなってきている。
(レダは何を望むの?)
答えを知りたい。もう誰も紐解くことのできないレダの思いを。
「できたぞ、ポルト」
レダがしていたように解体した肉を麻袋に入れてラバスが担ぐ。小さな切れ端をオージの口に放り込むのも同じだ。
「見ていたからな。ずっと、君たちを見ていた。生まれた時から、旅をしている時もずっと」
「ちょっと、怖いね」
再び肩を並べて歩き出す。
しばらく進むと水の音が聞こえてきた。
「川だね。そうか、地図のあの二本線は川だったのか」
水を確保できるのはありがたい。大事な情報だからこそ地図に書き込んであるのだ。他にも似たような線が書いてあったのを思い出し、これはありがたいとブラドに感謝する。字も絵も下手だが必要な情報はしっかり押さえてあるらしい。うまく読み取れるかどうかがミソだ。
「音のする方に向かうよ」
そう言うとラバスは口をへの字に曲げ何とも言えない微妙な表情をした。これはポルトの提案に否定的な感情の時の顔だ。結局否定はしないのだけれど、心の中では歓迎していない時にレダはこういう微妙な顔をする。
「何か問題がある?危険があるなら早めに教えて」
「いや、そうじゃない。ただ、水はあまり得意ではない」
「そうなの?」
「地竜の体はあまり水分を必要としない。食べ物からの摂取ぐらいで十分だ」
「水浴びとかは…」
「しない」
つまり水辺に行く必要もないし、川になど入ったこともないのだろう。
「ラバスにも苦手なものとかあるんだね」
身体能力に優れ、知識もあり、だいたいのことは器用にこなすので、何でもできてしまうイメージがあった。けれどやはり苦手なこともあるのだ。そう思うと妙な親近感が湧く。
「人間の体には水はどうしても必要だからね」
「わかってる。努力する」
「大丈夫、僕が汲んできてあげるから」
川音に近づいていくとやがて木がなくなり視界が開ける。川幅は2、3メートルほどだが流れが急で水深もそこそこありそうだ。入るのは危険だが、川縁で水を汲むぐらいは問題ないだろう。
ポルトは荷物を下ろし水筒だけを手に持って川原の岩伝いに水面に手が届くところまで降りていく。結構な流れがあるだけに、水はきれいに澄んでいてとても冷たかった。汲んだ水で思う存分喉を潤し、減ってしまった分をもう一度汲む。
「おいしい水だよ。ラバスのリュックにも水筒あるから出して」
恐々ながらすぐ後ろまで来ていたラバスに満タンになった水筒を手渡し、空の水筒と交換する。もう一度同じように汲み上げ、ラバスにも飲みなと促した。
流れに突っ込んだ手があまりにも気持ち良くて、ポルトは両の手のひらを合わせて水を汲み、顔を洗う。久しぶりにさっぱりと爽やかな気分になる。
できることならこのまま全身浴びてしまいたいが、もう少し流れの弱いところでないと危険だろう。川伝いに歩けばどこか入れそうなところがあるだろうか。そんな事を考えながら、戻ろうと立ち上がり川に背を向けたその時だった。
水に濡れた足元がずるりと滑る。
やばいと思った時には体のコントロールを失い、水の中だった。激しい流れに翻弄されて、浮かび上がることもままならないまま押し流されていく。足はつかない。どこか岩にでも掴まれないかと手を伸ばしてみるが、何か触っても流される勢いと水の滑りとで掴むことはできなかった。
このまま流されればそのうち浅瀬で引っかかるかもしれない。そんな儚い希望を胸に、とりあえず空気の確保だけしようと水面に顔を上げる努力に徹することにした。体を動かすことは苦手だが、なぜだか泳ぎはわりと得意な方だった。
(大丈夫、平常心だ)
こういう時、慌ててしまうのがいちばんいけない。冷静に状況を判断すれば案外何とかなることもあるものだ。
伸ばした手のひらが水面を感じた。
(こっちが上だ)
水を掻き、顔を上げると水の外に出た。空気を思いっきり吸い込む。
と同時にバチャンと大きな水音が聞こえた。
(えっ?ラバス!?)
大きな音とともに水に落ちる影が見えた。そして、ぐいっとポルトの服が引っ張られた。ラバスが懸命にポルトを引っ張り上げようとしているのはわかったが、これはどう見たって一緒に溺れているとしか思えない。
二人は縺れ合うようにしながら下流に流されていった。
幸いにも流された先に危険な落差などはなく、程なくして流れは緩やかになった。ポルトはラバスを引っ張りながら岸まで泳ぐ。
「はあ、びっくりした」
川原で四つん這いになったラバスはゲホゲホと咽せている。
「駄目だよ、ラバス。泳いだこともない人が無謀なことしちゃ。危うく共倒れじゃないか」
「…だって…」
濡れそぼり限りなく黒に近い色になった濃紺の髪が乱れて顔に張り付き、咽せながらゼエハアと肩で息をする情けない姿に、申し訳ないが笑いが堪えられない。後のことなんて何も気にせず思うままに遊びまわっていた幼い頃を思い出す。
(最近のレダはちょっとカッコつけちゃったりして髪型とか気にしてたからな)
ラバスの飾らなさは幼い頃のレダみたいなのだ。
「まあ無事でよかったよ、お互いに」
トントンと慰めるようにラバスの肩を叩き、ポルトは立ち上がる。これではどちらが溺れた人でどちらが救助した人だかわからない。
「そんなにたくさん流されてはいないな。荷物とオージの所へ戻ろう」
水の滴る服の裾を軽く絞って、川沿いに上流へ向かって歩く。
元の場所に戻ると、オージが2つのリュックの周りをぐるぐると走り回っていた。二人が流されて行ってしまい一体どうしたものかとオロオロとしていたのだろうが、パタパタと走り回る様が何ともおかしくて可愛かった。
「ごめんね、オージ。荷物見張っててくれてありがとう」
戻ってきたポルトを見るとオージは大きな声を上げて飛びついてきた。
「大丈夫、無事だよ。ラバスもね」
ピイピイ鳴くオージをぎゅっと抱きしめる。
火を焚き、びしょ濡れになった服と体を乾かす。まだ少し時間は早いけれど、今日はもうこのままここで終わりにしよう。
ポルトは隣で並んで火にあたるラバスを見た。水が苦手で川に近寄ることすら躊躇したラバスが、ポルトを助けようと飛び込んできてくれたことは驚きだった。
「ねえ、どうしてそこまでして僕を守ろうとするの?自分が死んじゃうかもしれないのに」
「レダの体が泳ぎを覚えてるかもしれないと思って」
「全然駄目だったけど」
「怖くて体だけに任せられなかった」
「怖いのにどうして?わりと躊躇なく飛び込んだよね?」
「ポルトを失う方がもっと怖い」
まるでレダみたいなことを言う、と、そう思った。けれどレダの真似をしているわけじゃない。それはわかる。
「俺は、ここしばらくポルトとレダを見るのが特に気に入っていた。毎日朝から晩まで二人の様子を見て話を聞いて楽しく過ごしていた。この旅だって一体どうなるんだろうって楽しみで後をつけたりしていた。なのにレダが死んでしまった。俺はショックだったんだ」
パチパチと火が爆ぜるのをぼんやりと見つめながらラバスが語り出した内容にポルトは少しゾッとした。けれど何となく理解もした。きっとそれは物語を読む時と似たような感覚だ。登場人物を好きになり、感情移入する。この後どうなるのかと必死でページをめくる。そんな感覚と似ているように思える。
「レダの死を目の前にして、俺はこのままではポルトも死んでしまうと思ったんだ。ポルトが泣くのも見たくなかった。だから、レダの死を隠そうと思った。俺にはそれが可能だと思った。すぐにバレてしまったけど」
「ちょっと待って…」
ポルトはぺたんとその場に座り込んだ。なぜラバスがレダの体を奪ったのか、ずっと理解できなかった。ラバスを知れば知るほどに、レダの体を利用するに至った経緯と目的が見えなくなっていた。ラバスは幼子のように純心で真っ直ぐだ。何かを企んだり画策したり騙したり、そんなことができるやつには見えなかったのだ。
ラバスの話はすとんと腑に落ちた。わからなかった全てがつながる。
「全部僕のためじゃないか」
ポルトを思い、ラバスは自分の体を捨てたのだ。自分の世界の何もかもを捨て、ポルトを助けようとしたのだ。
「俺がしたくてしたことだ。俺の勝手な思いでレダの体をもらってしまったのは申し訳なかった。怒られても仕方がない」
「でも僕は、君のおかげで今もこうして生きてる。知らなかった世界のことが知れて楽しいと思い始めてる。君を憎いと思う気持ちとの矛盾をどうしたらいいのかわからなくなってる。君という存在だけを純粋に見たならば、僕は多分君を好きなんだ」
だから困っている。せめてラバスが嫌なやつだったなら、ただ憎んで敵対できたのに。レダの体を奪ったりしなければ、友達になれたと思うほどいいやつなのだ。
「ねえラバス、僕は君を許すよ」
レダの体を奪ったという憎むべき事実の中にはポルトとレダへの愛情しかなかった。ラバスを憎むべき要素なんてはじめからどこにもなかったのかもしれない。
「できれば元の姿のままで友達になりたかったけどね。仕方がないからレダの体を貸してあげる」
「元の体だと人間の言葉は喋れない。知識はあっても声帯の作りが違うから無理だった。元の体のままでは友達にはなれそうもない。この体になって一番嬉しかったのはこうやってポルトと会話ができたことだ」
「そう、じゃあレダの体を使う意味があったってことだね」
ポルトは立ち上がり、握手の手を差し出した。複雑な思いは全て消え去ったわけではない。だけど全部ここに置いていこうと思う。命懸けで向かってくるラバスの思いを知ったから、ポルトも真っ直ぐにラバスに向き合ってみようと決めたのだ。
ためらうラバスに握手だよと教えてやると、ラバスは両手で大事そうにポルトの手を包み込んだ。
その夜、レダの体に入った時、叫びそうなほどの激痛だったとラバスから聞いた。それでも叫ぶことなく我慢していたのは、ポルトを悲しませたくないというレダの思いだとラバスは受け取ったと言う。
「レダが死を予期していたかどうかはわからないが、そこにはポルトに対する強い思いがあったはずだ。だから俺はその思いを引き継ぎたい。それが体を使わせてもらう時に俺が立てた誓いだ」
闇の中でこっそりと、ポルトは涙を零した。
(僕は2人分の思いで守られている)
ポルトのために、レダもラバスも体を捨てた。激痛を我慢したのはラバスだって同じだ。2人の思いはその体を通してシンクロしているのかもしれない。
———君は今の僕をどう思うだろうか。また悪い癖が始まったと笑うかな。
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