第4話 旅立ち
木のテーブルを挟んでポルトは母親と向き合っていた。壁のロウソクの炎が空気の流れで揺らぐたびに、影が少しだけ震えたように揺れる。テーブルの上ではオージが無邪気に花瓶の花と戯れていた。
「無理だよ、ポルト。その子をうちで世話しようだなんて」
母はため息交じりに言いながらオージの鼻先をツンと人差し指の先っぽで優しくつついた。オージはクプッと小さな声をあげ、今度は母の指と戯れ始める。
「あんただって十分わかってると思うけどさ、この街ではみんなが協力して生きてる。多くの人が嫌だと思うことをあんたがすれば、家族みんなの信用が失われるんだよ。そしたら最悪うちの家族は追放だ。うちの家族があんたと母さん2人だけだったなら、好きにしなって言うんだけどね、他の子を巻き込むわけにはいかないよね。私はあんたの母であるのと同時にあの子達の母でもある」
「うん…」
母の言うことはもっともである。ポルトが落ちこぼれでも、おかしなことをする子でも、容認してくれる懐の深い母であるが、さすがに今回ばかりは受け入れてはくれなかった。こうなることはある程度予想していたのだけれど、改めて面と向かって否定されるのは心が痛い。
「だけどね、私はあんたの母だからさ、あんたがこの子を見捨てられるわけがないこともわかってる」
小さければ可愛いもんだと、母はオージが指を捕まえようとするのをひょいひょいと避けてみたり、時には捕まってあげたりしながら遊んでいる。多分、母のこういうところにポルトは似たのだろうと思う。今すぐ捨ててきなさいと頭ごなしに激怒するような一般的な母ではない。あんたの奇行にはもう慣れたよと母は言うが、そもそも母がそういう人だからポルトは奇行と言われるようなことをするし、母はそれを理解したり同調したりできるのだろう。
オージと遊んでいた母が不意に真剣な眼差しをポルトに向けた。いつでも柔和な表情をしている母の、見たことのない表情だった。
「これはね、あんたがこの子を連れて来る前から考えてたことなんだけどね、旅に出なさい、ポルト」
母の口からそんな言葉が出るとは思わず、ポルトはえっと声を漏らした。
「別にあんたを追い出すとかそんな話じゃないさ。男の子は18になったら狩りだったり、他にもいろんな義務に雁字搦めになる。けど18になるまでは自由なんだよ。旅に出る子だっていないわけじゃない」
「旅……僕が?」
好奇心は人一倍あるのだ、ポルトがこれまで街の外へ出ることを夢見たことだってないわけではない。けれど、身体能力のないポルトは自分にそれができるとは思わなかったし、諦めていた。そういうのはレダみたいに人より優れた強い人がするものだと思い込んでいた。いつかレダに置いて行かれる未来を憂いこそするものの、自分がそうすることなどとても現実的な話ではなかった。群れていない人間など、天竜にとっても地竜にとっても絶好の獲物だ。竜だけでなく小型の動物だって敵になるだろう。他にもポルトの知らない危険がいっぱいあるはずなのだ。安全が確保された街の中で育ったポルトが楽に生きていけるほど自然は緩くないことをポルトは知っている。
そんなポルトの考えを母もわかっているのだろう、小さく頷き、けれど強い視線でポルトを捉える。
「強い子しか外には行けないと思ってるかい?確かにね、それはそうだろうさ。だけど考えてみな、あんたは戦いに向いてないからこそ、生き残るために人一倍の知識を身につけなくちゃいけない。生きるための知恵と経験を武器にしてあんたなりの戦いをするのさ」
「僕の、武器…」
母の言葉は目から鱗だった。人の優劣は強いかどうかで決まる世界なのだ。身体能力が人より劣るポルトは自分には何もないと思っていた。落ちこぼれでお荷物なだけで無価値な人間だと思っていた。どうすれば自分より強い人たちと同じ土俵に立てるのかなんて考えてみたこともなかった。虐げられながらいつお前みたいな役立たずは出て行けと街を追い出されるかと怯えながら日々過ごしていく未来しか見えていなかった。きっと長生きできないだろうとも。
けれど母は違った。息子がちゃんと生きていくことを諦めてはいなかった。
「幸いあんたはバカじゃない。人とは違った視点で物事を考えられる。きっとそれはあんたの武器になると思う。ただしそれは戦闘力に比べて地味なものだからね、相当に磨き上げる必要があるよ」
「そのために、旅に?」
「そう。この街の中だけで一生を終える人がほとんどだからね、外の知識を持っている人間にしかできないことっていうのは重宝されると思う。ここでセンスのない戦闘力をいくら鍛え続けたところでお荷物にしかなれないのは目に見えてるじゃないか」
「母さん、辛辣だね」
「事実だろ?母さんはね、ずっとあんたみたいな子がどうやったら生きていけるか考えてきたんだ。その好奇心の強さを、戦える武器にしておいで」
母の提案は魅力的だった。こんな自分でも人の役に立てるようになるかもしれない。役に立つ人間になれば追放されることもない。ポルトはポルトの居場所を掴めるのだ。それに、外の世界を見ることはポルトの好奇心をたまらなく刺激する。もしもそれが現実的に可能なのだとしたら、こんなに素敵な話はない。街の外に出てしまえばオージのことだって何とでもなる。
「でも、外で生きていけるかな」
それが一番の懸念だ。何かに襲われればそれを倒す力はポルトにはない。
「それは正直母さんにもわからないよ。そいつはもうあんたの運次第だろうね。けどこのままここにいて無能者と追放されてしまうよりも生存確率は高いかもしれない。ちょうど3日後に隣街まで行く商隊が出発するから、そこにくっついていけば隣街までは行けるだろう。その先はあんたが自分で考えるしかないけどね」
「なるほど、商隊か」
物資のやり取りをするために、時折護衛も含めた隊列を作って隣街まで行く大人たちがいる。そこに紛れれば敵に遭遇した時にも屈強な大人たちが対処してくれる。それならば移動は可能かもしれない。もちろん部外者のポルトを守ってくれる保証はないし、自分のことは全部自分でやらなければいけないけれど、旅に出る子供がそうして商隊についていくことはよくあることなのだと母は言う。列をなすことで回避できることもあるし、群れが少しでも大きく見えるのならば子供がついてくることを咎める大人もいないのだ。
「わかった。三日後だね」
「あんたに渡せるだけ全部のお金をあげるから、いろんな場面を想定して必要だと思うものを用意しておいで」
ポルトの戦いはすでに始まっている。何を持っているか持っていないかで生死が分かれる。
「この子もちゃんと守ってあげな。守るものがあったら男の子は強くなれるからね」
無邪気に母の手にまとわりつくオージをひょいと掴んだ母は、ポルトの肩の上に白い王子を乗っけた。ポルトの耳の横でオージは満足そうにギャッと鳴く。
「そうだね、心強い同行者だ」
強い言葉を告げながらも、いつしか泣きそうな顔になっていた母に、ポルトは精一杯の強がった笑みを見せた。
三日後、ポルトは大きめのリュックを一つ背負って、街の入り口に並んでいる荷馬車の列を目指して小走りで向かっていた。リュックの中にはこの三日間考えに考え抜いて揃えた荷物と、オージが入っている。しばらくはリュックの中で我慢してもらわないといけない。幸い朝が早いためまだ眠っているので、暴れたりすることはない。
少し急がなければ、商隊が出発してしまうかもしれない。家を出る時に、もしかしたらもう戻ってこれないかもしれないと家族との別れを惜しんで少し遅くなってしまったのだ。
生きて帰ってこれるといい。
生きるためにここを出るのだから。
急いで角を曲がると、何かにぶつかって弾き飛ばされ、ポルトは尻餅をついた。
「よお、親友。俺に一言もなく街を出るなんてどういうつもりだよ」
聞きなじんだ声に弾かれるように顔を上げると、そこには親友レダの姿があった。昇り始めた朝日に濃紺の髪が透けて青く輝いている。
差し出された手に引っ張られ、ポルトは立ち上がる。
「レダ、どうして…?」
この三日間、レダにだけはバレないように努めてきたつもりだ。
旅に出ると決めた時、真っ先に思い浮かんだのはレダだった。レダが一緒ならば何だって出来る気がするのだ。だけど、レダにだけは知られぬように一人で行こうと決めていた。
「ポルトの様子がおかしいことなんてすぐわかる。オージのことだってあるしな、俺にだって何となく察するところはあるんだ。何年の付き合いだと思ってんだ。なめんな。うちの母ちゃん問いただしたら、ポルトのおばちゃんに相談されたって」
「母さん…マジか……」
母だってレダを巻き込むことを危惧したに違いないのに。それとも息子の安全を思う気持ちが勝ってしまったのか。
「ポルトのおばちゃんもポルトと一緒だからな、俺には絶対に言うなって釘刺されたらしいけど、俺が母ちゃん脅して無理やり聞き出した」
ドヤ顔で笑うレダに、ため息しか出ない。何をどう脅したのか知らないが、レダの母が気の毒すぎる。申し訳ない。
「だって、レダに言ったら絶対俺も行くって言うし」
「だな、間違いない」
レダはリュックを背負った背中を自慢げに見せびらかした。すでに準備は万端のようだ。
「だけどレダは僕と違って街を出る必要なんてないだろう?今すぐにだってレダは狩りで十分に活躍できる。わざわざ危険を冒す必要なんてないじゃないか」
「必要ならある!」
「なんで」
「ポルトのいない街なんて守る意味がないからだ」
「何言ってんの。家族だっているだろう?」
「俺には、ポルトがいない人生なんて考えられないんだ。ポルトは違うのか?俺は必要ないか?」
ぎゅっと、幼い子が甘えるみたいにレダはポルトを抱きしめる。そんなことを言われて拒めるわけがない。ポルトだって、旅に出る不安よりもレダと別れる辛さの方が大きいぐらいなのだ。ただ現実を見れば決意が揺らいでしまうから考えないようにしていた。必死で未来を考えるふりをして、悲しいことに目を瞑っていた。
「必要に決まってるじゃないか。レダと一緒に生きれるようになるために僕は行くんだ」
「俺も行く。ポルトがちゃんとこの街に戻ってこれるように、俺が守る。ポルト一人だけ新しい世界を見るなんてずるいだろう?」
レダの決心は揺らがない。命をかけた旅に出ると言うのに、ちょっとそこまで遊びに行こうぜという感じで楽しそうにポルトの手を引いていつもみたいに走り出す。
「やっべ、出発し始めてんじゃん」
「ちょ、レダが僕の邪魔するから…」
「ポルトが遅かったからだろ?」
「おいていかれたら終わる」
「急げ、ポルト!」
レダはいつだってポルトの不安をあっという間に吹き飛ばしてくれる。一緒に行ってくれると言うのならこんなに心強いことはない。
二人一緒ならきっといつだって楽しい。
二人できっと戻ってこよう。家族の待つ故郷へ。
そして、まずレダの母に謝ろう。
多分ポルトの母が何十回何百回と謝った後だろうけれど。
なんとか街を出る前に商隊の最後尾に追いついた二人は、周りの大人たちに挨拶をしながら初めて街の外へと踏み出していった。
———僕たちはどこまで行けるだろう。
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