第2話 異端者

 地竜ラバスは、人間の街に程近い小高い丘の上で今日も寝そべっていた。深緑色のザラッとした体を、太陽の熱で程よく温まった砂の上に伸ばせるだけ伸ばして横たわり、のんびり日向ぼっこをしながら視覚と聴覚だけを研ぎ澄ませる。

 ここから街の中の人間の様子を見るのが好きだった。

 文字通り寝る間を惜しんでもいいぐらいに、好きだった。

 何が、と言われたら困ってしまうが、自分達とは全く違った人間達の生活が面白いのだ。


「おまえ、またそんな所にいるのか」

 たまたま通りかかった近くに棲む地竜ゲーテが、ラバスを白い目で見て呟く。

「すぐに天竜に見つかって食われちまうぞ」

 天敵である天竜を避けるため、多くの地竜は空から見えぬよう木の生い茂った森などで暮らしている。こんなひらけた見晴らしの良い場所に何時間もじっとしているやつなどいない。わざわざ森を切り拓き住処を作るのは人間ぐらいだ。

「そん時はそん時だ」

 命の危険と引き換えにしても、ラバスはこうしていたかった。できることならもっと近く、触れ合ってみたいとすら思うのだが、地竜を恐れる人間は快く思わないだろうから、この距離が最善なのだ。嫌な思いはさせたくない。


 地竜の寿命は人よりはるかに長い。ラバスはまだ青年であるが、もう124年ほど生きている。人が生まれ、成長し、やがて子を成し、老いて死ぬまで一通り見てきているが、ひとりひとりに全く違う人生があり本当に面白い。

 比べて地竜の暮らしはあまりにも地味だ。天竜から身を隠しながら、生きるために草木や小動物を食らうだけの毎日。変わったことがあるとすれば、天竜に見つかり追われた時ぐらいだ。そんな刺激を望んでここにいるわけでは決してないが、そうなったらそうなったでこのつまらない人生に刺激的な終止符を打つのもまあいいかと思っているのも事実だ。


「変な奴」

 巻き添えはごめんだとばかりに、ゲーテは鼻を鳴らし、足早に四つ足で駆けながら森の中へと去っていく。


「俺に話し掛けるおまえも十分変な奴だよ」

 基本的に地竜は団体行動をしない。他者と関わって生きるのは子を成す時と、生まれて間もない頃だけである。それ以外は単体で行動し、たったひとりで生きていく。

 それは可能な限り小さくなり、空からの発見を困難にするという、生きるための知恵であり、絶対的な物として地竜の間には根付いている。

 だからラバスがこんな所で朽ち果てようとも、他の者には何の関係もないのだ。

 けれどあのおせっかいなゲーテは時折こんな風に声を掛けていく。何となく見知ったラバスが食われる様を見たくないのか、あるいは近くに棲む自分が巻き添えになるのを恐れているのか、はたまた風変わりなラバスに何かしらの興味を抱いているのか、その心の内はよくわからないけれど。

 人間好きなラバスはそんなゲーテの少しだけ人間臭い所が好きだった。

 そんなことを告げてみたら、彼はどんな反応をするだろうか。

 ゲーテの消えていった森を見やり、クスリと薄く鼻で笑う。しかし残念ながらそんなことを言い合う仲ではない。そんな人間みたいな交流を地竜同士はしない。言葉は通じ合うというのに寂しいことだ。





 中断していた人間観察に戻り、しばらくした時だった。一体の地竜が眼下の平原を街に向かって走っていくのが見えた。尋常ではないスピードで猛突進するその後方上空にはそれを追う天竜の姿がある。それはよくある日常の光景だ。ああ、誰か見つかってしまったのだと、ただ思う。天竜は地竜の肉を食らって生きている。それがこの世の理なのだから仕方がない。

(あれはもしかしてゲーテか?)

 巻き上げられる土煙であまり見えなかったが、ラバスよりもずいぶん青みがかった体色と四つ足で駆ける時の見知った走り方でそう識別した。

(あいつ、いいやつだったのに)

 けれど助けに行くという発想はなかった。ラバスが援軍に行ったところで天竜に敵うわけがない。ゲーテを追っている天竜はラバスの五倍はあろうかという体格であり、地竜を狩ることを本能としている生き物なのだ。こちらが二体になったからといって何かが有利になるわけでもない。ただ彼の飯が二倍に増えるだけのことだ。悲しいけれどそれが現実。


 ゲーテは一目散に街へ向かっていた。ああなったゲーテにできることはただ一つ、生き残るためには自らの肉体を捨て、人間の魂を食らい、人間の体を乗っ取るのだ。そして人の中に紛れる。天竜は街の中にいる人間を襲わない。集団になった人間は天竜を殺すことができると知っているからだ。この世界はそういう力関係にある。故に人に紛れることでゲーテは生き延びる。

 ゲーテは街外れにいた老人を右手でむんずと掴み取り、そして大きな声で一声吠えた。次の瞬間ゲーテの体は力なく崩れ落ち、そしてその手の中から老人が転がり出る。老人は足をもつれさせて転げた後、四つ足で街の中心部に向かって走った。あれはもう、かつての老人ではなく、ゲーテだ。

(ゲーテよ、人は四つ足では走らない)

 残念だが、ゲーテが人の街で受け入れられることはないだろう。ほどなく、地竜に魂を食われて狂人になってしまったと街から追放されるに違いない。人の魂を食らったからといって、天竜から逃れられるのはほんの一瞬その時だけなのだ。


 運良く体が食われずに残った時には元に戻る方法があるらしい。しかし、無情にもゲーテの体は天竜の鋭い牙の餌食となり、ガブリとくわえたまま空高く運び去られていってしまった。ゲーテはもうあの老人の体で残り少ない時を生きるしかない。

 その姿のまま地竜の子を成すこともできるらしい。けれど街を追放されてしまえば生き永らえることは非常に難しい。人間は集団でいることであの天竜をも凌駕するが、個体としては非常に弱い生き物なのだ。弱いものは食われる。地竜狩りに失敗し腹を空かせた天竜に食われることもあるだろう。草より肉が好きな地竜が小動物と同じように人間を食うこともあるだろう。


 元の体に戻れるかもしれない、子を残すことができるかもしれない、そんなのはおとぎ話みたいな儚い希望だ。としか言えないのはその前例が極めて少ないからだ。現実的ではない。それでも窮地に陥った地竜は藁をもすがる思いで人の魂を食らうのだ。それが太古から根付いた地竜の本能だった。




(俺の好きなゲーテと俺の好きな人間がひとり、失われてしまった)

 悲しみというより喪失感の方が強かった。

(俺は何もしてやれない)

 誰を救うこともできない。

(それは俺がひとりだからだ)

 誰かと共にあることの強さを、ラバスは毎日観察して知っている。他人を信じ、愛し、力を合わせて共に生きていくその姿はあまりにも愛らしく輝かしい。そして強い。

 人間は地竜の五分の一ぐらいしかない小さな体で、けれど彼らは天竜を倒すのだ。その力たるや凄まじい。源にあるのは心の強さだとラバスは思う。守りたいと思う心、諦めない心は、やがて知恵を生む。彼らはひとりではないから強くあれる。

 身を守るために群れる事を選ばなかった祖先が恨めしい。

 けれど、地竜にとってはひとりでいることがきっと最善の道であったのだ。群れるには体が大きすぎた。天敵は空にある。進化の道筋とは、すなわち必然であるのだ。


 なぜ俺は人間に生まれなかったのか。


 もう何度、そう思っただろう。

 なぜ人の天敵として生まれてしまったのだろう。

 恐れられる存在でなかったなら、もしかしたら彼らと関わって生きることもできたかもしれない。だがラバスが地竜である限り、それは叶わぬ夢だ。人の魂を食らうなど、自分は決してしないと誓っているけれど、それを信じる人間はいない。それはもう本能だからだ。ラバスが草を食って生きる、それと同じぐらいのことなのだ。人を食らって腹を満たしているわけではないが、捕食される方にとってはその理由などどうだって変わらない。天敵はただ天敵でしかない。食われるものに近づく馬鹿はいない。


 生まれ変わったらきっと人間になろう。

 それならば天竜に食われるのも喜びに変わろう。

 人を殺してまで生きたいとは思わない。

 だって、人間はこんなにも愛おしい。


 目の前の草をむしゃりとくわえ、ラバスの心は街の中にある。

 お気に入りなのは栗色の髪の小さな少年と、濃紺の髪のしなやかな動きの少年。

 彼らはいつも一緒で、いつも楽しそうだった。

 希望と愛に満ちあふれていて、最高の友であった。

 自分にもあんな友がいればもっと楽しく生きられるに違いない。




 ———今日も俺はひとりだ。傍らにあるのは小石一つ。




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