実験終了
ずんずんと早足で裏道を進むちぃ
けど、つないだ手のあたたかさが、占い師さんとはやっぱり全然ちがっていた。
マンションに着くまでこのままでもいいって、今は本気で思えた。
やがて、明るい駅ビルの中へ入る。一階のトイレ前まで来ると、ちぃ兄はわたしを休憩用のベンチに座らせて、隣から抱きしめた。
ひゃっ、と声が跳ねてしまう。
「ちょ、ちぃ兄っ。周りの人が見てるから――」
「おまえが危ないかもって、
真剣な言葉を聴いたら、わたしの言いかけた文句は音にならなかった。
占い師さんに撫でられていた左手が、そっとちぃ兄の頬に当てられる。
「例のアプリ、GPS付きなんだろ」
「うん」
「同じとこに長くいるときは食事中か、場所によっては事件に遭ってるかもって話だったからな。焦って出てきた」
「……そう、なんだ」
確かに、ちぃ兄は原稿作業用の青いジャージ姿のままだ。私服に着替える余裕もなかったんだろう。
わたしのために、急いで駆けつけてくれたんだ。
はー、と深いため息を吐き出して、ちぃ兄はわたしの肩に顔をうずめる。
「
安心しきった声を聴いた瞬間、わたしの中で、なにかがことんと落ちる感覚がした。
「……こ、怖かっ、た……っ」
目も声も、涙で濡れていく。緊張が切れて、家族のぬくもりに甘えてしまう。
泣き出すわたしの頭を、ちぃ兄のてのひらが優しく撫でてくれた。
「あー、マジでぶん殴りたかったな、あのド変態野郎。かわいい百音の手を撫で回しまくりやがって」
「ちぃ兄……」
「ん?」
「来てくれて、ありがと……」
耳元で、ふっとちぃ兄が小さく笑みをこぼす。
「当然だ。銀河一かわいい妹のためだし」
「だから、そういう言い方はやめろ、バカ
いつもの悪態をつきながらも、わたしもちょっとだけ笑えた。
わたしが落ち着いたのを見計らうと、ちぃ兄は体を離して、わたしの肩をぽんと叩く。
「手と顔、洗って来いよ。待ってるから」
「うん。――あ、そうだ」
学生カバンを開けて、わたしは
「はい、頼まれてた画材。領収書とおつりも入ってるから」
「さんきゅ。作業もますます
中身を確かめて満足するちぃ兄を見て、わたしもほっとする。
女子トイレに入って、洗面台の鏡を見た。涙の跡が残る自分の顔も、やっぱりあの日を思い出させた。
金色の桃を見つけられなくて泣きじゃくるわたしに、だれかが呼びかけてきた。
「百音!」
駆け寄ってきたちぃ兄が、肩をつかむ。
けど、わたしはいやいやと首や体を横に振った。
「おにいちゃん、うそつき! 金色のモモ、どこにもない!」
「それは……っ」
「ももちゃん、ちぃくん! あぁ、よかった……!」
エプロン姿のお母さん――
泣き続けるわたしに、ちぃ兄は気まずそうに謝った。
「ごめんな。あの話はうそだ」
「やっぱり……」
「でもな、百音に元気になってほしくて作ったんだよ」
「え?」
涙を手の甲で拭いながら、わたしは顔を上げる。
ちぃ兄と、わたしたちの間にしゃがんだお母さんの顔が、ちょっとぼやけて目に映った。それでも、二人がわたしをはげますように笑っている雰囲気は、なんとなく感じ取れて。
「百音、父さんのケガが早くなおりますように、ってお願いしたいんだろ」
「……うん」
舞台
わたしは、それがすごく悲しかった。お父さんは、一所懸命演じていたのに。
「あの一番上の枝、よーく見てごらん」
お母さんに言われて、また桃の木を見上げる。
そのとき、初めて気がついた。
長く伸びた枝の先、満月がぶら下がっている風景に。
「金色のモモ、あったー!」
飛び跳ねたわたしの涙は、夜の空気にぱっと散っていった。
お母さんと笑い合ったちぃ兄が、わたしをまっすぐに見て言う。
「約束する。オレは、これからも百音には絶対うそつかないって」
そして、その場で指切りもした。嘘ついたら針千本のます、っていうあの定番の唄付きで。
「おにいちゃん、ごめんなさい……」
謝るわたしの髪を、ちぃ兄はくしゃくしゃと撫でてくれた。
わたしが嘘を嫌いになって、正直に生きようと決めたのは、あの出来事が始まりだ。
――でも、あの日のちぃ兄の嘘は、優しかった。
わかっている。この世の全部の嘘が『悪』じゃないことは。許せない嘘のほうが、ずっと多いけど。
手と顔をざっと洗えば、気持ちもさっぱりした。
外に出ると、ちぃ兄はベンチの横に立っていて、にんまりと笑顔を向けてくる。
「よし、帰るか」
「うん」
「おっ、あそこのレディース服の店員さんたち、いい
「
軽口を叩きながら、並んで歩き出す。
このままマンションへ帰れば、あとはもう嘘をつかないで済むかも。
トラブルもあったエイプリルフールだけど、実験の成果はそれなりに得られた気がする。
――報酬、いくらもらえるかな。
そのお金で、ちぃ兄になにかおごってもいい。今日助けてもらったお礼として。
自分の心の中にも、ゆるやかな春風が吹いた。
▼
四月二日の午前中。
実験アプリの音声解析と報酬の受け取りのために、わたしはまた
最初に会った日と同じように、わたしたちはリビングのソファに向かい合って座っている。
ノートパソコンとわたしのスマートフォンを接続して、春原さんは解析作業を進めていった。音声を正確に聞き取るためなのか、今日はヘッドフォンもつけている。
「実験に協力してもらったとはいえ、危ない目に遭わせちゃってごめんね」
「いえ、全然春原さんのせいじゃないですよっ」
わたしがあのおじさんを初対面で信用しすぎたのが悪い、と思う。
友達が占ってもらった時は、あんなセクハラみたいなことはされなかったのかな。あとで聞いてみよう。
「あの店の占い師は、前からきな臭い噂もあってね。GPSで百音ちゃんの位置情報を見て、もしかしたらって思ったんだ」
「そうなんですか」
「ちょうどその辺りの音声を確認中だけど、彼はグラフォロジーを利用してたんだね」
「グラフォロジー?」
聞いたことのない単語が出てきた。
「筆跡分析のことだよ。筆跡には科学的な根拠があって、犯罪捜査にも導入されてるものなんだ。つまり、べつに霊感や特殊能力を持ってなくても、きちんとした知識さえあれば誰にでもできる」
「えっ。じゃあ、あの人は――」
「
「うわぁ……」
手をしつこく撫でられた時点でドン引きしたけど、さらに引いてしまった。
やっぱりにこにこしたまま、春原さんは解説してくれる。
「彼の質問の仕方も、だいぶわかりやすいよ。『将来について悩みを抱えてるね?』って聞き方も、筆跡から百音ちゃんの思考を読み取ったわけじゃない。単に、君みたいな年頃の子は進路の悩みを多少なりとも抱えてるはずだ、って前提のもとでの確認なのさ」
「あ、あぁー……」
納得。
言われてみれば、その質問なら、わたし以外の人たちにだって充分当てはまりそう。
「それと、筆跡を見るだけなら、彼自身が筆記用具を客に貸しても不自然じゃない。にもかかわらず、わざわざ百音ちゃんに自分のものを使わせた。君が
「えぇー……」
確かに、学生カバンは膝の上に置いていたから、占い師――いや、詐欺師の位置からでも中身はちょっと見えたはず。
そんなせこい方法があったなんて。全然『占い』じゃない。ほんとガッカリ。
ちぃ兄に代金を払ってもらったのも、申し訳なくなる。
「
「ほんと許せません。そのうちバレて逮捕されればいいのにっ」
怒りを吐き捨てながら、わたしはテレビのリモコンを借りてチャンネルを適当に回す。春原さんの作業のじゃまにならないように、音量設定も小さめにして。
そのとき、たまたま映ったニュース番組から、アナウンサーの緊張したような声が流れてきた。
『緊急速報です。只今入りました情報によりますと、■■市内のアパートの一室から、複数の手が詰められた瓶が発見されました。強い異臭がするという近隣住民の通報で警察が駆けつけ、女性連続殺人事件との関連性も含め、聞き込み捜査を行っています。部屋の住人はおらず、本人が見つかり次第、捜査本部は任意同行での事情聴取も行う方針です』
――あの事件でなくなってた手が、見つかったんだ……!
犯人が捕まるのも、時間の問題かも。安心したような、怖いような。
でも、現場リポーターさんの言葉で、わたしは固まってしまった。
『はい、こちら、問題のアパート付近です。近所の方の証言によりますと、手が発見された部屋には四十代男性が住んでおり、とても暴力や殺人などするようには見えない、物腰柔らかな人物であるとのことです』
「案外、例の占い師だったりしてね」
「あ、あはは……」
春原さんの冗談っぽい一言にも、苦笑いするしかない。
あの人が真犯人だとしたら、ちぃ兄に助けてもらわなかったら、わたしは今頃――。
ぞぞっと這い上がってきた寒気を、必死でこらえた。それ以上は想像するな、わたし。
「この部分の音声は、研究資料として提出する時にはカットしようか」
「ぜひお願いします……」
やがて、一通りの解析を済ませたという春原さんは、報酬金額を用意しに寝室のほうへ歩いていった。
わたしは、ついそわそわしてしまう。ピーチティーを飲んでも落ち着かない。
――最低額は一万円。いくらになったかなぁ……!
「お待たせ。この領収書に、名前と住所を書いて印鑑も押してくれるかい」
「はいっ」
白い封筒と領収書を受け取って、早速中身を確かめる。
領収書に書かれた金額は、税込一五四六五円。
封筒を持つ指に、力がこもった。
「こ、こんなにいただいちゃっていいんですか……!」
「もちろん。手渡しでごめんね。十万を超えた場合は、さすがに口座振込させてもらうつもりだったけど」
「じゅっ……!?」
実験のためだからって、協力者にそんな金額をぽんと出せるものなのか。
春原さんの経済力が、やっぱりさっぱりわからない。
でも、危ない人かもだなんてちょっとでも怖がっちゃってごめんなさい。あの詐欺師なんかより、春原さんはずっとまともな人でした。
「協力してくれて、本当にありがとう。助かったよ」
「こちらこそ、いろいろ勉強になりました。ありがとうございますっ」
玄関まで見送ってくれる彼に深くおじぎをして、わたしはマンションを出た。
最寄り駅まで歩く途中、一通の手紙をポストに入れる。
『エイプリルフールも悪い嘘も、わたしはやっぱり嫌いです。でも、今年の四月一日は、今までで一番楽しく過ごせたかもしれません』
この手紙も文通相手へ無事に届くように祈った。
小学生の頃、お父さんの所属事務所宛に初めて送った、娘なりのファンレターみたいに。
報酬の使い道を考えながら、わたしはうきうきとコンビニへ立ち寄った。原稿を手伝いながらちぃ兄と食べる、お昼ごはんを買うために。
完
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