八重口百音があざむく日

実験前日/三月三十一日

 千尋ちひろお兄ちゃんへ


 男の人が女の人をテーマにしたマンガをかくのは、むずかしいことだと思う。

 お兄ちゃんはマンガの練習をたくさんしてるのに、お兄ちゃんをバカにする人たちがいるのは、わたしもすごくかなしい。

 でも、わたしはお兄ちゃんの絵とマンガが大好きだよ。

 もっともーっとかいて、わたしに読ませてほしいな。

 お手伝いもするから、がんばってね。


 百音ももねより


   ▼


 ファイルをぱたんと閉じて、ちぃにい――八重口やえぐち千尋はうっとりとわたしを見つめた。

「あー、やっぱ百音の手紙を読むと生き返るなー」

「何回読み返してるんだか……」

「もらった日から、もうかれこれ五九六三回」

「数えてるの!?」

 ――しかも、無駄に細かい数字!

 わたしは、握った消しゴムを思わず落としそうになる。

 満面の笑みで、ちぃ兄は深くうなずいた。

「当然。毎日最低十回は読んでるし」

「読みすぎ、キモい」

「こらこら、百音ちゃん。この手紙を書いてくれた小五の時は、そんなこと言う子じゃなかっただろ。お兄ちゃんは悲しいぞ」

「うざい。それより、早く手を動かしてよ」

「ひでえ……」

 いつも通りにあしらって、漫画用原稿用紙に消しゴムをかける。

 しょんぼりしたちぃ兄も、ネームを描くノートにしぶしぶ向き直った。


 わたしが小学生の頃によく読んだ少女漫画雑誌に、女子中学生同士のガールズラブ、いわゆる『百合ユリ』漫画が連載されていて、当時話題を呼んでいた。

 たまたまわたしから借りてそれを読んだちぃ兄は、すっかりハマって目覚めてしまったらしい。百合をテーマにした絵や漫画を積極的に描き始めたのだ。他人の作品を楽しむだけじゃ、満足できなくなったみたい。

 四月から大学三年生になる漫画家の兄と、高校二年生になるアシスタントの妹なんて、それこそ漫画の設定っぽい。


 ペン入れの済んだキャラクターの線画やコマ割り、台詞の吹き出しが、原稿用紙いっぱいに描かれている。

 自分そっくりの女子高生の絵を見るたびに、わたしはあきれてしまう。

「この主人公、わたしの見た目をモデルにする必要あった?」

「オレの商業誌初連載作であり代表作の一番のファンはおまえだし、日頃手伝ってくれる感謝の気持ちもこめて――って前も言っただろ」

「学校でも友達に『この主人公って百音にそっくりだよね』とか言われるし、恥ずかしいんだけど」

「つまり、百音のかわいさが読者にも着実に広まってるってことだろ。最高だな!」

「ガッツポーズするな、バカアニ!」

「ヒロインが美容師の美人おねーさんとどう進展してくかも、楽しみにしててくれよな!」

 消しゴムを投げつけたい衝動をどうにかこらえた自分をほめたい。

 シャーペンの筆跡を消しながら、わたしはふと疑問を口にした。

「気になってたんだけど」

「ん?」

「ペンタブも作画ソフトも持ってるのに、なんで作業をフルデジタルにしないの」

「あー、それな」

 ノートから視線を外さないまま、ちぃ兄はしみじみと答える。

「今じゃ何でも全部デジタルでできて便利だけど、やっぱペン入れはアナログのほうが『生きた自分の線』って感じがして好きなんだよな。個性が出やすいっつーか。おまえも書道やってるし、そういう感覚は何となくわかるんじゃないか?」

「……確かに」

 筆に乗る自分の想い次第で、線の太さも字の大きさも変わるし、書道教室でもそれをよく先生から指摘される。美術の授業とか美術部とかで描く絵もそうだ。

「けどまあ、おまえから率直な意見が聞けたり、手伝ってもらえたりする喜びがでかいってのが最大の理由だな!」

「自信満々に言うな!」

「オレは百音にだけは絶対嘘つかないし、これももちろん本心だから安心しろ」

 うっ、とわたしは言葉に詰まる。

 そこだけ急に真面目な雰囲気で言うのは、ずるい。

 でも、それはわたしたちの長年の約束でもあった。わたしも誓っているから。

 家族や特に仲のいい友達には絶対に嘘をつかない――って。

「あ、嘘で思い出した」

「なに?」

「ほら、明日は四月馬鹿だろ」

「うん」

「大学の友達ダチが、実験の協力者を募集してるんだよ。報酬付きで」

「えっ」

 報酬って単語に、わたしの耳はついぴくっと反応してしまった。

 ちぃ兄は、にんまりと笑う。

「最低一万円から払うっつってたし、春休みのバイトにちょうどいいんじゃないか?」

「やる」

 即決した。

 画材とかレターセットとか書道の道具とか、買いたいものがたくさんある。始業式までに稼いでおきたい。

「決まりだな。オレから連絡しとくし、早速説明受けて来いよ」

「え、今から?」

「残りは自分でやっとく。おまえが帰ってくる頃にはデジタル作業に入ってるだろうから、心配無用だ」

「そう。じゃあ、話を聞くだけ聞いてみようかな」

 お父さんは仕事、お母さんはバイトに出かけているし、お昼ごはんはちぃ兄とわたしの二人分を用意すればいい。場所にもよるけど、今から行けば、十二時か十三時過ぎには帰って来られるだろう。

 ――でも、実験ってどんなのだろう。エイプリルフールと関係あるのかな。

 三月三十一日っていう今日が終わったら、カレンダーをめくらないといけない。


 四月一日。

 一年のうち、わたしが一番嫌いな日。今年もその日が来てしまう。


 考えるだけで嫌になるけど、割り切らないと。自力できっちりお金を稼ぐためなんだから。

 作業机から離れて、わたしは出かける準備を始めた。


   ▼


 ちぃ兄から送ってもらった地図画像をスマートフォンで見ながら歩くと、目的地にすんなりたどり着いた。地元から電車で三駅の距離だったおかげでもある。

 ――ここか。家賃も高そうだなぁ……。

 こんなに立派な物件でひとり暮らしをしているなんて、どんな人なんだろう。

 目を細めて見上げたタワーマンションは、青空にも届きそうなくらいに伸びている。

 うちのマンションも4LDKで、わりと高いほうだとは思うけど。この辺は有名な高級住宅地だし、家賃もうちより一桁多いのかも。

 オートロック式エントランスドアの前、取り付けられたインターホンで、相手の部屋番号のボタンを押していく。

『――はい』

 スピーカーから、男の人の声が聞こえた。ちぃ兄よりだいぶ高めで、さわやかな感じだ。

 ほっとして、わたしはあいさつする。

「あの、初めまして。兄の紹介で来ました、八重口百音といいます。春原すのはら真純ますみさんですか?」

『そうだよ、初めまして。遥々はるばるようこそ。ロックを解除するから、エレベーターで上がってきてくれるかい』

「はい。よろしくお願いします」

 ピー、と電子音が鳴ったあと、ドアの鍵が開く音もした。

 エレベーターに乗って、春原さんの部屋があるフロアへ出る。チャイムのボタンを押すと、すぐにドアが開いて本人が出迎えてくれた。

 うわ、とわたしは思わず声を漏らしそうになる。

 やわらかく微笑む春原さんの髪は、変わった色だった。陽の光を浴びてきらきら光る海みたいな、青。

 染めているんだろうけど、生まれつきこの色だったんじゃないかって思えるくらいに自然だ。中性的な顔立ちにも似合いすぎている。頭の後ろ、真ん中くらいでひとまとめに結んでいる髪型も、いつもこうなのかな。

 ちぃ兄も私も黒髪だから、ますます斬新に見える。

「いらっしゃい、百音ちゃん。どうぞ」

「おじゃまします」

 ちょっとどきどきしながらも、わたしはスニーカーをそろえて置いて、来客用らしいスリッパを履いた。

 広いリビングのソファをすすめられて、ふかふかのそこに座る。

 ピーチティーまで出してもらって、春原さんの親切心に感動した。

「ありがとうございます。桃、大好きなんですっ」

「千尋にその話も聞いてたからね。おかわりもあるから、遠慮しないで」

「はい、いただきます」

 ティーカップからは、湯気と一緒に桃の香りも甘く漂っている。

「おいしいっ」

 あたたかい紅茶をゆっくり飲むと、緊張もほぐれていった。

 部屋の中は全体がスッキリしていて、必要最低限の家具だけ置かれているみたい。モノトーンの服装も清潔感があるし、春原さんはきれい好きな人なのかも。作業中じゃなくても部屋を散らかしているちぃ兄とは、大違いだ。

 ふと、そばのテーブルにある紙が目に入る。

「嘘解析実験に関する説明書……?」

「よかったら、目を通しておいてね。口頭でもちゃんと説明するけど」

「わかりました」

 向かいのソファに座った春原さんは、膝の上でノートパソコンを開いた。

 カップを置いて、わたしは印字された文章を読み始める。

「……人間は一日に最大何回嘘をつくことができるか、っていうのを調べるのが、実験の目的なんですね」

「うん。僕は犯罪心理学専攻で、これも研究の一環としてやってることなんだよ。大学の友人とか、近所の人とかにも協力をお願いしててね。年齢も性別も職業もバラバラで、なるべく多くのサンプルが欲しいんだ」

「だから兄も、わたしにこの話をしたんですね。でも、わたしは――」

「嘘をつくのが苦手なんだって?」

「はい……」

 気まずくなってうつむく。

 春原さんは、優しくフォローしてくれた。

「そんなに難しく考えなくてもだいじょうぶだよ。無理に芝居をして嘘をつけってことじゃないから。あくまでも普段通りに過ごしてもらって、その中で自然についた嘘が何回あるかを数えるんだ。もちろん、そういう実験をしてるって事実は、相手に秘密にした上でね」

「なるほど」

「そこにも書いてるけど、僕の自作アプリを協力者のスマートフォンにインストールさせてもらって、一日の音声をすべて録音する。実験当日はこのワイヤレスピンマイクも服に付けてもらって、声を拾うんだ」

 ことり、と春原さんの手が小型の機械をテーブルに置く。

「これって、アナウンサーがつけてるようなマイクですか」

「そうだね。ああいう本格的な業務用のものよりはだいぶ安いけど、高性能だよ。ネットで有名な動画投稿者も愛用する製品だし」

「へぇ……触ってもいいですか」

「どうぞ」

 そっと持ってみるとかなり軽くて、気をつけないと落としてしまいそうだ。

「具体的なルールについてだけど。協力者が嘘をついた相手と、最終的な総合回数によってポイントを集計して、最低一万円からの報酬額が変動する。だから、君が実験中に一度も嘘をつかなかったとしても、一万円はきちんと支払うから安心して」

 それを聞くと、実験っていうよりゲームに近いような気もしてくる。そういう感覚のほうが、協力者も考えすぎないで実行できるのかもしれないけど。なにせ、報酬があるし。

大雑把おおざっぱな説明になっちゃったね。何か質問はあるかい」

「ええと、ポイントの集計は、実験が終わってからするんですよね?」

「うん。パソコンでの音声解析が済んでから、アプリもアンインストールさせてもらって、結果を出す流れだね」

「たとえば、わたしが家族に嘘をつくのと、友達に嘘をつくのとでも、それぞれのポイントは変わるんですか」

「そうだよ。具体的な数値は、さすがに教えられないけどね」

「確かに、最初からポイントがわかってたら、報酬のためにあえて特定の相手にしか嘘をつかなくなる人も出てきそうですもんね」

「そういうこと。千尋が言ってた通り、君は賢い子みたいだね。理解が早くて助かるよ」

「ありがとうございますっ」

 書道教室や美術部でもそうだけど、先生からほめられるのはうれしい。しかも、春原さんは初対面の人だから、なおさらちょっと照れてしまう。

「ただし、嘘をついたことがその場ですぐ相手にバレた場合は、その一回分のポイントが無効になるんだ」

「嘘をつかなかったときと同じ、ノーカウント扱いってことですか」

「うん」

 春原さんの目が、愉しそうに細められる。

「さて――ここまで聴いて、君はどうしたい? 強制じゃないから、断ってもかまわないし」

 説明書を読み返す手に、力がこもった。

 明日はエイプリルフール。一年で一番嫌いな日。でも、この実験に協力して稼ぐのも、明日なら許される気がする。

 一年に一度の、嘘をついてもいい日。

 紙から顔を上げて、わたしは春原さんをまっすぐ見つめた。


「わたし――明日、実験したいです。よろしくお願いします!」


 立ち上がって深く頭を下げる。

 春原さんは、わたしを見上げて満足そうにうなずいた。

「ありがとう。僕のほうこそ、よろしくね」

 差し出された彼の手を、そっと握り返す。もともと低体温なのか、冷え性なのか、指はちょっとひんやりしたけど。穏やかで真面目そうなこの人なら、信じてもいいって思えるから。

「じゃあ、アプリをインストールするよ。スマホを貸してくれるかい」

「はい。お願いします」

 パステルピンクのスマホを、フレアスカートのポケットから出して春原さんに渡す。

 それとノートパソコンをUSBケーブルでつないで、彼はキーボードを打ち始めた。

「インストール中は退屈だろうし、テレビでも観てていいよ」

「あ、はい。ありがとうございます」

 テーブルにあったリモコンを借りて、テレビの電源を入れる。

 大きい液晶画面には、ニュース番組が映し出された。

『三十一日午前九時過ぎ、■■市の山中で新たな女性の遺体が発見されました。これまでの被害者四人の遺体と同じく、両手が刃物で切り落とされており、警察は犯人が持ち去ったものと見て捜査を進めています――』

「え、また?」

 思わず、驚きが声に出てしまう。

 飲み直していた紅茶を、うっかりこぼさなくてよかった。

「なかなか捕まらないみたいだね、連続殺人犯」

「そうですね……友達も怖がってます」

 春原さんの言葉にうなずく。

 わたしたちが暮らす市内で、十代から三十代前半の若い女の人ばかり殺されている事件。学校でもうわさで持ちきりだし、安全第一ってことで部活の時間も短縮された。

「アプリには、緊急事態に備えてGPSも入れてあるんだけど。万が一危ない目に遭ったり、マイクの調子がおかしくなったりしたら、すぐ僕に連絡して欲しい。その時点で実験は中止するから」

「わかりました、気をつけます」

 なにも起きないのが一番だけど、用心はしとこう。

 さっさとチャンネルを替えて、バラエティ番組を流してみる。

「ところで、春原さんって兄とはどうやって知り合ったんですか? 学部と学科もべつだって聞きましたけど」

「あぁ、大学図書館の近くを歩いてたら、千尋とすれ違った時にぶつかっちゃってね。彼が落とした漫画の原稿を拾ったのが、きっかけだったな」

「そうなんですか」

 ちぃ兄は、自分が漫画家ってことを、わたしたち家族や何人かの限った友達にしか打ち明けていない。自分の百合漫画を読んでくれるメイン読者層の女の子たちには知られたくないから、っていうのが一番の理由らしい。男が描いているなんて知られたら夢を壊すから、とかなんとか。

 わたしは、べつにそんなことは気にしなくていいと思っているけど。

「千尋の漫画は、僕も好きなんだ。その場で絵とかを褒めたら、すぐ打ち解けたよ」

「へぇ、春原さんも百合とか読むんですね」

「意外かな」

「ていうか、そもそもあの兄と友達として付き合ってくれてるのが、すごくふしぎで……」

「そうかい? 君にとっても、いいお兄さんなんじゃないのかな」

「いやー……どうでしょう」

 苦笑いを浮かべてしまう。

「わたしがちょっとでも男の人としゃべると、電話でも無理やり割り込んで切ろうとしてきますし。クラスの男子相手でもそうなんですよ。もう恥ずかしいです」

「ははっ。大学で会って話すときも、君の話題が本当に多いしね。『百音の寝顔は今日も最高にかわいかった』とか」

「そんなことまで言ってるんですか!?」

 ――あのバカアニ……ッ!

 帰ったら、背中に拳をぶつけまくるしかない。

 けど、ふと違和感が浮かんできた。

「……わたしが春原さんと会うことが決まっても、兄は全然文句を言わなかったんです。それもふしぎでした、珍しすぎて」

「あぁ、僕が恋愛感情希薄だからかもね」

「えっ」

 にこにこした春原さんの口から、また意外な言葉が飛び出た。

「僕は人間が好きだし、その心理にも関心は大いにあるけど、恋愛にはまったく食指が動かないんだ。千尋は、そういう面を信用してくれてるんじゃないかな」

「なるほど……?」

 春原さんはかなり頭がよさそうだし、人柄的にもけっこうモテそうな感じがするのに、恋する気がないなんて意外すぎる。

 まあ、わたしも恋らしい恋なんてしたことはないから、他人ひとのことは言えないけど。

「春原さんはなんていうか、兄と同い年なのに落ち着いてて紳士っぽいですし、あんな変わり者の兄と友達になってくれるなんてどんな人なんだろう、って気になってました」

「そう。僕も、千尋が大事にしてる妹がどんな子なのか知りたかったから、会えて本当にうれしいよ」

「ありがとうございます。犯罪心理学って面白いですか」

「知れば知るほど奥が深いよ、とても」

 ノートパソコンをテーブルに置いて、春原さんは微笑んだまま話を続ける。

「言葉を使って嘘をついたり、心理的要因によって自らの死を選ぶ生物は、地球上では人間だけだからね。罪を犯すに至る過程で、感情がどんなふうに動くのか――そういうことが知りたいし、人間を愛しく思うよ」

「そ、そうなんですね……」

 ――あれっ? 春原さん、実は危ない人なんじゃ……?

 どうして、おいしいものを食べた感想みたいなノリで言えるんだろう。

 背筋がちょっとぞくっとしたけど、今さら『実験から降ります』なんて言えない。

 とりあえず、ちょっとでも気分を上げようと、ピーチティーのおかわりをお願いした。


 明日の実験がうまくいきますように!

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