>Ⅳ

 いつか話そうと思っていたら妹のめいに呼び出され、そのままリビングでボコボコにされた日から、2週間ほど経った日のことである。

「ただいまー」

 僕は講義終了後のバイトもこなしてからの帰宅となった。時刻は19時を回っている。時短勤務で助かった。

 正直ここ最近の精神状態は、バイトをしている時よりも、大学での講義中以外の時間のプレッシャーがハンパない。妹の茗が仕事や大学が休みなら容赦無くメッセージは来るし、それによる進捗を伝えなければ鬼のようにスタンプが送られてくる。

 僕はそもそもそこまで積極的に行くことを決定したわけではなかったのにも関わらず、茗は急かす、というよりは、山﨑やまざきに接触する間隔が開かないように促してきているようだった。

 でも。

 もういいよ…もう…心臓が保たないんだよ…嬉しいけどさ…いや…うん………はぁ。

 とは言いつつも、今日金曜日はノートを講義前に借りて速攻で写してなんとかその日のうちに返すことができた。トゥービーコンティニュー。いつに続くのかはわからないけれど、それでもやらないよりはいいらしい。これ以上ないほどの緊張の中で声かけるこっちの身にもなってくれ妹よ。

「帰ってきた!っしゃあ!お母さん!餌がきたよ!」

 と、叫んでいる茗の声が聞こえた気がした。餌って、言った?

れいちゃん!」

 玄関ほど近くのリビングの扉が勢いよく、ガバリ、と開いて茗が出てきた。

「な、なに!?」

 困惑しかできない僕。

「早く!こっち!」

 と言って玄関までかけてきたかと思ったら、まだ靴も脱ぎかけの僕の袖を掴んでリビングに引っ張りこもうとする茗。

「な、なんだよ!ちょっと、靴!」

 言いながらなんとか脱がせてもらったらもう最後。ブラックホールのようにリビングに吸い込まれていく。すると今度は茗が僕を羽交い締めにする。

「あら、おかえり、玲」

「あ、か、母さん。帰ってたんだ」

「もう少ししたらまたスタジオに行かなきゃなんだけど。豊さんに食事も差し入れたいしね。これを渡しておこうと思って待ってたのよ。茗に聞いたら、そろそろ帰ってくるっていうから」

 豊、というのは僕たちの父親であり、母の夫の名前だ。昔からうちの両親はお互いに名前で呼び合うので、妹の茗も僕のことを名前で呼ぶようになったのだろう。

「渡すもの?」

「「ふふ」」

 母も茗も不敵な笑みを浮かべるだけだ。

「これ。軍資金」

 そう言って、僕の手に封筒を握らせる母。

「ぐ、ぐんしきん?なんの?しゅっぺいするのぼく」

「ある意味出兵よ」

 茗が胸を張っていう。

「なんだ、おま、まさかまたなんか企んで」

「その通り!何も企まない不甲斐ない兄のために、難攻不落ののーのちゃん完全攻略作戦のための備蓄をするのじゃぁ!」

 なにいってんのぼくのいもうと。じだいさくごじゃないかな。

 頭が痛い。精神痛だ。結果これが僕の実の妹だなんて嘘だと思いたくなってきた。

「玲ちゃん明日は!?」

「や、休みだからレポートやろうかと思ってたけど」

「シャラーップ!!許さんNGです休みという確証が取れたので明日は終日私にロックアウト!」

「スタジオみたいにいうんじゃない」

「あ、時間だわ。それじゃ、玲、茗、お母さんいくから、洗濯物と洗い物よろしくね」

「はーーーーーーーーーーーい!」

「え?嘘。行っちゃうの?このテンションの茗を残して?そんなまさかぁ」

「じゃあねー」

 そう言い捨て、にこやかな笑顔で何か大きめのバッグを持って、廊下に続くドアの向こうに去って行く母。

「ちょ、何これ!?この封筒!?出兵!おい!ファミリー!何考えてんだ!」

「玲ちゃんツッコミ上手くなったねぇ」

「あんたらに付き合わされてたら生き抜く術として覚えるわそんなもん」

「なんでこのファミリーにいながらその性格なんだろね、玲ちゃん」

「お前がいうな」

「あはは。じゃ、ご飯にしよう!玲ちゃん!キッチンいくのだ!」

「待てこの封筒の説明は」

「食べながらね」

 そこでやっと、羽交い締めの体勢は解除された。

「…まったく…なんか、作ってあんの?」

「カレー作った!あっためて?」

「へいへい」

 言われるがまま、キッチンに向かう前に、バッグを下ろして上着をリビングの隅に置く。確かにカレーのいい匂いがする。父の弁当もあったとしたらこれだろうか。

 準備している間、茗はおとなしくリビングで雑誌を読んでいた。一通り終えて、ダイニングテーブルに対面形式にセッティングする。

「できたぞ、茗」

「はーい。ありがと玲ちゃん」

「いえいえ」

 こういうところはちゃんとしている。

 お互いに席について、いただきます、と唱えてから、一口頬張ると、1日やってきてよかったーと思わされる。美味い。

「で、軍資金って何。あの封筒何なの」

「…私が、玲ちゃんの今の状況をコンコンとお母さんに伝えたらめっちゃ喜んでて、いきなり外出して帰ってきたと思ったらあれ握ってた。好きに使いなさいって」

「……まさか」

「本当にお金だと思うよ」

「バイトしたので十分だっつーのに」

「ボーナスだと思っておけば?」

「うむう。食べたら確認する」

「うん。で、本当に明日休みだよね?」

 お互い、カレーを口に運ぶ手が止まらないが、同時に話も止まらない。こればっかりはしょうがない。一緒いる時間がそこまで長くない分、可能なタイミングでの可能な限りのコミュニケーションは取っておかなければ、バラバラになってしまう。普段も、隙間時間があれば、家族のグループメッセージは各々のペースで超稼働している。

「おう。レポートやるけどな」

「明後日は?バイトは?」

「ないよ」

「なら明日は、半日でいいから私に付き合って」

「中身による」

「玲ちゃんの買い物」

「なんで。今欲しいもの特にないけど」

「今持ってる既出の、散々大学に着て行ってネタバレしてる使い古した服で、のーのちゃんとデートに行くのだけは殺しても許さないから。そんなことしたらマジで1ヶ月くらいかかる一番苦しい方法で殺してやるから覚悟しろよ」

「はいすみません。えー。でも明日か」

「予定はなさそうだけどマジで都合悪いなら明後日」

「んー……」

 少し思案する。正直レポートは遅れ気味な上、来週は結構シフト多そうなのも正直なところだ。この週末で可能な限り進めておきたいのは正直なところである。

「ってか、茗は休みなの?」

「休み。明後日は撮影入っちゃってるから、明日がいいなぁって」

「まあ、服とか買うなら茗いた方が助かるしな。じゃあ、明日行くか」

「OK。渋谷ね」

「はいはい。お代わりする?」

「する」

 こんな会話をしているうちに、茗のカレーは空になっていた。

 自分も空になったタイミングで、二皿持ってキッチンに向かう僕。

 そんな僕を見やってから、茗が傍においてあったスマホを触り出すのが見えた。

「茗は、友達とかと約束ないの?」

「んー?あ、まぁ……」

「あるだろ?あんまり遊ばないじゃん茗」

「なくはないけど…よっし」

「ん?」

「今キャンセルした」

「…は!?」

「玲ちゃんと渋谷行ける機会なんてなかなかないし、そっち優先」

「…お、お前は本当に……」

「いいじゃん。私が楽しい方、私が大切な方を選んでるだけ。大学でいつも顔合わせてるんだし、別にいいよ。きっと、卒業したら会わないし。ってか3年次になったらか」

「芸能科はキャンパス別れるしなぁ」

「それね。しかもクラス全部シャッフルだしなんなんだろうねあのシステム。でもまあ、私としては中途半端に芸能かじってるやつに絡まれ続けられるより全然いいけどさ」

「……本当、しっかりしてるよ」

 茗には聞こえないくらいの独り言。面と向かって褒めるのはなかなかあれだ。恥ずかしい。

 カレーのお代わりを一杯目よりは少なめに盛って、ダイニングテーブルに戻る。

「あ、食べ終わったらお洗濯しなきゃ。できる?」

「いいけど、茗が頼まれたんじゃないの?」

「そうだけど、お願いしていい?」

「なんで」

「怠けたいから」

「……却下」

「えーなんでー」

「干すのだけでいいから手伝ってよ。そこまではやるから」

「むー。まあ、いいか」

 納得しきっていないようだが、しぶしぶ了承する。そんな表情のままカレーにかじりついたら、笑顔になる。

「へいひゃんはひょうなにひてひたほ」

「ああ?ちゃんと食べてから言いなさい」

「…むぐぅ……ふう。玲ちゃんは今日なにしてきたの」

「大学行って、バイトだよ」

「違うよ。のーのちゃん大作戦だよ」

 ノートの話ししかないのでそれをしたところでそんなの知ってるときゃっかされあアドリブネタはないのかと詰め寄られでもあとは気の合う仲間で学食に行ったぐらいだって説明したら噛み付かれた。

 そんなんだからダメらしい。

 けど、そこはそれぞれのペースだと思うんだけどな。

 夕飯を終えて、洗濯機を回し、洗い物諸々を終える頃には洗濯は終了した。そんなに分量がなかったこともある。

「おーい。茗」

 先日説教という名の講義を受けたリビングのソファで寝転がってスマホをいじっている茗に声をかける。

「なーに玲ちゃん」

「洗濯終わった。ベランダに干しに行くぞー」

「むう。妹をこき使う非情な兄だ」

「兄を必要以上に追い込んでくる悪魔の妹よ行くぞ」

「……はーい」

 やると行ったことは、駄々をこねてもやる。その性格を兄が知らないわけないだろ、茗。

 二階のベランダに出ると、少し肌寒かった。

「ふわ!ちょっと涼しいね」

「もう秋口だからなぁ。さあ、冷える前に干しちゃおう」

「うん」

 そう言って、二人で作業を進める。

 ベランダに明かりはない。満月が空に出ていて、ベランダに出るために通る母の部屋の蛍光灯の明かりはあるけれど、パーティがしたいからと広めにできているベランダ、テラスといっても差し支えないかもしれないそこに続く部屋の明かりは弱々しくしか差し込んで来ない。

 そのせいで、僕と茗の表情はきっと、お互いにぼんやりとしか見えていない。

 そんな明かりの中、半ば手探りで洗濯物を干していく。

「玲ちゃん」

「ん?なに?やっぱり寒いか?なら、僕やっちゃうから戻ってていいよ」

「ううん」

 茗はもうとっくに部屋着だった。もっとも、だいぶモコモコした素材のものを着ていたから寒くはないようには見えたけど。

「なんだよ」

「…おめでとうね」

 やばい。

「な、なんだよ急に」

 茗のこのトーンは、何かを覚悟しているトーンだ。それが何かまではわからないけど。

「やっと…やっと、抜け出したね」

「……ああ」

 僕たちは、少しでも気をそらそうと、作業する手を止めない。けど、速度は明らかに落ちている。冷えるから、早くしようと言ったのに。

「…今は、のーのちゃんのこと、どう思ってる?」

「……うん。現金な話だけど。あの日、リビングで話してから、日に日に輪郭がちゃんとしてきてる気がする。ちゃんと、好きだねきっと」

「そっか」

 どこか、寂しげな声色に聞こえた。

「うん。なら良かった」

「茗のおかげだよ。あの日がなかったら、こうはなってないと思う」

「でしょー?感謝しなさい」

「してます。結構、本気で」

 洗濯物は、あと一つ。それを僕が手にとって、干し終えるまで、無言だった。

 まるで干し終えるのを待っているかのように、茗が発した。

「…聞いていい?」

「なに?」

「…玲ちゃんの、今の夢」

 夢。それが、僕に対する禁断の質問であることを、茗は痛いほどわかっているはずなのに、今ここでそれを訊いてくることの意味くらい、わからない僕じゃなかった。

「…茗と違って、相変わらず、何になりたいとか、こういう仕事したいとかは、やっぱり、ない」

「……そっか」

「でも、まだないだけなのかなぁって、思う」

 煌々と光る満月が、雰囲気的に世界で僕たち二人だけを照らしているようにも感じられた。

「……え」

「実はちょっと、空想の中では、それっぽいものが見えていなくないんだよね」

「……嘘」

「本当。茗のおかげって部分も結構あるんだけど。結構?半分以上かな」

「……どんなの?」

「…もし自分がそんな立場になれるのなら」

「うん」

「身の回りの人を。父さんとか、母さんとか。茗を、幸せにできる人間になることができるなら」

「……うん」

「そこにもし、山﨑も含まれたら嬉しいけど」

「あはは」

「…でも、そうだな。その四人を幸せにすることができることをしたい」

「……そ…っか」

 少し、茗の声が歪んでいた気がした。

 鼻をすする音がする。

「ありがとう。茗。君がいなかったら、こんな風に思えなかったよ」

「……バカ玲ちゃんだからな」

 泣いて、いた。

「…そうだなぁ」

 と言いながら、僕は洗濯カゴを持って部屋の方に歩む。

「茗、まだここいる?」

「うん。寒くもなくなってきたし、もう少し」

「風邪引くなよ」

 そういって、部屋のサッシを閉めようとした時。

「ねぇ」

「…」

 その声色に、僕は無言しか返せなかった。返す言葉が、僕の中になかった。かつて一度しか聞いたことがない。けれど絶対に忘れることのできないその茗の声だった。

「本当に、嬉しいんだよ。これからも、みんなでいようね。良かったね。お兄ちゃん」

 僕も、もうその一言でダメだった。込み上げるものが、ありすぎた。全然受け止められない。押しつぶされそうだけど、それは、僕らの中で優しい記憶にしていかなければいけないものだったから、心だけ笑わせて、立っている。

「茗、戻ってきていい?」

「いいよ。私がいるところに、お兄ちゃんが居ちゃいけない場所なんてないよ」

「…ありがとう。なら、ココア入れてくるから待ってて」

「…うん」

 満月の下で、少しだけおかしかったのかもしれないけど。

 僕を取り巻く。

 僕が繋いできた、血縁だけど、絆は、間違いでは絶対にない。

 なら、そんな僕が新たに繋ぎたいと願う絆は、どうなのだろう。

 もしそれが紡げたならきっと、僕の中では奇跡だ。

 どんなに小さくて。

 どんなにしょうもなくて。

 何よりも普通でも構わない。

 僕の大好きな人たちが、幸せになる世界に行くことができるように。

 そんなことは、君たちがいなきゃ、きっと一生思えなかったんだよ。

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