第3話 ミントスプレー

D.

 用事を済ませて帰ってきた娘の遥さん、そろりと開けた引き戸から首だけ差し込んで、

「ただいま」

 囁きました。家の中は静まり返っています。期待した通り昼寝の最中でしょうか、お母さん、佳澄さんが動き回る気配はありません。靴がないので男二人はまだ外にいるようです。

 一度は玄関の外に隠した大振りな保冷バッグを、遥さん、しっかり抱えて自分の部屋へ一直線。荷物を下ろして楽な服装に着替えると、ようやく一息付くことができました。

 プロのパティシエがオーナーを務める隣町のカフェは、さすが人気店というべきたいへんな混みようでした。予約の品を受け取るだけでもかなり待たされてしまったのです。

 ただ、憧れの店の様子を心ゆくまで観察できたので、遥さんにとってはたいへんハッピーなひとときでした。大学生になったらあんなカフェで働いてみたい。夢は膨らみます。

 まさか接客業に興味を持つようになるなんて。自分のことながら意外でした。消極的で独りよがりなタイプだという自己分析は、スポーティな彼氏の影響かもしれません、ここ最近変わり始めています。

 誰かの笑顔が胸に温かい。ありがとうの言葉が嬉しい。そんな遥さんの心の変化を知っているのは、今のところ家族の中で一人だけ。

 ――カフェでアルバイト? 遥に務まるの?

 口では心配しながらも、娘の希望を知った佳澄さんは嬉しそうに笑っていたものです。

 その佳澄さん、案に違わず座敷で昼寝の最中でした。遥さん、スマホで男二人に連絡します。

『ママのシエスタを確認。連れ出す必要なし。プランBに移行。帰宅の際は静かに!』

 それからしばらく後のこと。

 できるだけ音を立てないよう洗濯物を取り込んでいた遥さんは、佳澄さんが遠目にもそれと分かるほど寝苦しそうなことに気付きました。

 無理もありません。あちこち開け放してあってそこそこ風は通るにしても、八月の昼間にクーラーも扇風機も付けないまま寝ているのですから。

 どうにかしてあげたい。ただ、佳澄さんは昔から冷房が苦手。扇風機はスイッチや羽の音が気になるし、ずっと団扇うちわであおいでいてあげるわけにもいきません。

 思いついた遥さん、洗濯物からタオルケットを一枚引っ張り出しました。自分の部屋に戻って、寝付けない夜の頼れるお供『おやすみ☆ミントスプレー』を吹きかけます。たちまち爽やかな香りが鼻先に漂いました。

 座敷に取って返し、寝ている佳澄さんの側に改めて膝をついたときです。

 ママだって昔は、今の私と同じように女子高生だったんだ――。

 母親の無防備な寝顔を見下ろした遥さん、はたとそのことに思い至りました。

 就きたい職業やなりたい自分、将来の夢があったのかもしれない。もしそうだとしたら、今の生活をどう感じているんだろう。

『母親だから』を言い訳にして、私はこの人に甘えすぎていないかな。今度、家事の分担について家族会議を開いてみようかな。

 遥さんは佳澄さんにそっとタオルケットをかけてあげました。誰かの笑顔よりも先に見たい笑顔がある――。そんなことを思いながら。

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