第2話 シエスタ
M.
佳澄さんは拭き掃除の手を止めました。
開け放した縁側。洗濯物が揺れる夏の庭は明るくて眩しいくらい。座敷の中がいっそう薄暗く感じられます。
名前を呼ばれた気がしたのですが、空耳だったようです。揺れる風鈴。蝉の声に混じって遠いジェット音。誰かがどこかへ旅に出たのでしょう。飛行機に乗って。
「いいなあ」
座敷の後はリビングの掃除。お風呂もまだ洗ってないし、夕飯のことも考えないと。店屋物でいいかなあ。せめて今日くらいは自分を甘やかしたいなあ――。
佳澄さん、見返り欲しさに家事なんかしていません。だけど、特別な日にお祝いの言葉も労いの一言も貰えないのは、やっぱり寂しい。
手にした写真立てを
このとき、お腹にはもう遥さんが宿っていました。琢磨さんの表情がやけに硬いのは、そのことを撮影の直前に聞かされていたからなのです。二人とも大学四年生でした。
佳澄さんはある航空会社から貰っていた内定を辞退しました。卒業してすぐに結婚、家庭に入って琢磨さんを支えました。遥さんを産み、五年後には奏太くんを授かり、家事と育児に追われて瞬く間に過ぎた十数年間でした。
中堅IT企業に勤める夫。二人の子供。郊外の庭付き一戸建て。
幸せかと聞かれたら、佳澄さんはもちろんと答えます。ただ、
これからもきっと同じような毎日が続いていく。そう思うと胸の奥がもやもやしてしまうのです。特にこんな、家族の誰からも忘れられてしまったような一人きりの午後には。自分の存在意義がひどく希薄なものに感じられる、味気なくて物足りない昼下がりには。
「……私も出かけようかなぁ」
当てこすりめいた独り言。行動に移す気はありません。疲れた身体はむしろ休憩を欲しています。
横になり、座布団を折って枕にしました。習慣的にスマホをタップ。アイドルグループ・ストームのメンバーに女性スキャンダル。人気俳優・加納翔の愛人問題。下世話な芸能ニュースを流し読み。すぐに飽きて目を閉じました。
さっき私を呼んだのは私の中の私かもしれない。
ぼんやりとそんなことを考えます。閉じた瞼の裏で、今よりずっとアクティブだった若い頃の自分が目を吊り上げています。
『このままでいいの? これが望んだ暮らしなの?』
拳を握って不満そうに訴えてきます。
『献身的で優しいママが私のゴールなの? 年に一度の大切な日を忘れられるなんて、家族からないがしろにされすぎじゃないの?』
はいはい文句を言わないの、と佳澄さん。唇を尖らせた昔の自分を
仕方がないじゃない。毎年進んで祝ってくれる遥は、今年は受験生、自分のことで手一杯だし。男二人はそもそも記念日になんか無頓着だし。
などと理由や言い訳を並べれば並べるほど、やりきれなさは募るのでした。不当だ。不服だ。納得いかない。こんな今とは違った未来だってありえたのに――。もう一人の自分がいよいよ声を張り上げます。
内なる叫びのあまりの激しさに、佳澄さん、だんだん怖くなってきました。今とは違った未来を望むだなんて家族に対して申し訳ない。けれどもう止めようがありませんでした。だってあまりにも寂しかったのです。
『そうよ、自分に嘘をついちゃダメ!』
我が意を得たりと少女の佳澄さんが訴えます。
『あんな冷たい家族なんか放って、私は私の人生を歩きましょう!』
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます