ママと真昼のナイトメア

夕辺歩

第1話 ダイニング

M.

 今日のお昼は豚肉の卵とじと素麺。夏のある日の夢野家です。

 そわそわしているのは主婦の佳澄かすみさん。無理もありません。もう正午過ぎなのに、まだ誰からも一言もないのですから。今日が何の日か、家族のみんなは覚えていないのでしょうか?

 喉を鳴らして麦茶を飲み干した琢磨たくまさんが、ごっそさん、と手を合わせました。

「午後から俺、ちょっと出てくる」

「え、どこに?」

 佳澄さん思わず高い声。

「会社? 休日出勤?」

「んん」

 イエスともノーともつきません。優しいけれど、無愛想で口数の少ない旦那さんなのです。さっさとダイニングに背中を向けました。慌てた佳澄さん、冗談半分に自分から切り出します。

「ねえ、だったら今日はほら、出かける前に一言あるんじゃないかなあ」

「ん? ……ああ卵とじ? うまかった」

「あら、どうも」

 違うのそうじゃなくて! とは言えませんでした。滅多に聞けない言葉が嬉しくて。実際、不器用で料理が苦手な佳澄さんにしてはなかなかの仕上がりだったのです。

「ごちそうさま」

 佳澄さんの視線を遮るように長女のはるかさんも席を立ちました。

「ママ、あの服アイロンかけといてくれた?」

「うん。遥も出かけちゃうの?」

「約束あるって言ったじゃん」

「友達と会うの? 由紀ちゃん?」

「どうでもいいじゃん」

 シュシュを取った長い髪に手櫛を入れる遥さん。佳澄さん、ピンときました。

「さてはデートだな女子高生。こないだの彼? 1コ下でサッカー部の、ええと、誰君だったっけ、ストームの相田君と俳優の加納翔を足して割ったみたいな」

「デートじゃないし。てゆーか怜央れおとは私の受験が終わるまでお互い勉強に集中する約束だし」

「あ、ちょっと遥」

 怒ったように行ってしまいました。肝心な言葉を娘の口からも聞けなかった佳澄さん、期待してたのに、と突き出す唇はタコのよう。でもめげません。気を取り直して再びの笑顔。最後の一人に望みをかけます。

奏太かなた、今日は何の日だ」

「鼻の日」

「いや、そうかもしれないけど他にもあるでしょ? 8月7日は」

「バナナの日」

 小学生の奏太くん、そっけない口振りが琢磨さんに似てきました。

 佳澄さん諦めて笑うしかありませんでした。

「ごちそうさま」

「はいお粗末さま。奏太もお出かけ?」

「図書館」

「そう。車に気を付けてね」


 洗い物をしながら、身支度が済んだらしい遥さんの冷やかな『行ってきます』を背中で聞きました。玄関の引き戸がピシャリと閉まって、静かな家の中、佳澄さんは今日も一人きりになったのでした。

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