琴子が自称“深沢先生のお手伝い”として毎日勝手に深沢家に押しかけるようになってからしばらく経ったが、彼女は一度も誠一郎が執筆作業に取り組んでいるところを見たことがなかった。


 彼女が見たことのある場面と言ったら、病気で寝込んでいるところか、縁側でため息をついているところ、一ページも進まない本を手に放心しているところくらい。


 あとは、琴子の姿を見つけるたび、「手伝いなどは必要ない。君にここにいられると困るので、帰ってくれないか」とは言われたが、彼女はそのたび上手いこと切り抜けていた。言葉巧みにその場を逃れてみたり、時には涙をうるませてみせたり。


 けれど。彼はある日外出から帰ってきたかと思うと、そのまま書斎にこもって机に向かいはじめた。


 頭を抱えながら何度も書いては、それを没にして、新たに書き直す。畳の上には、没になった紙たちが着実に領土を広げていた。


 本格的に創作に入った彼の生活は本当にひどいもので、ひたすら書き、書き疲れたらその場で横になって寝る。起きたらまたそのまま書く。その繰り返し。昼夜など関係ない。


 そんな日が数日続き、琴子がいつものように彼にお茶を出しに行ったときのことだった。


 彼女が部屋に入ると、いつもは「いい加減諦めてくれ」と言われるのだが、ここ最近は何も言われなくなった。というより、執筆に集中していて気がついていないのかもしれない。もしくは、もう言っても意味がないと悟ったのか。


 いずれにしても琴子にとっては、彼に馴染めたような気がして嬉しかった。このままなし崩し的にお手伝いとして正式に採用してもらえないか、そんなことを考えていた。


「先生、お茶を置いておきますね……」


 ほとんど飲んでもらえはしないのだが、いつものようにふすまからすぐのところに置いて去ろうとする。


 だが、室内は妙に静かで、琴子がこっそり中の様子をうかがうと、誠一郎が仮眠をとっていることに気がついた。


 琴子はファンとして彼の新作の小説に強い興味をいただいていた。好奇心が抑えられず、物音を立てないように書斎机に近づき、その上にある原稿らしきものを手に取った。



『――貴女の声が聞けない日々は何をしても味気なく、息をするだけでもつらい。思い出すのは貴女と交わした言葉の数々と、貴女のいる景色ばかり』



 また恋愛ものを描かれているんだ、と思い、琴子はワクワクしながら読み進める。



『――貴女を傷つけた僕の不誠実なふるまいを、どうか許してください。僕には貴女しかいません』



 あれ、と、夢中で文章を追う琴子の視線が止まった。その表情がだんだん神妙なものになっていく。


 これは原稿ではなく、彼の個人的な手紙だ。


 それにはっきり気がついたとき、琴子は自分でも知らないうちに唇を強く口の中に巻き込んでいた。


 琴子がひた隠しにしてきたある思いが、胸の中でうずき出す。




 神矢に言われて誠一郎が思い立ったこと。それは椿月に手紙を書くことだった。


 何事においても器用な方ではないと、彼は自分でも自覚している。神矢のように達者に、気の利いたことなど喋れない。


 でも、紙の上でだったら、普通の人よりも少しは自分の気持ちを饒舌に語ることができるはず。


 部屋にこもり、椿月への謝罪の手紙をひたすら必死に書き続けていたのだ。




 琴子が誠一郎の手紙を盗み見たその日を境に、彼女はパタリと深沢家に来なくなった。


 気づけば彼女がいつもお茶を置いておくところに、「お暇をいただきます」と書かれた書置きがあった。


 誠一郎としては暇も何も、そもそも雇ったつもりなどないのだが。


 あれだけしつこくやって来ていた彼女が急に諦めたことを不思議に思いつつも、とりあえずは良かった、と胸をなでおろした。






 その数日後、神矢がまた本を借りにやってきた。


「あれ。例の娘はいなくなったのか?」


 神矢は誠一郎だけが出迎えた玄関でそう尋ねる。


 誠一郎は琴子が書置きを残し、突然来なくなったことを簡潔に話した。


「ふーん……。よく分からないが、まあ、良かったな」


 話に聞いていただけではあったが、それだけ熱心に通いつめていたらしい娘がいきなりすっぱりと諦めたことについて、神矢も腑に落ちない様子だった。


 しかしそれに関して考えても、きっと答えは出ない。きっと彼女の気が突然変わったのだろう、という無難な想像に落ち着けておいた。


 神矢は勝手知ったる深沢家に上がると、いつものように本棚の置いてある部屋へ向かった。その後を誠一郎がついていく。まるでどちらが家主だか分からない。


 借りていた本を本棚に戻し、借りていく本を物色する。気になる作品を手に取り、パラパラと中身を見ては戻す。


 神矢が本を選んでいる間、誠一郎はその部屋からすぐの縁側に腰を下ろしていた。


 いまだに悩んでいる椿月への手紙のことを考えながら、先日面倒ながらも夏の猛攻に屈して草を刈った、殺風景な庭に視線をやっていた。


 庭を囲う塀は雨だれの染みや経年による変色、それにヒビなどでもうかなり古びているはずなのに、夏の強い日差しを浴びると真っ白に輝いて見える。


 それを不思議に思いながら眺めていると、本棚のある部屋の方から神矢の声が聞こえてきた。


「……そういやさ。昨日、劇場の楽屋が大変だったんだ」


 本を探しながら話しかけてきているようで、単語と単語の間が少し開く。


「簡単に言うと、楽屋泥棒ってやつがあって……」


「それは――」


「椿月に被害はない。……ついでに言うと俺も被害は受けてない」


 誠一郎の質問を予想して、神矢は回答を先取る。


 そしてぽつぽつと話を続けた。


「昨日の昼公演のとき、楽屋のある関係者通路はほぼ無人になっていたんだ。楽屋にはすべて鍵がかかるようになっていて、出番の間は、楽屋の通路のそばに控えてるいつもの担当の係のやつが、鍵をまとめて預かってるんだが……」


 誠一郎は、椿月を訪ねて何度か行ったことがある楽屋のことを思い出しながら聞いていた。


「でも、その時に限って、それを別の奴が預かってたんだ。……覚えてるか? この間、劇場で大荷物運んですっ転んでた女の子」


「……覚えています」


 片手の握力が弱いという不利を抱えながらも役者になる夢のため頑張っており、椿月が親身になって応援しているという少女だ。少女も椿月のことを慕っているように感じられた。


「事件があった時、ちょうど担当の係の奴が、急に外に出なきゃならない緊急の用事ができてしまったらしくて。楽屋前の通路の掃除をすることになっていたあの子に、一時的に預けていたそうだ」


 もし預かった鍵も一緒に持ってその場を離れていってしまったら、急ぎで出演者が戻ってきたりしたときに中に入れなくなってしまう。かといってそこに置いておくわけにはいかないし、楽屋前にいる少女にその時だけ預けておくというのは考えられる判断だろう。


「公演が終わって出演者たちが楽屋に戻ると……複数の楽屋の中が荒らされて、金目のものがなくなっていて、もう大騒ぎさ」


 神矢の言葉を待たずとも、一番に誰が容疑者になったのか想像がついた。


「……真っ先にあの少女が疑われた。鍵を預かっていたこともだし、何よりあの子自身が『公演中は、ずっとそこで掃除をしていた自分以外、誰も廊下に来ませんでした』と証言してる」


 濃い青の空を半分に切る、眩しく光る白い塀を見つめながら、耳は神矢の話を聞き、誠一郎は考えていた。


「昨日、事件が発覚してから、あの子は劇場でずっと質問攻めにされてるはずだ。あの子が盗みを働くようには見えないんだが……。疑われても仕方がない状況だし、弁護のしようもないんだよなぁ……」


 誠一郎は今の話を聞いて、ある可能性を察していた。


 それのために、誠一郎は考える。


 楽屋泥棒――。


 鍵を預かることになった少女――。


 誰も廊下に来なかった――。


 あごに指先を添えて考えながら、ふと思いついたことを神矢に尋ねる。


「……そういえば、前に、劇場に座敷童だか悪霊だかがいるのではという噂が流れていると言っていましたよね」


 唐突な問いに、神矢は「んっ?」と面食らったような声を上げてから、「ああ、確かそんなこと言ったな」と言葉を返す。


「それはもしかして、どこからか子どものヒソヒソ声や足音なんかがするのでは?」


「お……よく分かったな。構造的にその周りに他の部屋や階がないようなところからも聞こえてくるから、夏ってこともあって面白半分に不気味がられてたらしいんだよ」


 誠一郎は質問を続けた。


「それから、確か楽屋の天井は格子状の枠組みに、上から木の板をはめ込んだ造りになっていましたよね」


「多分そうだったと思うが……それがどうかしたのか?」


 いよいよ本格的に楽屋泥棒の話から逸れてきて、神矢は訝しげに問い返す。


「最後にもう一つ。泥棒に入られた楽屋は、床が黒くすすけて汚れていませんでしたか」


「ああ、被害にあったやつがそんなこと言ってたな……」


 言われてみれば確かに、と思い出すように神矢はつぶやく。


 そこまで確認すると、誠一郎はこう口にした。


「そうなると……色々なことから考えて、楽屋泥棒の犯人として疑わしいのは――――」


 その名を聞いた神矢は、すぐさま本棚の部屋から飛び出してくる。


「……それ、マジか?」


 目を丸くしている神矢に、誠一郎は言う。


「今の神矢さんの話を聞いて考えただけなので、断言は出来ませんが、恐らく」


 神矢は座っていた誠一郎の腕をぐいと引き上げた。


「センセー、一緒に来てくれ。今日警察が捜査に来るらしいんだ。あの少女が冤罪で連れて行かれるかもしれない!」






 劇場の関係者専用口のところでは、先ほどから必死の攻防が繰り返されていた。


「だから、何度も言うがね。状況的に、そのとき鍵を持っていたその子しか部屋に入ることは出来なかったんだ」


 くたびれたスーツに中折れ帽を合わせた、中年ほどの刑事と思われる男性が、いらだった様子で同じ言葉を繰り返している。


「この子はやっていないと言ってるわ」


 怖い顔をした刑事にただ一人たてついているのは、栗色の短い髪にタイトなドレスをまとった、舞台衣装姿の椿月だった。


 化粧や装飾品のおかげで、普段よりいくつも年上に見える彼女。それでもかなり年上の刑事が相手ともなると、流石に怯んでしまっているようだった。


 彼女の後ろには、涙をぬぐっている少女の姿がある。


 神矢から話を聞いて誠一郎が察していた可能性。それは、少女のことを椿月がかばっているのでは、ということだった。


 その予想はまさに的中していた。


「女優さんねぇ、犯人っていうのはみんな『やってない』って言うんだよ」


 わざとらしいため息をついて、呆れてみせる刑事。


 椿月は食い下がる。


「でも、この子は本当にそんなことをする子じゃないの……」


「だから、『そんなことする人じゃない』なんてみんなが思うんだ。いい加減にしないと、女優さんごと連れて行くことになるぞ」


 その脅しの言葉に、そばでオロオロしていた館長が椿月をなだめに入る。


「椿月。気持ちは分かるが……理解しておくれ」


 この子がやっているはずないのに、どうして彼女をかばう自分が分からず屋のようになだめられなければならないのだろう。いつもの余裕ある女優の姿の時には似つかわしくなく、椿月は悔しさと無力さにその美しい顔をゆがめた。


「館長、信じて。この子じゃないのよ……」


 椿月の訴えに館長も同意してあげたいのだが、状況はどう見ても少女に不利だ。警察だけでなく、劇場の人間たちもこの少女が疑わしいと思っている。


 どう説得しても信じてもらえない。椿月が視線を地面に落としたとき。


「……捕まえろ」


 刑事が部下たちに、少女を捕らえるよう指示を出す。


「だめ、連れて行かないで!」


 椿月は悲痛な声で訴え、少女を全身で覆うように抱きしめる。少女も震える手で椿月にしがみついた。


 誰か助けて。そう心の中で叫んでも、二人を守ってくれる人は誰もいない。


 混乱にざわついた一帯。騒動を見物する野次馬たちの勝手な声と、警察の怒声。少女の泣き声と、濡れ衣だと訴える椿月の声。そんな彼女を説得しようとする館長の声。


 もう誰にも収めることができない、どうにもならない騒ぎの中。


 ある人物の、よく通る声が響いた。


「やあやあ、皆様おそろいで。ご機嫌麗しゅう!」


 思わず誰もが声を止め、声のした方を見てしまう。


 そこに立っていたのは。


「当劇場で現在絶賛公演中・舞台『サウス湖畔の夕暮れ』の“主演”俳優、神矢辰巳です。どうぞよろしく」


 神矢はまるで舞台に立つときであるかのように優雅な立ち振る舞いで、人々の目を一気にひきつける。“主演”の部分はかなり強調されていた。


 神矢の圧倒的な存在感、発言は耳目を集める。先ほどまで各々が勝手にわめいていた状況が、今はすっかり静かになり、みなが神矢の方を見ている。


 椿月も、突然の神矢の登場に驚いて、少女を抱いたまま顔を上げた。


「この件に関して、ちょっと話を聞かないか? 損はさせないからさ」


 そう言って片目をつぶって見せる。こんなキザなふるまいも、神矢がやると驚くほど様になる。


 その提案に言葉を発したのは、怖い顔をした中年の刑事だった。


「……なら、貴様のその話とやらを聞いたら、問答無用でその少女を連れて行くぞ」


 神矢は「お好きにどうぞ」と、優雅に脚と腕の動きをつけて恭しく礼をしてみせる。


 椿月は思わず少女を抱く両腕に力を込めた。神矢はなんて勝手なことを約束してしまったのだろう。


「それじゃ……後はよろしくな」


 そのセリフと入れ替わるようにして、人々の注目を集めて時間を稼いだ神矢の背後から、現れる姿があった。


 療養生活ですっかり体力が低下してしまった誠一郎が、ようやく神矢に追いついたのだった。


 上がった息を整えるのと、神矢がとんでもない振りをしていたことを嘆く意味でも、膝に手をついて何度か深呼吸をした。


 弱々しげでパッとしないその姿に、刑事たちも周囲の野次馬たちも怪訝そうな視線を向ける。


 ここまで大風呂敷を広げておいて突然の選手交代をした神矢は、少し下がって様子を見守っている。


 誠一郎は顔を上げた。


 視線の先には、ずっと会いたかった人の姿があった。予想通り、あの少女を必死にかばっている。誠一郎の登場に驚いた彼女の、心細げな視線とぶつかる。


 あの少女を守り、椿月のことを守らなければ。


 誠一郎はすっと立ち位置を移動して、二人を背においた。


 そして、口を開く。


「……この少女を連れて行くという判断は、早計ではないでしょうか」


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