誠一郎が再び劇場に向かうことができたのは、あれからいつの間にか居ついてしまった琴子の制止を振り切れるほど、体力が回復してからのことだった。


 その頃にはもう、あの日から一週間以上が経ってしまっていた。


 しばらくの療養生活ですっかり体力と筋力が落ち、いつも普通に歩いているはずの劇場までの道のりで息が上がってしまうほどだった。


 しかし、それより何よりもショックだったことは、椿月への取次ぎを拒否されてしまったことだった。


 以前の事件で面識を持った館長から、申し訳なさそうに、「すまないね。椿月が君に会いたくないと言うんだ……」と告げられた。


 ただの観客の一人に過ぎない彼がいつも関係者通路や楽屋まで立ち入らせてもらえるのは、椿月の客人であるからだ。


 「会いたくない」と言われても仕方がない事態なのだとは分かっているけれど、諦めがつかない。


 どうしようかと困っていつかのように廊下をさまよい歩いていると、神矢に声をかけられた。


「よぉ。来ると思ってたぜ。何があったのか教えてくれよ」


 いつもと変わらない薄く笑うような表情の下で、誠一郎と椿月の間に何かがあったことを察しているようだった。


 人気俳優として舞台に出ずっぱりの彼だが、昼公演と夜公演の間のわずかな休憩時間を割いてくれた。


 神矢ははじめ、劇場内にある関係者専用の食堂で話そうと誘ったのだが、誠一郎は「もし椿月さんが利用していたら、僕がいると迷惑になると思うので」と断った。


 神矢は誠一郎のきまじめさに呆れつつ、ならば適当に外を歩こうと、二人は街中に出た。


 広い劇場敷地を囲う、赤茶色のレンガを積み上げた塀の外に出ると、すぐに繁華街が広がっている。昼下がりともなればその賑わいは顕著で、食事に買い物に、沢山のめかし込んだ人々が行きかっている。


 着古した着物と袴。いつから使っているかも覚えていないつば付きの帽子。地味な印象を増長させる銀縁の丸眼鏡。そんな誠一郎と共に歩く神矢の、なんとも洗練された身なり。最新の意匠がこらされた、海外仕込の仕立て屋によるスラックスとベスト。センスのいい、磨かされた革靴。糊の利いた真っ白なシャツに、胸から覗くスカーフの色が映える。


 歩いているだけで、すれ違う女性たちから手を振られたり、きゃあきゃあと黄色い声が聞こえる。単純に目を引く容姿の彼を見て騒いでいるだけの若い娘たちもいれば、彼が俳優の神矢辰巳だと分かって驚きの声をあげる婦人もいる。


 そんな神矢のそばにいれば、あらゆる男がただの通行人Aと化す。というより、そばに誰かがいることを認識すらしていない人も多いのではないだろうか、と誠一郎は思う。


 考えてみると、椿月と二人で街中を歩いているとき、誠一郎はよく視線を感じることがあった。


 椿月は普段の姿では女優だということは全く分からないはずだから、きっと人々は純粋に見目の優れた女性だからつい見てしまうのだろう。それは分かる。しかしなぜ自分までもが視線を集めるのか不思議だった。


 今思うとあれは、「なぜこのように可愛らしい娘が、こんなパッとしない男と一緒に歩いているのか」という疑問の視線だったのだろう。今まで特に意識したことはなかったが、そうした疑問を持たれるのも当然のことだろうと誠一郎は思う。


 でも。そうやって彼女の隣を歩くことも、もう叶わないのかもしれない。


 心が深く沈みはじめたとき、神矢が「歩きながらだけど、話してくれよ」とうながしてきた。


 誠一郎は口を開く。


「実は……」


 琴子という娘が押しかけてきたこと。体調不良で強く追い返すことができなかったこと。そんな時に椿月がやってきてしまったこと。


 話を全て聞いた後。神矢は片眉を上げて芝居がかったため息をついた。


「はぁ。気を利かせたつもりだったんだが、俺が思うようにはいかなかったわけか」


 少し責任を感じているのか、神矢は自分の額に掌を重ねる。


 チラと横目に誠一郎を見やると、


「椿月が心配するほど、センセーはモテたりしないのにな」


 と、わざと茶化すように言ってみせた。


 誠一郎はうろたえることもなく真剣に答える。


「それはその通りですが。でもやはり、お付き合いをしているわけではないとはいえ、椿月さん以外の女性を勝手に家にあげるのは問題でした。反省しています」


 その言葉を聞いて、神矢は「んっ?」と眉根を寄せた。


「ちょっと待ってくれ。あんたら二人って、付き合ってないのか?」


 怪訝な表情でそう尋ねる神矢に、誠一郎はなぜそんなことを訊くのかとばかりに不思議そうに言葉を返す。


「僕の認識ではそうですが」


 神矢はそんな彼の顔をじっと見る。誠一郎は首をかしげた。


「うん、まあ……いいや。これ以上この話をしてると頭が痛くなりそうだ」


 そう言って神矢は指先で眉間を押さえた。


 心の中では、「いい年をした大人の男が、まるで子どものようなことを……」というセリフがめぐっていたのだが、神矢の善意で喉から下に押し込まれていた。


 しかし、神矢がそう思うのも仕方がないことなのである。


 誠一郎はもともと他人にほとんど興味がなかったということもあり、これまでの人生で女性に惹かれたことなど一度もなかった。彼が知っている女性の名前など、椿月以外では親族くらいしか挙げられないだろう。これが初めての、そしてかなり遅まきの恋愛感情だったのだ。


 神矢が自分の良心を総動員しているかたわらで、誠一郎はポツリとつぶやいた。


「……僕はもう、椿月さんに嫌われてしまったんでしょうか」


 誠一郎の思考をずっとめぐっているのは、椿月から告げられた「さようなら」と、「来ないで」という拒絶の言葉。


 当然執筆など手につくわけもなく。それでも作家としては書かなくてはならないのは分かっているのだけれど、「こんなことになっては、もう仕事などどうでもいい」という気持ちが頭をもたげているのも事実だった。


 今日、劇場に来てみて、取次ぎを拒否されてしまうともう会うことすらできない相手なのだということを、改めて思い知った。彼女との距離はあまりに遠く、こうなってしまうと二人はただの“舞台の上の人と客席の人”なのだ。


 目に見えて落ち込んでいる誠一郎に、神矢はこう言葉をかける。


「……どうでもいいやつのために、泣いたり怒ったり、女は心を動かしたりはしないぜ。怒るのは、椿月にとってあんたが重要な人物だからだよ」


 誠一郎は黙っていた。


 そう言われても、本当は怒らせたくなんか、悲しませたくなんかなかった。


 彼が深く考え込んでいると、神矢はふざけるように、


「センセーがそんなことなら、俺が本気で口説きにかかるけど?」


 といたずらっぽく口角を上げてみせる、が。


「……駄目だ、聞いてないな」


 誠一郎は深く思案していて、神矢の冷やかしなどまったく耳に入っていなかった。


 神矢は誠一郎の背を平手で打ち、意識をこの場に戻させる。


「で。その琴子って娘は一体何者なんだ?」


 誠一郎は咳払いで気持ちを切り替えて、説明する。


「彼女が言うには、いわゆるファンだそうです。上手いこと出版社の人間から住所を聞き出しでもしたのかと」


「ファンねぇ……」


 いぶかしむように片眉をあげる神矢。


「今はどうしてるんだ?」


「それが……」


 誠一郎が口ごもったことから全てを察し、神矢は目を見開いた。


「まだ家に通って来てるのか?!」


「……追い返したいのですが、言うことを聞いてくれなくて。強く言うと泣こうとするんです」


 困ったようにそうこぼす。


 それはまた面倒な女に捕まったな、と神矢は彼に同情する。


 誠一郎と神矢は街中をあてもなく歩いていたが、過ぎる時間は二人を自然と劇場の方へ戻す。


 神矢は誠一郎と会話しながらも、たまに手を振ってくる周りの女性たちにしっかり手を振り返し、どちらへの対応も完璧だった。誠一郎は神矢の器用さにただただ感心してしまう。


 劇場に戻り大きな正門をくぐると、建物正面口の混雑を避け、関係者専用口の方へ向かった。


 関係者通路に直結しているそこは、劇場に付属する出演者らの楽屋が並ぶ平屋に続いている。


 正面口より客の目につきづらく、付近には役者たちだけでなく舞台の裏方を務めるような人々の姿もちらほら見られる。


 誠一郎は椿月と会いたい気持ちはありながらも、向こうが「会いたくない」と言っている以上、会ってきまずい思いをするのは嫌だし相手にも申し訳なくて、遭遇を避けるべくぐるりと周りを見回した。


 すると、劇場裏手の方から駆け出してくる、いくつもの姿が目についた。


 それは細っこく身軽そうな少年たちで、手には色々な荷物を抱えている。竹ぼうきや雑巾などの掃除用具、ブリキのバケツに詰め込まれた縄梯子。劇場の備品を運んでいるのだと思われる。


 そんな中、最後尾を一生懸命走ってついていく、一人の少女の姿があった。


 お世辞にも走るのが早いとは言えない。そしてどう見ても、持っている荷物が一番多い。持っているというか、持たされているのだろう。


 誠一郎がそんな姿をふと目に留めたとき、少女は地面に足を取られて派手に転倒した。両腕にかけられていた沢山の荷物がぶちまけられる。


 少女は慌てて拾うが、なんだか妙にもたもたしていて、手際が悪い。


 誠一郎は見て見ぬ振りをすることができず、そばに寄ってその荷をまとめるのを手伝った。大きな二つのバケツの中に様々な荷物を詰め込む。


 荷物がまとまると、少女はそのバケツにそれぞれの腕を通し、重たそうに持ち上げた。


 最後に誠一郎をチラリと見上げ、ぺこりと頭を下げる。


「おい、早く来いよ! ノロマ!」


 少女は誠一郎に何かを言おうとしたようにも見えたのだが、先を行く少年たちの怒声によってその言葉は奪われた。もう一度頭を下げると、急いで駆け出した。


 いつの間にか黙って姿を消していた誠一郎を追いかけ、背後から神矢がやってくる。


 今の一部始終を見ていたようだ。


「あの子、知り合いなのか?」


 神矢が尋ねると、「いえ」と断った上で、


「でも、椿月さんにあの少女が話しかけてきていたのを覚えています」


 と説明を足した。


 以前に、椿月が熱心なファンの付きまといに困っていたときのこと。あの少女は椿月のことを心配してくれていた。誠一郎はそれを記憶していたこともあり、なんとなくあの子を放っておけなかったのかもしれない。


 なるほどね、と神矢が腕を組む。


「あの子、生まれつき片手の握力がかなり弱いらしいんだ。物の扱いが決め手になる芝居ってのは多いから、本当は舞台には不向きなんだが……役者になりたいっていう一心でここの手伝いをやってるらしい」


 まるで丸々人から聞いたような言い方だ、と誠一郎が思っていると、神矢は情報を付け足した。


「椿月があの子の熱意を買って、応援してるんだ」


 それを聞いて誠一郎は納得した。彼女自身もきっと苦労して女優になったのだろうから、共感する部分もあるのだろう。


 同時に、椿月とのことを思い出して、また心がぐっと重く感じられる。


「それにしても、あんな大荷物持たせることないだろうなぁ。ちょっと後であいつらに言っとかないとな……」


 神矢は苦々しい表情であごをさすり、あの少年たちへきつく注意することを決めたようだ。


「……あのくらいの年若い少年たちも、劇場では活躍しているんですね」


 誠一郎の言葉に、神矢は「ああ」とうなずいて話題を切り替える。


「この業界に興味があったり、単純に駄賃稼ぎだったり色々だけど。例えば、あの少年たちは特に縄梯子で作業するのが得意なんだ。子どもは細いし体重が軽いから、梯子が立てかけられないような狭いところでも軽々移動できて、役に立つんだよ」


 なるほど、と納得する誠一郎のそばで、神矢が懐かしそうに過去を振り返る。


「俺があのくらいの頃にはもう、近所のマダムたちから好かれていたな。よくお小遣いをもらっていたものさ」


 誠一郎は「マダム」という言葉を実際に使いこなす人を初めて見た。そして、昔から神矢はこのような感じだったのだな、と思った。


「センセーはどうだったんだ?」


 そう訊かれて思い出そうとするが、昔の具体的な記憶があまり出てこない。これまで読んだ本のことならよく思いだせるのだが。


「……暇さえあれば本とばかり過ごす子どもだったと思いますよ。おかげで、同級生だとか学校のことはほとんど覚えていません」


「なるほどね」


 そうやって過ごしていると口下手になるんだな、というセリフの後半部分を、神矢は口に出さなかった。




 人気俳優が自由になる時間は少ない。関係者口の前のところで、二人は別れることになった。


 誠一郎は神矢に、話を聞いてくれたことへの礼を言い、頭を下げた。


 神矢としては相談に乗るというより、単に興味本位で事情を聞いただけだったのだが、そう真摯に感謝されてしまうとなんとなくばつが悪い。


 今更ながら埋め合わせをするかのように、とりあえずの慰めの言葉を急ごしらえで用意する。


「あー……なんだ、まあ、今は、劇場の中も色々騒がしいから、会いに来られなくてもちょうどいいかもしれない。季節柄なのか、バカげた噂がまことしやかに飛び交ってるからな」


 神矢の間に合わせの理由に気になるところがあって、誠一郎は言葉を繰り返す。


「バカげた噂?」


 自分で口にしたことながら、神矢は仕方がなさそうに説明する。


「……言うのも恥ずかしいんだが、なんか、最近、劇場に悪霊だか座敷童だかがいるって噂になってるんだよ」


 その説明のあと、少し間が空いてから。


「……そうですか」


 なぜそのような意味の分からない噂がまかり通っているのだろう、とばかりに冷めた返事を返す。


 誠一郎は更に思う。悪霊と座敷童では、同じようでいて両極端ではないかと。


「その反応が正しいぜ、うん」


 神矢はその冷めた対応を肯定した。




 別れ際。最後に神矢は、いつもの薄い笑みを浮かべながらこう助言した。


「なあ。あんたはあんたのやれることで勝負するしかないんじゃないか? 俺はそう思うよ」


 自分のやれること。


 誠一郎はそのことについて深く考えながら、家路をたどった。


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