連理の契りを君と知る episode3「夏の手紙」
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――どうしてこんなことになってしまったのだろう。
誠一郎は朦朧(もうろう)とする意識の中で考える。
心臓が鉛のように重い。ため息すら絞り出せない。すべてを呪いたくなるような沈んだ気持ち。
椿月から投げつけられた、冷たい拒絶の言葉が頭をめぐる。
時間を少しさかのぼる。
季節は夏の盛り。強い日差しが大地を熱し、木々や建物が落とす影は一層色を濃くしている。至る所で蝉が鳴き、氷売りの後ろを子どもたちがついて歩く。人々のまとう着物の生地も薄くなり、民家の軒先では風鈴がよく目につく。
そんな時期に、駆け出しの小説家・深沢誠一郎は、性質(たち)の悪い風邪にかかっていた。
割れるような頭の痛みと、悪寒で真冬のように震える身体。それでも頭と顔は燃えるように熱い。
物心ついた頃から、大抵の体調不良など放っておいても時間が経てば治っていた。こんなに具合が悪くなることなど、彼にとって恐らく人生で初めてのことだった。
廊下をまっすぐ歩けなくなり、ついには支えなしで起きていることができなくなったとき。彼は仕事をすることを諦めた。
それでもまだ、適当に横になっていれば治るだろうという、根拠のない自信があった。これまで体調を崩したことがほとんどないので、こういうときの判断や対処について知識も経験も乏しいのだ。
まだ風邪をひきはじめてすぐの頃。今のように寝込んでしまう前に、神矢が家にやってきた。
スラリとした体躯に、垂れ目に吊り眉の整った顔。洒落た服装と、ふわりとした髪質を生かして決まっている髪形。見目麗しい彼・神矢辰巳は、今人気の美形舞台俳優だ。
椿月を通じて知り合った彼は意外にも結構な読書家で、古いものを中心に大量の本が保管されている深沢家に、たびたび本を借りにきていた。
誠一郎の家は、一人暮らしの借家としては非常に不似合いな広さを持つ平屋の木造一軒家で、本棚だけが無秩序に詰め込まれた本専用の部屋がいくつもあった。
その広さの代わりと言うべきか、彼の借家は驚くほどに古く、様々なところにガタがきている。雨漏りは絶えないし、冬場の隙間風はふさぎきれたことがない。板張りの廊下は歩くたびにミシリミシリと不安になるような音を立て、大人の男二人で歩くなら十分に距離を空けようと思えるほどだった。
借りていた本を返し、また新しい本を何冊か借りていく。深沢家を貸し本屋のように利用したあと、どう見てもフラフラして様子のおかしい誠一郎に対し、神矢は「医者にかからなくていいのか?」と当然の問いかけをした。
誠一郎は「そこまでではないですから」と、熱を帯びた赤い顔で返した。
神矢から見ると、もうその段階まで行っているように思えたのだが、本人がそう言うのなら外野がとやかく言っても仕方がない。肩をすくめて、「ま、夏風邪はこじらせると大変って言うからな。気をつけろよ」と忠告するに留めた。
誠一郎の予想に反して、というべきか、神矢の予想通りというべきか。誠一郎の体調は一向に良くならなかった。
熱で頭は熱いやら、身体は悪寒で寒いやら、それでも夏で暑いやらで、どうしたらいいのか、どうしたいのか自分でも分からない。
もういよいよ医者の世話になった方がよいのではないかと、遅まきながら布団の中でぼんやり考えはじめた頃のことだった。
「ごめんくださーい!」
誰かが訪ねてきたようだ。玄関の方から声がする。
起き上がるのもしんどいくらいなので、悪いが無視をしようと思ったのだが。
「ごめんください! ごめんくださーーい!」
声は止まない。むしろ激しさを増している。
「小説家・深沢誠一郎先生のお宅ですよねー? 深沢せんせーい!」
家の前でこうまでわめかれたら、這(は)ってでも玄関に行くしかない。
だるい身体に鞭打ち、今ばかりは借家の無駄な広さを呪いながら、壁づたいに玄関にたどり着く。
なけなしの力を振り絞り、玄関の戸をガラガラと横に引いた。
「……どちらさまですか……」
力なく尋ねる彼の前に立っていたのは、見覚えのない若い女性だった。
背も低く幼げで、女性と言うより少女と言ったほうが近いかもしれない。きっと椿月と同い年くらいだろう、と誠一郎は思った。
縦縞模様の入った朱色の着物。黒々しいおかっぱがスパッと肩の上で切られ、まっすぐな横線をえがいている。
まず彼女は深く頭を下げた。
「突然の訪問をお許しください。わたくし、宮山 琴子(ミヤヤマ コトコ)と申します」
続いて頭を上げると、まじめな顔をしてこんなことを切り出してきた。
「唐突ではございますが、わたくしを先生のお手伝いとして、ここに置いていただけませんでしょうか」
壁に身を寄りかからせてなんとか立っている誠一郎には、彼女が一体何を言っているのかさっぱり分からなかった。
とにかく断りの言葉を口にする。
「……そういうのは……必要ない、ので……」
息も絶え絶えにそう言い戸を閉めようとするも、琴子はその手をパシッと制する。
「いいえ、そうは参りません。わたくし、先生の名著『恋情語り』を読み、これまでにない感銘を受けました。琴子はこんな素晴らしい作品を生み出される先生の創作活動をお助けしたい、お役に立ちたいのでございます!」
誠一郎は、身体的にも精神的にもめまいがした。彼女の言っていることが断片的にしか分からない。
外から差し込む夏の強い日差しは、彼のわずかな体力を容赦なく削り取る。
どう断ろうか考えているうちに、気づくと身体は自然と壁づたいにしゃがみこんでいた。
「まぁ、フラフラではありませんか! 琴子は執筆などに関しては詳しくはありませんが、お料理にお掃除に、家事がとても得意なのです。なんでもお任せください!」
何かを言おうと、誠一郎は口を開いたはずなのだが、声にならず言葉が消える。
「お話はあとで聞きます。今はお休みになってくださいね」
もう追い返せるような気力も体力もなく、強引に家に上がられてしまった。そのまま気が遠くなる。
次に誠一郎の意識がはっきりしたときには、いつの間にか布団の中にいた。最後の力を振り絞り寝室にたどりついたのだろうか。
傍には水差し、頭には氷嚢がある。こんなものを用意した記憶はないのだが、と不思議に思ったとき、おいしそうな食べ物の匂いが漂ってきた。よく考えると、彼はここしばらくまともにものを食べていなかった。
そして、ふと思う。あれ、なぜ食べ物の匂いがするのだろう。
すぐに思い出した。ああそうだ、見知らぬ娘が勝手に上がりこんできたのだ。
誰だか知らないがとにかく早く彼女を追い返さなければ、と思うのに、身体が動いてくれない。まるで自分の体重が倍になったかのように、頭も身体も重い。
もうしばらくしてから、動こう。誠一郎は仕方なくそう諦めることにした。
今はただ、この身体の苦痛に耐えるほかない。
誠一郎がそう意思を固めた頃。
彼の家を目指す、もう一人の人物がいた。
夏を意識した涼しげな浅黄色の着物に紺の袴を合わせ、長い下ろし髪に桃色のリボンを飾った若い女性。少女と女のちょうど中間くらいであろう彼女の名は、椿月と言った。
普通の娘のようでいて、近くをすれ違うと思わず振り返ってしまうような可憐さを持つ彼女は、神矢と同じ劇場で活躍する若手舞台女優である。劇場ではこの姿とは全く異なる大人びた衣装と化粧で身を飾る彼女だが、その美しさもまたもとの素質ゆえだ。
頭の真上から降り注ぐ夏の日差しが、彼女の陶器のような白い肌に長いまつげの影を落としている。
けれど、そんな強い日差しも気にならないほど、椿月は胸をドキドキさせていた。住宅の並ぶ細く入り組んだ道を、メモ書きを頼りに歩く。
そのメモ書きを彼女に渡したのは、神矢だった。
彼はこう言ってこのメモ書きを渡してきた。
『深沢センセーがさ、風邪ひいて寝込んでるみたいなんだわ。一人暮らしだし、体調悪くちゃ色々大変だろ。椿月が会いに行ってやったら、熱なんて吹っ飛ぶと思うけどな』
からかうように薄い笑みを浮かべながら、そう言われた。
誠一郎とはもう何度も一緒に外出しているし、よく話してはいるが、彼の家に行ったことは一度もない。
「私が会いに行ったら、熱なんて吹っ飛ぶ……か。本当かな」
そうつぶやいてみてから、椿月は緊張を静めるようにそっと頬に指先を添えた。
別に本気でそんな風にすぐ元気になるとは思っているわけではないけれど、そう言われたら会いに行きたくなる。
それに、その体調不良ゆえ誠一郎はしばらく劇場に姿を見せていない。ということはすなわち、椿月は彼と全然会っていないのだ。
久々に会うこと、初めて家に訪問すること、しかも事前に何の約束もしていないこと。それらが入り混じりドキドキしていた。
それと、きっととても具合が悪いんだろうからしっかり看病してあげなくちゃと、椿月はそれに関しても緊張していた。
正直、子どもの頃から演劇のことばかりで、料理など家事には自信がない。見栄も十分に込めた上で、なんとか人並みと言えるくらい。
それでも彼のために頑張ってみようと、食材や看病の道具を用意し、洒落た萌黄色の風呂敷で被われた重そうな竹編みのかごを提げていた。
これを仕組んだ神矢としてもきっと、いきなりの椿月の訪問に驚きと喜びで慌てふためく誠一郎が面白いだろうなとか、この手配で後々何か自分に有益になるようなことがあるんじゃないか、などと思っていたのだろう。
だが、事態は思わぬ方向へ向かってしまう。
椿月は神矢のメモ書きから家を見つけることができた。表札を確かめ、神矢の書いてくれた外観の特徴とも一致することが分かると、「ごめんください」と声をかけた。
反応はない。それは想定のうちだった。具合が悪いなら奥の部屋で眠っているはず。椿月はガラガラと戸を引いて、遠慮がちに中に入った。
奥の方に向かって声を投げかける。
「……誠一郎さん、聞こえる? 勝手に上がってごめんなさい。お邪魔していいかしら」
返事はない。
だが、そんなことよりも。強い違和感がする。
寝込んでいる彼一人しかいないはずの家から、食事の用意をするいい匂いと、歩き回るような軽い足音がする。
おうちを間違えたかしら、と不安になった椿月が、もう一度彼の名前を呼ぼうとしたとき。
「はーい! あっ、失礼いたしました。お客様でしたか」
台所の方から姿を見せたのは、自分と同じくらいの年頃の割烹着姿の若い女性。
椿月は目を丸くした。
「あっ、あの……こちらのお宅は、深沢、さんの家……ですよね?」
パシパシと長いまつげを揺らし、戸惑いのまばたきを繰り返しながらそう尋ねる。
「はい、その通りでございます。わたくし、深沢先生のおそばで身の回りのお世話をさせていただいている、琴子と申します」
当たり前のようにまじめな表情でそう語り、膝をついて深く頭を下げる彼女。
椿月はあまりの衝撃に、言葉を返すことができなかった。様々な思考が一瞬で駆け巡る。
衝撃と混乱の後には、悲しみを超える怒りがわいてきた。
同時刻。
床にふしていた誠一郎の朦朧とした頭に、うっすら聞こえた声があった。
「誠一郎さん……」
椿月の声だ。会いたい気持ちが彼女の幻聴までも生んだか、と思ったが、すぐに違うと気がついた。これは紛うことなき、現実に聞こえる彼女の声だ。
彼女がここにいるわけがないのにどうしてだろう、とぼんやり思った次の瞬間に続いた声に、誠一郎の思考は凍りつく。
「はーい!」と返事をする女の声。
もう腕をあげることすら自分の意思ではままならなかったはずなのに、自分の限界を超える何かが働いて、誠一郎は跳ねるように飛び起きた。
何度も壁にぶつかりそうになりながら、実際に何度かぶつかりながら、玄関に飛び込んだ。
寝巻き姿のままフラフラで飛び出してきた彼の目に、間違いなく写る、椿月の姿。自分のぼろ屋には非常に不似合いな、花のように麗しい彼女。
でも、いつもと決定的に違う点がある。
いつも自分に笑いかけてくれる彼女の頬は冷たく凍りついていて、その優しいほほ笑みをもたらさない。
琴子と相対していた視線を彼に移すと、椿月は軽蔑の眼差しとともに一言だけ告げた。
「さようなら」
そのまま、ガラガラピシャン、と力任せに激しく戸が閉じられ、椿月は早足で出て行ってしまった。
見たこともない彼女の冷たい目と、聞いたこともない彼女の冷たい言葉。誠一郎は自分の心臓が一気に温度を無くしたような気がした。
「待ってください!!」
履物もはかずに、反射的に家から飛び出した。
普段の彼ならともかく、今は高熱とめまいにさいなまれ、しばらくまともにものも食べていない状態だ。どれだけ本気で走っているつもりでも、全然彼女に追いつけない。
「椿月さん、話を聞いてください……!」
必死に声を絞り出す。
早足で進んでいた彼女は振り返ると、
「来ないで」
と、冷たく言い放った。
誠一郎は、本当にそうされたわけではないのに、まるで突き飛ばされたかのようにそれ以上前に進めなくなる。
椿月はそのまま一度も振り返ることなく去って行った。
夏の熱気のいたずらか、はたまた自分の体調不良ゆえか、かすむ彼女の後姿。誠一郎はフラフラとその場に座り込んだ。
完全に誤解されてしまった。どうしよう、なんということを。朦朧とする彼の意識に渦巻く激しい後悔。
でも、吐き気までしてきて、もう一歩も動けそうになかった。混濁する自分の思考が、セミの合唱の中に溶けていく感覚がする。
しばらくすると、いきなり履物もはかず飛び出した誠一郎をあわてて追いかけて、琴子がやってきた。
「深沢先生、お履物をお持ちしましたけど……」
そう声をかけるも、激しく落胆している彼の姿に琴子は戸惑いを隠せなかった。
「椿月さん……」
琴子が来たことなど全く気づいていないのか、誠一郎はつぶやくように椿月の名を口にすると、そのまま意識が途切れた。
琴子一人では気を失った彼を運ぶことなどとてもできず、近所の男手を借りてなんとか家に連れ帰った。
その後、誠一郎の病状は更に悪化し、まともにものも食べられないほどの高熱で丸三日寝込んだ。
琴子が慌てて呼んだ医者には、「こんなひどい風邪で、しかも空腹で栄養不足の時に、真夏の真昼間、全力疾走などすればこうもなる」とすっかり呆れられていた。
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