寝坊とバスと正社員 2019/11/12

今日も朝からマフラーが手放せない寒さだ。

手袋をしなかった事を少しばかり後悔しつつ、ジーンズのポケットに手を入れて歩く。


疲れがたまっていたのか今朝は寝坊してしまい、家を出る時間が十分ほど遅れた。

いつもは歩いて駅まで向かう道を、今日はバスに乗って行くことにする。

ありがたい事にボクがバス停に着くのとほぼ同時にバスが来て、寒さに耐えながらバスを待つ時間を過ごさずに済んだ。

どうやらいつもと同じ時間の電車にも乗れそうだ。


乗り込んだ車内は特段暖かいわけではないが、とりあえず寒さに凍える必要もない、快適な温度に保たれていた。

今朝はバスの利用者も比較的少ないようで、座れないながらもスペースには余裕がある。

寝坊したにも関わらず少しばかりゆったりした朝を過ごしている気分になりながら、ボクは日記を書くためにスマホを開いた。


「寝坊なんて珍しいわね。なんだかんだそういう事は今まで無かったじゃない?」

相変わらず見ていてこっちが寒々しいスカート姿の彼女が言う。

「日記を書き始めてからそうした事が無かっただけで、寝坊自体はある程度の頻度でしてるよ。ボクはけっこう朝に弱いんだ。」

もともと体力がある方ではないし、割と万年低血圧気味だったりする。

最近ではスマホの見過ぎとゲームでの眼精疲労が祟り、尚更朝起きるのが厳しくなってきていた。


「だったらやっぱり職場近くに引っ越した方がいいわよ。貯金できないとか言ってないでなんとかしたら?」

「そんなに簡単に変われるような性格なら今みたいな苦労はしてなかったんだけどね。今まで貯金にチャレンジした事は何度もあるんだけど、全然続いたためしがないんだ。」

「飽き性だから、貯金にも飽きちゃうってわけね。ホントどうしようもないんだから…。」

自分でもそう思う。


「まぁ、今後は仕事も忙しくなるし、使ってる余裕もなくなると思うよ。明後日から職場も変わるからね。」

「は?何よアンタ、また転職すんの?」

少しばかり呆れの感情が入った顔で彼女が驚く。

「いや、そうじゃなくて、これは割と前向きな報告だよ。実は一緒に働いている人から引き抜かれてね…。」




四ヶ月ほど前の事である。

ある日、今の職場のナンバーツーである板前から、二人で話しがあると声をかけられた。

彼は韓国人の板前で、今度うちの暖簾分けという形で、今の店から二駅ほど離れたところに店を出すらしい。

席はカウンター七席のみ、板前は彼一人、接客とドリンク対応でもう一人というこじんまりとした店になるとの事。


「なんだけど、オレと一緒にお店やらない?」


展開が唐突かもしれないが、実際に唐突だったのだからしょうがない。

どうやら仕事をボクなりに真面目にやっていたのと、誰とでも仲良くやれた事、ホールでの接客が思いの外落ち着いていた事などが評価されたようだ。

彼の中では "やらせればなんでも出来るヤツ" となっていたようで、今の職場の店長からも中々に評判が良かったらしい。

それで、軽い仕込をやりながら、接客や金銭管理などをやって欲しいとのことだった。

元から板前になるつもりはないと公言していたので、ある意味それも都合が良かったのだろうと思う。




「なるほど、自慢ね自慢。」

「評価された事が嬉しいのは間違いないけど、これが事実なんだからしょうがない。店が始まるのは二十三日だからもう少し先だけど、店を準備するにあたって彼一人じゃ負担が大きすぎるからね。明後日からボクも手伝う事にしたんだ。」

店の皿や他の備品の買い出し、店の機材の配置、レジの扱い方の習得など、色々とやらなければいけない事が多いのだ。


「とりあえず仕事先が変わる事は分かったけど、給料とかどうなるの。」

「それが、どうやらこれから正社員として雇ってもらえるらしくてね。時給換算だと少しばかり下がるんだけど、一年経ってボーナスが出るようになればそれも改善されるし、当然昇給もあるからね。一年以上働けば、間違いなくプラスになる。君にも言ったけど、ボクなんかは資格もなければ学歴もない。こんなボクが人並みの給料を貰える機会があるとすれば、こんなものしかないからね。渡りに船というわけさ。」

ボクはボクなりに一生懸命仕事に向き合っていたわけだが、人生結局こういう素直な生き方が功を奏す事が一番多いのだ。


「とりあえず、おめでとうって事でいいのかしら?」

「それで問題ないよ。前の職場でも契約社員止まりだったからね。これで人生初の正社員というわけだ。個人的にはその二つの違いはあまり分からないけど、とりあえず人生がいい方向に向かっているのは間違いないと思う。その分忙しくなるけどね。」

「忙しくなった結果、お金を使う時間がなくなって、ついでに貯金も出来るようになるといいけどね。」

どうやら時間が無くても貯金ができないのが浪費家だという事を彼女は分かっていないようだ。


「これからどうなるか、彼もボクも分からないけど、とにかくお店が繁盛して、仕事にやりがいを感じられるようになればいいな。金銭的には文句ないし、とりあえずそれが一番だ。」

違いないわね、彼女が肩をすくめる。

話が終わった頃に、丁度よくバスが駅についた。

久々に乗ったバスを降り、駅の改札に向かう。

近く通うこともなくなってしまう職場と、新しく通うであろう店に想いを馳せながら、ボクは改札をくぐった。

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