満員電車と寿司職人 2019/11/11
今日は平日。
おととい昨日と空いていた電車内は仕事場へと向かう人々で溢れ、朝から陰鬱な気分になる。
しかしボクも電車の乗車率を上げている人間の一人なわけで、その事実もまたボクを虚しい気持ちにさせた。
「今日は混むわね…ここ二日の快適な電車内が嘘のようだわ。まぁこれが通勤電車の本来の姿なわけだけど。」
「そうだね。でも日本の通勤電車が世界的に見て異常である事は変わりないから、これが普通だという認識もまた、都会の人間ならではの職業病だと言える気がする。実際、これが嫌で職場近くに引っ越したという人もよく聞くからね。プライベートの時間も増えるし、その考え方は理にかなってると思う。」
「でもアンタはそれをやらないと。」
「少し前にも言ったけど、ボクは浪費家で貯金は全くないからね。引っ越しはしたくても出来ないんだ。」
「よくそんなに堂々とそんな情け無い事が言えるわね。」
彼女の目が痛い。
ボクも全く同感だけど、事実だから仕方がないのだ。
「いわゆる満員電車に乗り始めてからどれぐらいになるわけ。」
「そうだね、専門学校時代からだから大体十三年ぐらいになるかな。」
「結構長いのね。それならそんなに苦にならなくもなってるか。」
「いや、世の中の人達がどれぐらい満員電車を嫌がってるかはわからないけど、ボクも人並みに苦には感じてるよ。」
小説で一発当てて家に引きこもる生活がしたいなんて発想の人間が、満員電車が平気なわけがないのだ。
「その割には毎日長い事電車に揺られてるわよね。」
「そうだね。大体一時間ってところかな。」
「なるほど、マゾなのね。」
満員電車に乗ってるだけでこんなに身も蓋もない言われ方をしたのは初めてだ。
「ボクは大して資格も学歴もないから、出るところに出ないと高い収入も望めないんだ。だからこうして電車に揺られて都内に出るしかないんだよ。」
コンビニで働くにしても、全く同じチェーン店であるにも関わらず、地域によって全く時給が違うのだ。
「今のボクの時給は朝から十四時までが千二百円、十六時から終わりまでが千五百円なんだ。ボクが暮らしてる地域だと、深夜での仕事でやっと千三百五十円とかそんな感じだからね。確かに満員電車は辛いけど、それをおしてでも都内に出る意義は十分あると思うよ。」
「確かにそれだけ違うとそうかもね。特にアンタの場合労働時間が長いし。」
「これだけ長い時間使ってくれる職場もなかなかないしね。」
と、彼女が何か引っかかったような顔をした。
「ちょっと待って、アンタ、そもそも仕事なにしてるわけ?」
ものすごく根本的なところを知らなかったようだ。
「そういえば言ってなかったね。都内にある高級寿司店だよ。」
「は?え?そんな似合わない事してんの!?なになに、寿司握ってんの?」
食い付きが凄い。でもまぁ、驚かれるのも無理はない。あまりにもイメージとかけ離れているのは自分でも分かっているし。
だが…。
「残念ながら、君が想像したような仕事はしてないよ。ボクは最初ホールの面接で受けてるからね。なんだかんだ色々と仕込みもさせてもらってるけど、板場で握りをさせてもらう事は今後一生ないだろうね。」
職人の世界というのは、生半可な覚悟で飛び込んでいいものではない。
"飯炊き三年握り八年" とは寿司の世界ではよく言われる事で、それだけの修行を経てようやく職人としてスタートラインに立ったと言える。
これだけでも、ボクのような人間が足を踏み入れてはいけない世界だというのがよくわかるだろう。
「ありがたい事に、職人の才能があると店長や他の職人から言われたりする程度の仕事はしてるけど、ボクはお金が欲しいだけだからね。勿論、努力をして自分の店舗をいくつも立ち上げればもの凄い収入になる。でもボクは環境が揃っちゃえばそこまでの収入はいらないから、修行にかける年数とのバランスが取れてないと思うね。」
仕事をしなくても生きていけるようになった頃にはもう五十歳後半。気がついたら人生の大半を修行にかけてしまっていたなんて事になれば目も当てられない。
「確かにアンタの目的とはあんまり合致しないわね。でも、せっかく腕を認めてもらってるのに、それもそれで勿体無いわね。」
「腕というより、仕事への姿勢といった方が正しいからそこはなんとも言えないけどね。」
ただ真面目に仕事をするなんていうのは、本来誰にでも出来るのだ。
ただそんな誰にでも出来るはずの事が出来ない人間が世の中に増えている、それだけの事だとボクは思っている。
「それに、認められた事によって得たものは他にあるからね。個人的にはそっちの方が貴重だよ。」
「なになに?気に入られて高い時計でももらったわけ?」
「モノじゃなくて機会かな。とりあえず、今日のノルマは十分だから、この話の続きはそのうちね。」
そう言ってスマホを閉じる。
窮屈な満員電車からやっとこさ解放されたボクは、相変わらず人の多い駅のホームをゆっくりと歩きたい始めた。
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