第4話
2か月後
「最近見ませんね。彼女。」
「え?彼女?」
「そうですよ。あの幸福の女神、もう2か月近く来ませんね。」
「ああ、そうだな。」
そっけなく答えた。正直なところ健志が話を出すまではすっかりあの女のことは忘れていた。
「まぁ、でもテレビの力は大きいですね。あれからすっかり評判になって、もう2か月も経つのに相変わらず客足は途絶えませんね。」
「当たり前だ!ようやく世間も俺の料理の腕を認めたってことさ。知ってもらうきっかけさえあればこの通りさ。」
そうなんだ。
初めから俺の料理の腕はいいんだ。
ただ、客が店の存在を知らなかっただけで、知ってもらえさえすればこの通りになることは、初めから見えていたんだ。
俺はすっかり有頂天になっていた。
カラーン
「いらっしゃいませ!」
健志がひときわ大きな声で叫んだので驚いて振り返るとあの女が入ってきた。
「来ましたよ。彼女!」
本当に好きな女が入ってきたように健志ははしゃいで俺を肘でつつきながら言ってきた。
彼女は”定位置”に座ると2か月前と変わらない仕草そのままにメニューを取りゆっくりと眺め始めた。
水を出すとそれをゆっくりと、しかし一気に飲み干し、すぐ健志が追加の水を注ぎに行った。
10分後変わらない仕草で手を挙げ、メニューを指さしてハンバーグランチを頼んだ。
カラーン
”彼女”の注文が終わった瞬間、別の客が入ってきた。
それから、あっという間に満席になり、客が行列を作りだした。
その中で、悠然と4人席を一人で占領してゆっくりと食事を続けている”彼女”がいた。
「ちょっとマスター!急いでんだけど、相席でもいいから入れてくれない?」
その時、店の中で待っていた客が声をかけてきた。
「あ、はい。少々お待ちください。」
言った俺は、唯一空いている”彼女”の席に向かい
「すみません。相席はだめでしょうか?」
と聞いた瞬間、”彼女”の形相が変わり両手にナイフとフォークを持ちながらテーブルに思いっきりその手を叩きつけた。
ガチャンという激しい音に一瞬店内の空気が凍りつき客の会話が止まった。
「あ、す、すみません。けっこうです。どうぞ、そのまま。」
そういうと俺は、待たせていた客に詫びた。客のほうもこの様子を見ていたため、しぶしぶだが納得していた。
ランチの喧騒がひと段落したが、やはりまだ”彼女”は食事を続けていた。
「驚きましたね。さっきは。」
小声で健志が言った。
俺は無言のまま軽くうなずいた。
「いつもは存在がわからないほどの影の薄さなのに、あんなパワーがあったなんて。」
確かに驚いた。
間近でみたその形相を思い出すと今でも少し震えがくる。
「とにかく、女神様ですから彼女には逆らわないほうが無難ですね。」
そういうと健志は洗い物を始めた。
俺は、まだ食事を続けている彼女にそっと視線を向けた。
次の日もランチの時間が始まる少し前に”彼女”が来た。
ゆっくりと”定位置”に収まるといつもと寸分違わぬ仕草で注文を済ますとゆっくりとしかし、一気に水を飲み干した。
季節は真夏の暑さを過ぎ、すこし秋めいてきてそれほど気温も高くはないのに、”彼女”の喉は相変わらず渇いているらしい。
カラーン
「いらっしゃいませ!」
その瞬間また客が入り始め、5分と経たないうちに満席となり、もう7、8名の行列ができ始めた。
相変わらず悠然と4人席を占領して”彼女”が食事を続けている。
この日はなぜか、いつもに比べて客の回転率が悪かった。
後になり気づいたのだが、少し寒くなってきたので、秋メニューとしてグラタンを入れたのが失敗だった。
作るのに時間がかかるのに加えて、熱さのため、客の食べる速度も落ちてしまう。
でも、ランチの中では久しぶりの新メニューのため、物珍しさも手伝って注文をする客が多くなってしまったためだった。
「おい!まだかよ!昼休み終わっちゃうよ!」
店内で待っている客からクレームが飛び出した。
つられて、後ろの客も
「相席でもいいから入れてちょうだいよ!時間ないから!」
並んでいる客は一斉にこちらを睨みだした。
その雰囲気に気を利かした客は食べ終わると早々に立ち退いてくれたが、それでも席に通せる客はわずかで、ほとんどの席を相席にしてもらった。
唯一”彼女”の席を除いては。
「おい!そこの席も相席にしろよ!」
苛立った客が”彼女”の席を指さして猛然と吠えた。
「あ、こちらの席は…。」
言い淀んでいると
「なんで、そこだけ空けんだよ。みんな相席しているんだから、協力させればいいだろう!」
客と俺とのやり取りは耳に入っているはずなのに、”彼女”は一向に意に介さず、ハンバーグランチをゆっくりと食べ続けている。
「おい!いいかげんにしろよ!」
客も堪忍袋の緒が切れた。
「わ、わかりました。」
俺はゆっくりと”彼女”の席に近づくと
「すみません。こういう状況なんで、なんとか相席をお願いできませんか?」
丁寧に頼んでみた。
しかし、”彼女”は無視をしている。
「あの、ちょっと、いいかげん困るんですよ。」
少し俺も気持ちが高ぶってきた。
すると、”彼女”はこちらをキッと睨んだ。
「いいかげんにしろ!お客はおまえだけではないんだ!!」
ついに俺は切れた。
周りの客のことも構わず最大限の声で”彼女”に向かって怒鳴りつけていた。
次の瞬間
テーブルを渾身の力で叩き、立ち上がってこちらを睨む彼女の姿があった。
店内の客もその姿にくぎ付けになり、次の行動を見守った。
そして、彼女はカバンからランチ代の1,000円を取り出すとテーブルに叩きつけ、いつものゆっくりとしたペースからは考えられない速度で、店を出て行った。
歩くというよりは宙をスーッと飛ぶように。
そして、彼女は初めて食事を残していった。
その間わずかに30秒ほどだと思うが、俺には一瞬、時間が止まったように感じた。
ランチタイムが終わると
「あーあ、やっちゃいましたね。彼女のこと。」
「え?しょうがないだろ、あの状況じゃ。」
「そりゃそうですけど。やっぱ逆切れはまずいっすよ。」
「……。」
「なんか…やなこと起こんなきゃいいけど。」
健志はひとり言のように言って洗い物を始めた。
夜の営業が終わった。
あのランチタイムの”事件”の後は何事もなく、いつも通り客足も順調のまま店を終えた。
帰り道、ランチタイムに起こったことを、順を追って思い出していた。
そして健志の
『やなこと起こんなきゃいいけど。』
という言葉が、心の奥底でひっかかっていた。
次の日、いつも通り店に出るとすでに健志が来ていてランチの準備を済ませてくれていた。
「あ、おはようございます。今日も忙しくなりますかね。」
「ああ。」
「どうしたんですか。なんか元気ないですね。」
「ん、そうか?そんなことないよ。」
そう答えながらも、実は昨日の”彼女”のことが気になっていた。
昼の12時を回った。
しかし、客が一人も来ない。
おもわずカレンダーをみて曜日を確認する。
間違いなく平日、世間が休みの日ではない。
もっとも最近は土日でもテレビの評判を聞きつけて結構遠くからの客が来ていたので平日と変わらないにぎわいを見せていた。
「ちょっと変ですね。お客さんひとりも来ないなんて。」
健志が怪訝そうに言う。
「……。」
俺は返す言葉も見当たらず無言のままでいた。
午後2時、ついにランチタイムは終了したが、たった一人の客も来なかった。
身体が震え出し、その場にしゃがみ込んでしまった。
「マスター!大丈夫ですか?!」
健志が倒れ掛かった俺の体を必死で支えてくれた。
「あ、ああ。」
何とか持ちこたえてはいたが、頭の中は”彼女”のあの時の形相がいっぱいに広がっていた。
結局その日は夜も誰一人客は来ることなく閉店の時間を迎えた。
トボトボと帰る道で、俺は後悔の念に囚われていた。
『やはり”彼女”への態度がいけなかったのか?』
心の中で自問自答を繰り返していた。
しかし、考えているうちにどんどんと腹が立ってきた。
俺は当たり前の行動をとって、最初は丁寧にお願いをした。
にも関わらず”彼女”は自己チューにも勝手に怒り、勝手に出て行ったのだ。
俺は悪くない。そうだ。俺はまったく悪くない!
「ただいま。」
呼び鈴を押しても誰も出なかったため鍵を開けて入った。
家は明かりが消えて誰もいなかった。
もう夜の12時を回っている。
胸の奥がざわざわと波立ち、何か書置きがないか探したが、妻も子どもも何一つ痕跡を残していない。
急いで妻の実家に電話をかけた。
「あ、もしもし、夜分にすみません。仁ですけど。」
「あ~仁さん。どうしたのこんな夜中に。何かあった?」
お義母さんが出た。
「いえ、えっと喜美子そちらに行ってませんか?」
「え?なに、喜美子いないの?美智ちゃんは?」
「あ、はい。美智も…、あ、じゃあ、そちらではないんですね。すみません。たぶんママ友の家にでも行ってると思います。お騒がせしました。」
「え、ママ友って美智はまだ赤ん坊よ。こんな時間まで喜美子、何しているのかしら。ごめんなさいね。」
「いえ、本当にすみません。別を当たってみます。あ、ご心配されないでください。すみません。じゃあ。」
そう言って相手にこれ以上話をさせずに電話を切った。
結局その晩は妻も子どもも帰って来なかった。
翌朝、日の光で目が覚めると、身体が固まっていた。
昨夜はそのままリビングのソファで眠ってしまっていた。
やはり、妻たちが帰ってきた形跡はない。
何か事件に巻き込まれたのか。警察に連絡すべきか。
頭の中が混乱して、どうすればいいかわからなかった。
その時、突然携帯が鳴った。
着信相手を見る間もなく、慌てて出た。
「もしもし、喜美子か?」
「あ、健志です!すみません。休んでるときに。奥さん何かあったんですか?」
「いや、なんでもない。どうしたんだ?」
「あ、あの、店の近くの友人から今電話があって、なんか店が大変だからすぐマスターに連絡したほうがいいって。」
「なに?!」
急いで店に行くと、そこには信じられない光景が待っていた。
山のような人だかりの先に、赤々と燃え上がっている店があった。
「あ、ああ?!」
声にならない声を上げ、店に向かって突進した。
「危ないですから近づかないでください!」
野次馬を整理していた警官に抑えられ、止められた。
「いや、俺の!俺の店なんです!」
やっとの思いで言うとその場にへたり込んでしまった。
それから1時間後ようやく鎮火し、周りは水浸しになり残ったのは店の骨組みだけだった。
「店長の櫻井さんですね。お察しします。そういう時に申し訳ないのですが、ちょっとだけお時間いただけますか。」
先ほどとは違う刑事らしき男が事情聴取をしたいと言ってきた。
気力なく立ち上がる俺を支えるように刑事はパトカーの中に導こうとした。
うなだれていた俺はふと顔を上げると焼け焦げた店の脇に”彼女”が立っているのを見た。
「あ、あの女!」
叫ぶと一気に体に力が入り、支えていた刑事の腕を振り払って、”彼女”のほうに向かって走り出した。
「櫻井さん!」
叫ぶ刑事の制止も聞かず、一直線に”彼女”に向かった。
すると横からまだ現場検証をしていた警官と消防隊員が飛び出てきて俺の体をがっちりと掴み止めた。
追いついた刑事が
「櫻井さんしっかりしてください!どうしたんですか?!」
「あの、あの女です。あいつがきっと店に放火したんです!」
俺は女のいた方向を指差し、必死で刑事に訴えた。
「あの女ですって?どの女です?」
もう一度”彼女”がいた場所に目を向けるとそこには誰もいなかった。
驚いた形相の俺に刑事は
「お店を失ったお気持ちはわかりますが、気をしっかり持ってください。それに今『放火』とおっしゃいましたが、この火事に事件性はありません。」
「え?」
「この火事の原因ははっきりしてます。店の中から火が出ていて、それも厨房の種火が消えていなかったところに、何かの拍子に落ちたキッチンペーパーに引火して、それが店のなかの油分にさらに広がった。これは消防のほうで検分して明らかになっています。」
「そ、そんな…。」
「お気の毒ですが、原因はお店からなので、このあと延焼をしたご近所への補償など発生すると思います。保険は大丈夫ですか?」
「保険?」
「そうです。火災保険です。入ってますよね?」
保険には入っていなかった。
店を始めたときに入ろうとしたのだが、なけなしの金でようやく開業にこぎつけたために、少しでも資金を節約しようと保険は店が順調に回りだしてから入ればいいと思い、一向に儲からない状況が続いたため、保険どころではなくなってしまっていた。
事情を話すと刑事は
「返す返すお気の毒ですが…。」
それ以上の言葉は持ち合わせないとばかり黙り込んでしまった。
うなだれて、再び刑事に支えられながら、歩き出した櫻井の後ろを黒ずくめの女がゆっくりと横切った。
その”彼女”の髪の毛に隠れた顔には確かに微笑みが浮かんでいた。
了。
にぎやかなレストラン 美月 純 @arumaziro0808
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