第492話 過ぎ行く日々(8)

「・・・・・・さて、答えを決めなきゃな」

 3月5日月曜日、午後4時過ぎ。学校を終えた影人は九条探偵事務所の前にいた。土曜日に言われた通りバイト代を貰いに来たのと、ここでバイトをするかしないかの答えを蓮華に告げるためだ。

 事務所の中に入り階段を登った影人は2階のドアをノックした。すると、「入りな」という声が中から聞こえて来た。どうやら今日はいるようだ。影人はドアを開けた。

「ああ、あんたかい。よく来たね。お菓子でも食うかい?」

「あ、大丈夫です。遠慮なく」

 影人が部屋の中に入ると、デスクに座っていた蓮華はそう言って影人を迎えてくれた。影人はふるふると首を横に振り蓮華の申し出を辞退した。

「子供が遠慮するんじゃないよ。ほれ、そこに座りな。今持って来てやるよ」

「えー・・・・・・断った意味・・・・・・」

 蓮華はデスクから立ち上がると冷蔵庫の方に向かって行った。影人はボヤきながらもソファに腰掛けた。

「ちょうどさっきケーキ屋に行って来たところでね。ここのシュークリームはそんなに甘くなくて私はけっこう好きなのさ」

 数分後。蓮華はシュークリームを乗せた小皿を2つ持ってきた。そして、片方の皿を影人の前に、もう片方の皿を自分の前に置き、影人の対面に腰掛けた。思っていたよりも数倍しっかりしたお菓子が出て来たので、影人は前髪の下の目を少し見開いた。

「ほら遠慮せず食いな。喉が渇いたら冷蔵庫にある物を適当に飲んでもいいよ。そうか、金をやるから下の自販機で何か買ってくるかい?」

「いや、水筒があるんで・・・・・・いただきます」

 蓮華の妙な親切心に若干戸惑いながらも影人はシュークリームを頬張った。

「っ・・・・・・美味しいです」

「だろ?」

 影人が漏らした感想に蓮華は頷いた。シュークリームの皮はもっちりというよりかはザクッカリッとしたもので、クリームはカスタードではなく普通の生クリームだ。甘さは蓮華も言っていたように控えめだった。食感と甘さ控えめのクリームが相まって何個でも食べられそうだ。気づけば、影人はパクパクとシュークリームを食べ、完食していた。

「ご馳走様でした。本当、美味しかったです」

「そりゃよかったよ」

 両手を合わせた影人は蓮華に感謝の言葉を述べた。蓮華は自分のシュークリームをゆっくりと食べながらフッと笑った。その笑みは、どこかおばあちゃんが孫を見るような暖かさのようなものが混じっていた。

「あの、蓮華さん。今日は・・・・・・」

「分かってるよ。まずはこいつを渡そうかね」

 蓮華はズボンのポケットから黒いサイフを取り出した。そして、そこから一万円札を取り出すとそれをテーブルの上に置いた。

「この前のバイト代だ。受け取りな」

「え、いやいくら何でも多過ぎますよ! 俺こないだ猫探しを手伝ったくらいですよ!? 時間だって3〜4時間くらいしか・・・・・・こんな額、いくら何でも受け取れませんよ」

 影人が激しく首を横に振る。影人は明らかにこの金額に見合う仕事はしていない。その強烈な自覚があるからこそ、影人は拒否の言葉を述べたのだった。

「いいから受け取りな。あたしがこの金額が妥当だと判断したんだ。確かに猫探しだけなら多すぎるが、あんたは裏の仕事まで着いてきた。裏の仕事は命の危機が付き纏う。これはそのリスク料込みの金額さ」

 しかし、蓮華は譲らなかった。蓮華にとってはあくまでこれは正当な金額らしい。まあ、今の蓮華の説明で蓮華がこの金額を提示してきた理由は分かった。普通の者ならば納得する場面だろう。もちろん、影人も多少は納得できる。

(別にの事で命の危機なんか感じないんだけどな・・・・・・)

 だが、やはり影人は完全には納得出来なかった。影人は一応、様々な経験をして来た。今更あのレベルの怪物と出会い命の危機を感じる事はない。これは油断でも驕りでもない。ただの事実だ。もし影人があの怪物と戦ったとしたら、世界が破滅するレベルのイレギュラーが発生でもしない限り負けはしない。

「申し訳なさそうな顔だね。どうやら、あんたにとってこの前の出来事はそれほど大したものじゃなかったみたいだね」

「いや、その・・・・・・はい。だから、やっぱりこの金額は俺には多過ぎます」

 探偵らしく影人の心情を察した蓮華に影人は素直に頷いた。

「くくっ、そうかい。ますますあんたに興味が湧いて来たよ。でも、やっぱり今回は受け取りな。あんた、金が必要なんだろ。だったら、貰えるものは貰える時に貰っておきな。あんたより長く生を生きてる者からのアドバイスだ」

「・・・・・・分かりました。では、今回は受け取らせていただきます。ありがとうございます」

 蓮華は退くつもりはない。その事を察した影人が折れる。影人は丁寧に頭を下げると高めのバイト代を受け取った。

「それでいい。さて、じゃあ次だ。今度はあんたからの答えを聞かせてもらおうかね。どうだい、あんたはウチでバイトをするかい? それともやめとくかい? あんたの正直な心を聞かせておくれ」

 まるでここからが本番だといった雰囲気で蓮華は話題を切り替える。事実、今日の本題はここからだ。

「・・・・・・正直に言いますと、まだ揺れてます。俺自身は悲しい事に非日常にはそれなりの耐性がある。そういう意味では、裏の仕事は相性がいい方でしょう」

「そうだね。あたしもあんたをバイトに誘ったのは裏の仕事に対する耐性がありそうだったからだ。あたしの仕事は裏の仕事とは切っても切れないからね。流石に一般人を裏の仕事には巻き込めない。だから、バイトを募集したのはあんたが初めてさ」

「いや、俺も一応は一般人のつもりなんですけど・・・・・・まあいいです。でも、俺は出来れば非日常には自分から関わりたくはないんですよ。例え、非日常が日常の一部になってしまっていたとしても」

「そうかい。あたしはその辺りは完全に割り切ってる人間だが、気持ちは分からなくはないよ。だったらやめとくかい?」

「・・・・・・俺はそう言いたいのかもしれません。でも、俺は蓮華さんの仕事に同行した日、不思議としっくり来たんです。俺はまだ他のアルバイトをしたことがないので正確な事は言えませんが・・・・・・あの感覚はそうは感じられるものじゃないと思います。多分ですが、俺はこの仕事に向いている。そんな気がしました。だから、俺は揺れているんです」

 影人は自分がどうしたいのか分からない。もっと探偵の仕事を経験してみたいという気持ちもあるし、自分は結局非日常と関わり続ける存在なのかという煩悶に似た気持ちもある。どちらの気持ちも嘘ではない、ゆえに影人は揺れているのだ。

「・・・・・・なるほどね。あんたの気持ちは分かったよ。あんたは本気で考えてくれてるんだね。今時珍しい律義で真面目な子だ」

「・・・・・・そんなんじゃないですよ。結局は自分のためですし」

「ははっ、そうかい。ならそういうことにしといてやるよ」

 影人は少し恥ずかしそうに顔を背けた。そんな影人の様子に蓮華はけらけらと笑う。

「じゃあその上で言わせてもらうよ。あんたは考えすぎだ。所詮バイトだ。別にずっと続けろってわけじゃないんだ。やってみてやっぱり嫌だったらやめてもいい。楽しかった続けてもいい。そんなに真剣に悩まなくていいんだよ。あんたがバイトをしたい理由は何だい?」

「何でって・・・・・・そりゃ、お金が必要だからです」

「だろ。だったら、それだけを基準にすればいい。仕事ってのは本来は金だけじゃなく人のために働かなきゃならない。でも、それに気づくのは別にもう少し先でいい。あんたはまだまだ若いからね。今は自分の事だけを、金のために働いても全然いいのさ」

「・・・・・・そんな考え方でいいんですか?」

「いいんだよ。長く生きてるあたしが言うんだ。ああ、でも金だったらウチはまあまあ羽振りがいいよ。裏の仕事は危険な分、金も稼げるからね」

 最後にしっかりとここで働くメリットを提示しつつ蓮華はそう言った。さすがは大人。こういうところは抜け目がないなと影人は思わず苦笑した。

「ありがとうございます。蓮華さんの言葉のおかげで気持ちが固まりました。蓮華さん。最後に聞かせてください。俺は現在短期間のバイトしか考えていません。具体的には10日ほどです。それに、俺は昼間は学校があって働けるとしても学校が終わってからになります。更に、俺は諸事情で急にバイトを抜けることもあると思います。そんな俺ですが・・・・・・それでも蓮華さんは雇ってくれますか?」

 影人は前髪の下の目を真っ直ぐに蓮華に向ける。影人の条件は蓮華の事情を一切考えない中々に無茶苦茶なものだ。今更断られても全く以て仕方がない。

「はっ、あんたがあたしの事情を考慮するなんて100年早いよ。いいさ。それでも雇ってやるよ。ただし、仕事はきっちりとしてもらうからね」

「それはもちろんです。では、これからしばらくの間よろしくお願いします」

 影人は笑みを浮かべると軽く頭を下げ蓮華に右手を差し出した。蓮華も「ああ。こっちこそね」と笑うと影人の手を握り返した。

 こうして、影人は九条探偵事務所でバイトすることになったのだった。













「帰城さん。今日はご一緒に帰りませんか?」

 後日。帰りのホームルームが終了し影人が帰り支度を整えていると、隣の席の海公がそう声を掛けてきた。

「あー、悪い。今日はちょっとこの後用事があってな。というか、しばらくはちょっと一緒に帰れそうにない。悪いな春野」

「あ、そうなんですか。分かりました。では、またご一緒に帰れる時に」

 影人は片手で手を合わせた。海公は特に事情も聞かずに頷いてくれた。相変わらずのいい奴っぷりである。影人は「ああ」と頷くと教室を出て、そのまま学校を出た。

「こんにちは」

 学校を出てから約30分後。影人は九条探偵事務所2階のドアを開けた。

「おう、来たね」

 部屋の中に入ると、蓮華が軽く手を挙げた。蓮華は今日はデスクではなくソファに座っていた。サンドイッチの食べかけと缶コーヒーがテーブルの上にあるので、恐らく蓮華は遅めの昼食を摂っていたのだろう。

「遅めの休憩ですね。忙しかったんですか?」

「午前に浮気調査の依頼が来てね。軽く調べてきて今帰ってきたところだよ」

「そうですか。大変でしたね」

「そうでもないさ。慣れてるからね。それよりも座りな」

 蓮華に対面のソファに座るよう促された影人は、言われた通りソファに腰を下ろした。

「改めて帰城影人です。今日からよろしくお願いします」

 影人は座ったまま蓮華に軽く頭を下げた。今日から影人はしばらくの間、この九条探偵事務所のアルバイトだ。ここで働くにあたって、既にバイトを紹介してほしいと影人が頼んでいた真夏と水錫には謝罪の意をメールで伝えてある。真夏は「全然気にしてないわ! バイト見つかってよかったわね!」と今日の朝に返信があり、水錫は蓮華の元でバイトをすると連絡したところ、「え、マジ? ま、まあ頑張ってね!」と今日の昼頃に連絡があった。水錫は蓮華がどのような人間でどんな仕事をしているのか知っているので、少し驚いた様子だった。

「九条蓮華だ。ああ、よろしく頼むよ。助手」

「っ、助手・・・・・・」

「ん? 不服かい?」

「いや、まさか俺が探偵の助手になるなんてなと思って。なんか、ワトソンになった気分です」

「あたしもこの歳になって助手を取る事になるとは思ってなかったよ。せいってやつは何が起きるか分からないね」

 蓮華はそう言って残っていたサンドイッチを口に放り込み、それをコーヒーで流した。蓮華はコーヒーはあまり好きではないと言っていたが、飲むには飲むのだなと影人はどうでもいい事を思った。まあ、コーヒーにはカフェインが含まれているので、蓮華は眠気覚ましの意味で飲んでいるのかもしれない。

「それで、俺はどんな仕事をすればいいんでしょうか?」

「基本的にはあたしの手伝いだ。あたしに着いてきて、あたしの指示に従ってもらう。それだけさ。それで、あんたに手伝ってほしい仕事だが・・・・・・裏の仕事だよ」

 裏の仕事。それはつまり非日常の世界の仕事だ。この前の怪物や、影人がスプリガンとして関わってきた、いや現在進行形で関わっているような仕事。つまりは、普通ではない危険な仕事。それが蓮華が言う裏の仕事なのだ。影人はほんの少しだけ緊張感を抱きながら、蓮華にこう問うた。

「それは・・・・・・この前の怪物みたいな存在と戦うような仕事ですか?」

「可能性はあるね。しかも、けっこう高い確率だ。なんせ、今回の仕事はデカい。あたしの生きて来た中でも最大級のデカさと言っても過言じゃない。正直、かなりヤバい仕事だよ」

「え、そんなヤバい案件に俺みたいな見習いを巻き込むんですか・・・・・・?」

 影人は戸惑いを隠せなかった。蓮華は少々特殊な人間だが、本当は優しい人間のはずだ。そんな人間が今日から働き始めるバイトを、それだけ危険な事に巻き込むはずがない。影人は心の底でそう思いながら蓮華に聞き返した。

「見習いだろうが何だろうが関係ないよ。あんたはあたしの助手になったんだ。助手は探偵の指示に従う存在さ。いやー、助かったよ。あたしも流石にただの一般人は巻き込めないと思ってたからね。そんな時にあんたみたいな普通じゃない奴と出会えた。あたしは思ったね。何とかこいつにあたしの手伝いをさせようと。で、結果はご覧の通りさ。あんたに優しくした甲斐があったよ」

「なっ・・・・・・」

 だが、蓮華の答えは影人の想定以上のものだった。影人は次の瞬間には軽く叫んでいた。

「だ、騙したんですか!?」

「人聞きが悪いね。別にあたしは何にも騙しちゃいないよ。ただ、出来るだけあんたがここで働いてもいいって思えるように頑張っただけさ。あたしはあんたに何の嘘もついちゃいないよ」

「ぐっ・・・・・・」

 まるで開き直ったような様子でそう言った蓮華に影人は悔しげな顔になる。確かに蓮華の言う通りだ。蓮華に落ち度のようなものは何もない。蓮華はただ影人がここで働くように小さな誘導をしていただけだ。高額な報酬に夕食を提供しようとした事。昨日のシュークリーム。そういった施しを使って、蓮華の元で働く事に対する印象を無意識にいいものだと影人に印象づけた。それは何ら避難されるものではない。ただ、蓮華が巧みだったというだけだ。

「分かりましたよ! 今更バイトを変えるつもりもありません。俺に出来る事なら何だってやってやりますよ!」

 影人はまんまと蓮華に乗せられたという事に悔しさを抱きながらも、最終的にはそう言った。影人の答えを聞いた蓮華はニヤリと笑い、

「いい返事だ。じゃあ、手伝ってもらおうかね。あんたと出会う前日に引き受けた仕事――鬼神の再封印を」

 そう言った。

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