第491話 過ぎ行く日々(7)
「なっ・・・・・・!?」
突然壺から溢れ出した真っ黒な何か。それは見る見る内に天井裏に蔓延した。その光景に影人は驚きの声を漏らす。何だ。いったい何が起きた。
「お出ましか」
蓮華は特に動揺もせずに噴き出した黒い何かを見つめる。
壺から噴き出し、天井裏を満たした真っ黒な何か――黒いモヤのようなモノ――はやがて形を成し始めた。人形のような、いや違う。人形に近いがもっと凶々しい何かだ。
「・・・・・・!」
ギロリと真っ黒な眼窩が蓮華と影人を見下ろした。深淵を
(っ、こいつは・・・・・・)
怪物から放たれる重苦しい空気、重圧がこれが現実であると嫌が応にも知らせてくる。影人からすればもはや慣れ親しんだ空気だ。
「・・・・・・!」
怪物はグッと右手を握った。そして、大きくそれを振りかぶる。怪物の体はモヤのようで実体がない。そのため、屋根の高さなど関係なく、右手を振りかぶる事が可能だった。
「おいあんた。後ろに飛び退きな」
蓮華の言葉が影人の耳に届くと同時に怪物は右手を振り下ろした。蓮華に言われた通りに、影人は反射的に後方に飛び退く。蓮華も影人と同じように飛び退く。
次の瞬間、先ほどまで2人がいた位置に怪物の右手が振り下ろされた。怪物には実体はない。そのため、本来なら振り下ろされた怪物の手に破壊力はない。
だが、どういうわけか振り下ろされた怪物の手は床――正確には天井裏なので天井――を粉砕した。
「嘘だろおい!?」
派手な音と共に床が破壊され、影人と蓮華は突如空中に投げ出された。
「っ・・・・・・」
だが、影人はすぐに尻に硬い感触を覚えた。影人は尻餅の痛みを感じると共に周囲に視線を奔らせた。2階に上がって最初に調べた部屋だ。どうやら、あの壺はこの部屋の真上にあったらしい。
「情けないね。着地くらいしっかりやりな」
蓮華が影人を見下ろしながらそう言ってくる。どうやら、蓮華は華麗に着地したらしい。影人はこんな時だというのに、蓮華は運動神経がいいんだなと場違いな事を思った。
「・・・・・・!」
天井の破片がパラパラと降り注ぐ中、ぬっと怪物が天井に開いた穴から顔を覗かせ、深淵広がる眼窩を影人と蓮華に向けて来る。
「普通にホラーだね。あんた、小便ちびってないかい?」
「ちびってませんよ! 舐めないでください! これくらいの事で俺はちびりませんよ!」
いきなりとんでもない事を聞かれたので、影人はぶんぶんと首を横に振り、激しく否定した。影人のその答えに蓮華は面白そうに笑った。
「くくっ、これくらいの事でか。いいね。あんた、やっぱり普通じゃないよ。どうやら、随分と濃い経験をしてきたみたいだ」
「いや、この状況で普通に笑ってるあなたの方が普通じゃないでしょ・・・・・・」
影人は軽く引いた顔になる。当然ながら、この状況でそんなツッコミを返せる前髪野郎も蓮華と同じかそれ以上に普通じゃないという事を分かっていない。これぞ前髪クオリティである。
『おいバカ前髪。呑気してる場合かよ。来るぞ』
「・・・・・・!」
イヴの警告が影人の中に響くと同時に、怪物が天井裏から這い出てくる。怪物の体は変わらず黒いモヤのようなもので構成されており、やはり実体があるようには見えない。だが、怪物は天井を破壊して見せた。それは影人や蓮華に危害を加える事が出来る力を怪物が持っているという事だ。
(しかも、さっきの感じだとこいつは物質に干渉する事もしない事も出来る。実体があるかないかを任意で決めれる・・・・・・中々にやっかいそうな奴だぜ)
影人は今分かっている怪物の情報を分析した。影人が怪物に対し警戒していると、隣にいた零無が口を開いた。
「影人、奴はどうやら遥か昔にこの世界に来た異世界からの流入者、確かこの世界では【あちら側の者】という呼び名だったね。その残骸に宿った怨念の集合体のようだ。以前、骨の竜のような奴と戦っただろう。あれの同類だよ」
「っ・・・・・・」
零無は恐らく無の力を応用し、全知の力を使用したのだろう。影人に怪物の正体を告げた。零無から怪物の正体を聞かされ、影人の顔色が変わる。骨の竜のような流入者。それは、以前穂乃影と影人を襲ったモノだ。
(なるほどな。あの壺の中にあった黒い骨は、言われてみればあいつの第2形態と同じだ。そして、奴のエネルギーは怨念。いま零無が言ったように、こいつは怨念の塊・・・・・・だとしたら、俺はともかくとして蓮華さんはマズいぞ)
あの骨の竜と今自分たちの目の前にいる怪物が同じ種族なら、目の前の怪物も怨念を使った精神攻撃を使える可能性が高い。影人は精神面が多少頑丈なので怨念程度の精神攻撃は効かない。
だが、蓮華はそうではない。蓮華は恐らく普通の人間ではない。しかし、そうであったとしても、蓮華は怨念による精神攻撃を耐えられはしないだろう。精神攻撃が効かない影人が少々特殊なだけであって、精神を持つ者はほとんど何らか影響を受ける。蓮華も最悪精神が死滅するかもしれない。
「影人、どうする? この人間はお前が普通ではないと気づいている。だからと言ってお前の事だ。無闇に人前で力を使いたくはないだろう。吾がこいつをどうにかしようか?」
零無がチラリとその透明の瞳を影人に向ける。確かに、零無ならば蓮華に悟られる事なくこの怪物に対処できるだろう。もしかすると、零無から初めて出たかもしれない良い提案だった。
「・・・・・・!」
怪物はいよいよ影人と蓮華に対して明確な敵意を露わにするかのように、口を大きく開けた。怪物の口の中も瞳と同じく深淵が広がっていた。そして、口の中の深淵から呪詛のような紋様が這い出てくる。明らかに何かの攻撃の体勢だ。
「っ、零無! たの――」
「やらせないよ」
緊張感を伴いながら影人が零無に怪物の対処を任せる言葉を吐こうとすると、蓮華が遮るようにそう言った。そして、蓮華は懐から何かを取り出すと怪物に向かって素早くその何かを投擲した。
「・・・・・・!?」
その何かは青白く光る紙切れのようなものだった。紙には何か墨で書かれていたが、何と書かれているのかは読めない。その紙切れは怪物の口元に張り付いた。すると、口の中から這い出ていた呪詛のような紋様がピタリと動きを止めた。怪物は動揺したように一瞬体を震わせた。
「っ、蓮華さん・・・・・・」
「言っただろ。あたしは必要とあれば戦うって。こう見えても、あたしはそれなりの実力者でね。この程度の化け物にやられるような雑魚じゃないんだよ」
驚く影人に蓮華はパチリとウインクする。そして、蓮華は攻撃を封じられた怪物に顔を向けた。
「さて、見たところあんたは怨念そのものだね。大方、昔討伐されて怪物の成れの果てだろう。あんたみたいな奴はこれまでも何度か相手してきたよ」
「・・・・・・!」
怪物は両の腕を動かし蓮華を捕えようとした。だが、蓮華は先ほどと同じように懐からいくつか紙切れを取り出すと、怪物の両腕に紙切れを投げた。投げられた紙切れは、青白く発光するとまるで意思を持っているかのように怪物の両腕に向かい、張り付いた。瞬間、怪物の両腕は動かなくなった。結果、怪物の腕が蓮華を捕える事はなかった。
「あたし特製の符さね。清浄の力と呪いの力を込めてある。実体があろうがなかろうが、魔なるモノには効果抜群だよ」
蓮華は更に懐から符を取り出すと、それを怪物の胴体に投げた。符が怪物の胴体に張り付き自由を奪う。怪物はまるで金縛りにあったかのように微動だにしなかった。
「マジかよ・・・・・・」
その光景を見ていた影人は唖然とした顔になる。どうやら、蓮華は影人が考えていたよりもずっとずっと底知れない人物のようだ。
「へえ・・・・・・正の力である清めの力と、負の力である呪いの力をどちらも扱えるのか。元は同じ力の裏表。出力をどちらかに傾ければいいだけだから出来るといえば出来るが・・・・・・人がそれをやるとはね。吾を朧げながら感じられることと言い、人間にしては出来るみたいだな」
零無も珍しく感心しているようだった。正真正銘、本物の神であり化け物の零無にそう言わせるのだから、蓮華は本当にとんでもない人なのだろう。影人はもはや怪物に対してではなく、蓮華に対して緊張の念を抱いた。
「あたしもさっさと帰って呑みたいんだ。そろそろ終わらせるよ。本来なら、あんた程度の小物にあたしの力を使いたくはないんだが・・・・・・怨念はしつこいからね。綺麗さっぱり完全に消し去ってやらなきゃならない。あんたのためにもね」
蓮華は一瞬怪物に哀れみの目を向けた。そして、蓮華はぶつぶつと何かを呟いた。蓮華の声が小さかった事もあったが、影人は蓮華が何と言ったのか聞き取る事が出来なかった。
蓮華が何かを呟いた直後の出来事だった。突然、蓮華の足元に複雑な魔法陣が展開され、その魔法陣が輝きを放った。同時に、蓮華の全身も淡い光を放つ。その光は光導姫が放つ浄化の力を宿した光とどこか似ているように思えた。
「・・・・・・!?」
「じゃあね。せめて、安らかに逝きな」
蓮華が動けない怪物に右手を向ける。次の瞬間、蓮華の右手が一際強く輝きを放った。部屋の中にまるで太陽が生じたような光が満ち、一瞬夜を照らした。
「っ・・・・・・」
あまりの眩しさに影人は前髪の下の目を閉じた。光はすぐに収まり、影人は両目を開けた。部屋の中は何も変わってはいなかった。ただ、怪物だけが綺麗さっぱりに消え失せていた。
「これで、怪奇現象が起こる事もないだろう。後は天井裏の壺を供養すりゃ終わりだ。仕事は終わりだよ。あんたもご苦労様だったね」
「あ、いえ・・・・・・俺は別に何にもしてないんで」
労いの言葉をかけてきた蓮華に影人は小さく首を横に振る。実際、影人は何もしていない。猫を誘き寄せ捕まえたのも、怪物を祓ったのも全て蓮華だ。影人はただそれを見ていただけに過ぎない。
「それより、天井がぶち抜かれちゃってますけど、これはどうするんですか? さっきの話の感じだと、依頼して来た人はまたここに住むんですよね?」
「知らないよ。ぶち破ったのはあの怨念体だからね。まあ、修理すればいいだけだし、またここに住めるなら安いもんだろ。適当に言って納得させるさ」
蓮華はそんな事はどうでもいいといった様子で部屋から出て行った。影人も蓮華に続いて部屋を出る。
「それ、どうするんですか? 供養するって言ってましたけど。蓮華さんがするんですか?」
蓮華と影人は天井裏の壺を回収し家を出た。影人は蓮華が持っている壺を指差した。
「誰がするかよ。確かに、あたしからすりゃこれを供養するなんざ屁でもないが、面倒くさいんだよ。これは知り合いの神主に投げて供養させるさ」
「そうですか・・・・・・あの、聞いてもいいですか。蓮華さんって何者なんですか?」
影人は根本的な疑問を蓮華にぶつけた。影人が普通ではないという事を一目で見抜いたり、零無の存在を感じたり、そして先ほど怪物を祓ったあの力だ。どう考えても只者ではない。影人も人間だ。謎に包まれた女探偵が本当は何者なのか。興味がないと言えば嘘になる。
「あたしはただの探偵さ。それ以上でもそれ以下でもないよ。少なくとも、あたしはそう思ってるよ」
蓮華の答えは正直に言えば何の面白味もないものだった。ほとんどの者が聞けば、多かれ少なかれ落胆の感情を隠せないだろう。
「・・・・・・なるほど。そうですね。すみません。つまらない事を聞きました」
だが、影人は納得したように小さく頷いた。自分が何者であるのか。究極、そんな事は誰にも分からない。大事なのは、自分が何者でありたいと思っているのか、自分が何者だと認識しているかだ。影人もスプリガンに変身している時はよく聞かれたものだ。お前は何者なのかと。そのため、影人は蓮華の答えにこれ以上なく納得していた。
「そう言えるだけ大したもんさ。じゃあ、あたしも逆に聞かせてもらおうか。あんたはいったい何者なんだい?」
「ただの高校生ですよ。まあ、たまに違う名乗りもしますが」
「へえ。何て名乗るんだい?」
「それは・・・・・・秘密です」
影人はフッと蓮華に笑みを返した。もしかすれば、蓮華にスプリガンと名乗る日が来るかもしれないが、今はまだその時ではない。
「あんた・・・・・・気持ち悪い笑みだねえ。見た目と相まって、下手したら通報されるキモさだよ」
「急に何ちゅう失礼な事言うんですか!? 今の流れでよくもまあそんな事が言えますね!? あと、俺はそこまでキモくはありません!」
「いやキモいよ。明らかに変質者の笑みだったよ」
抗議の声を上げた影人に対し、しかし蓮華ははっきりとそう言った。真正面から変質者呼ばわりされた影人は「ひ、酷え・・・・・・」とショックを受けた顔になる。
「そんな事より腹が減ったね。帰りに
「あー、魅力的な提案ですけどすみません。今日は遠慮させてもらいます。多分、母が晩御飯を用意してくれてると思うので」
「そうかい。じゃあ、ここでお別れだね。ああ、そうだ。いつでもいいからまた1回ウチの事務所に来な。今日の分のバイト代を渡してやるから。その時にウチで働くか働かないかの答えを聞かせておくれ」
「え? 何にもしてないのにバイト代頂けるんですか?」
「猫探しの時にちゃんと探してくれただろう。あたしは義理は通すよ。そういう事だから、また必ず来るんだよ」
蓮華はそう言うと壺を持ったままどこかへと消えて行った。
「・・・・・・不思議な人だな。荒っぽいようで繊細で、はっきりしてるが気遣いもできる。きっと、何だかんだ面倒見が良くて優しいんだろうな」
1人残された影人はそう言葉を漏らす。今日1日蓮華といたが、影人は現状蓮華に対してそんな評価を下していた。
「お前の笑顔が気持ちが悪いだなんて全く見る目がない人間だ」
『そこは同意でございますね。ご主人様ほど素晴らしい方は絶無でありますのに』
『はぁ・・・・・・ったく節穴はどっちだよ』
零無とナナシレは先ほどの蓮華の言葉に対しやれやれていった様子に、2人の感想を聞いたイヴは呆れ果てた様子だった。外からは零無、内からはナナシレとイヴの声がしたので、影人は少し顔を顰めた。内と外からこれだけの声が同時に聞こえて来るのは、やはり中々慣れるものではない。影人は軽く酔いそうな気分になった。
「さて・・・・・・俺も帰るか」
影人も、もう特に用事もない。腹も減った。さっさと家に帰ってご飯を食べたい。影人は空腹感を覚えながら帰路に着いた。
(しかし、探偵か・・・・・・正直、俺が想像してた探偵とは違ってたな。特に後半が)
ペット探しは分かるが、怪物退治はどう考えても普通に探偵の仕事ではないだろう。影人が非日常に慣れ切っていなければ、きっと驚き、戸惑い、呆然とし、最悪気絶していた。
「ったく、何でよりによってあんな特殊な人と関わる事になるかね。やっぱり、俺は呪われてやがるぜ・・・・・・」
バイトを探して最初に間違いなく普通ではない仕事に関わる事になるとは。影人はもはやいつも通りに自分の運の無さを呪った。
(だけど・・・・・・何か妙にしっくり来た気がするな)
それがなぜかは分からない。だが、影人はふとそう思った。
「・・・・・・気のせい、でありたいもんだぜ」
影人がそんな願望の言葉を口にする。面倒事と危険事。その2つが混じり合った非日常に自分から関わりたいと、影人は思わない。現在進行形で非日常と関わり続けているが、それが影人の偽らざる気持ちだ。
しかし、やはりその日、影人の中から妙にしっくりと来た感覚――奇妙な充足感とでも言えばいいだろうか――が消える事はなかった。
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