第459話 クリスマス前髪争奪戦(7)

「――だぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ! 負けたぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」

 ナンパ男と光司の勝負に巻き込まれた影人がボーリング場に連れて来られてから約30分後。影人の前には床に崩れ落ちるナンパ男の姿があった。ナンパ男の言葉からも分かるように、ボーリング勝負に勝ったのは光司だった。

「僕の勝ちです。約束通り、素直に退いてくれますね?」

「・・・・・・ああ、分かってるよ。約束は守る。お姉さんはお前に任せた。じゃあな。・・・・・・お前、強かったぜ」

「・・・・・・あなたも強かったですよ。松野さん」

 素直に去り行くナンパ男に光司はそんな言葉を送った。どんな人間でも本気で勝負し合えば何かが通じ合うものだ。光司とナンパ男も互いに何が通じ合っていた。

(・・・・・・まあ動機はあれにしても熱い勝負ではあったな)

 一応、ずっと観戦していた影人はナンパ男の背を見つめながらそんな感想を抱いた。実際、光司とナンパ男のスコアは拮抗していた。2人とも、ストライクを連発していたので、ボウリング素人の影人の目から見てもかなりハイレベルな戦いである事が分かった。あのナンパ男もかなりの実力者ではあったが、そこは完璧イケメン香乃宮光司が相手だ。光司はその凄まじいスペックでナンパ男に打ち勝った。

「ごめん。ちょっと付き合わせちゃったね。お待たせ・・・・・・帰城くん」

「・・・・・・やっぱり確信犯かよ。当然のように気づきやがって」

 振り返り影人の事をそう呼んできた光司に、影人は素直に自分が帰城影人だと認める反応を示した。

「・・・・・・一応、後学のために聞かせろ。見た目も性別も、匂いも声まで変えてるのに何で俺だって分かった? あと、何で俺の居場所が分かった?」

 影人は光司に自身が抱いていた疑問をぶつける事にした。光司は「そうだね」と影人の疑問に頷くとこう答えを述べた。

「君のためなら僕は限界を超えられるから、としか言えないかな。ほら、よく言うじゃないか。友達のためならって」

「・・・・・・意味が分からん。真面目に答えろ」

「真面目なつもりなんだけどね。まあ、具体的に順を追って話すよ。最初は、待ち合わせ場所に君が来なかったから君の事を強く想ったんだ。すると、不思議な事に君の気配を感じた。でも、君の気配は途中で凄く大きくなった。君の気配が大き過ぎて、僕は君の居場所が分からなかった」

「っ・・・・・・」

 光司の言葉を聞いた影人は驚きの感情を露わにした。影人の気配が大きくなった事は事実だ。影人はソレイユとレイゼロールの追跡を逃れるため、現在進行形で気配を膨張させる力を使用している。

 だが、それは普通の人間には感じ取れないはず。しかし、光司はそれを感じ取った。感じ取れなければ、今の言葉は決して出て来ないのだ。

「僕は君の気配を感じ続けた。すると、僕の中に一筋の光が射したんだ。その光が、君の居場所を教えてくれた」

「は? 光?」

「うん。不思議だよね。そして、光が射した瞬間、不思議な声が僕の中に響いたんだ。『まさか、こちらの世界に入門してくる者がいるとは』、『ようこそ魂の友ソウルフレンドの世界へ』、『祝福するぜ』、『流石は聖夜。奇跡が起きる日だな』、『俺たちも出来る限り力を貸すぜ』、『俺たちは既に魂で繋がった友だ』・・・・・・確かそんな声だったと思う。その光は今も僕の中にあるから、こうやって君を追えたという感じだよ。君の変装を見破れたのも、その光が力を貸してくれた事が大きいよ。まあ、光がなくても見破った自信はあったけどね」

 訳が分からないといった顔を浮かべる影人に光司はそう説明した。普通ならば、もっと話が分からなくなる説明だ。しかし、影人は光司が言わんとしている事を理解した。

(っ、嘘だろ。こいつまさか・・・・・・俺たちの世界に入門して来たって言うのか!? っ、間違いない。集中したら感じる。感じるぜ。俺、A、B、C、D、E、Fしか繋がっていなかった世界に新たな反応が・・・・・・さながらH。幻の8人目の反応が。これが、これが香乃宮だと・・・・・・!?)

 影人は愚者バカの魂を高めると、自分たち――風洛7バカ――の世界に光司の存在を知覚した。まさか、まさかだ。あの香乃宮光司が影人たちの世界に入門してくるとは。

 しかし、それが事実だ。そして、光司が影人の居場所を分かった理由も、影人の変装を見破った理由も納得できた。魂で繋がっている魂の友ならば、それくらいの事わけなく出来る。今の光司はそういう存在だ。

「でも、この光は今日1日だけの力みたいなんだ。何となく分かるんだけど、これは聖夜の奇跡なんだよ。聖夜が終われば奇跡も終わる。だから、この光が力を貸してくれるのは今日限りなんだ」

「そ、そうか・・・・・・」

 続く光司の言葉を聞いた影人は、内心でホッと安堵の息を吐いた。よかった。取り敢えず今日1日だけならまだ何とかなる。光司に常に居場所を捕捉されているなどといった状況、考えるだけで耐えられない。

「という事で、今日1日だけど帰城くんは僕からは逃げられないよ。ああ、言うのが遅れてしまったけど、女性の姿も素敵だね。松野さんが声を掛けるのも仕方がない」

「・・・・・・脅しとキショい事を同時に言ってくるな。ちっ、変装が無駄ならもう解いてやるよ」

 影人は周囲に人の姿がない事を確認すると、変装を解いた。

「やっぱりスプリガンに変身していたんだね」

「・・・・・・通常の俺じゃ逃げられない相手が多すぎるんでな。じゃあな。2度と追って来るなよ」

 影人は光司にそう言うと透明化の力を使用し、姿を消した。そして、そのまま風のような速度でボーリング場を出た。

「・・・・・・残念。また逃げられてしまったね。それに、さっきの影人くんの言葉・・・・・・どうやら、僕以外にも彼を追っている人がいるみたいだね」

 光司は困ったように笑った。影人は2度と追って来るなと言った。しかし、光司はここで影人を諦める気は毛頭なかった。

「やっぱり、君は人気者だ。人気者を独占するのは良からぬ行為。でも・・・・・・今日の僕は良からぬ者。聖夜が起こした奇跡と共に君を追うよ」

 光司はそう呟くと自身の中にある光に従い、影人を追い始めた。

 ――聖夜の奇跡に祝福された、前髪専門の真なる最強のチェイサー、香乃宮光司。聖夜に呪われた空前絶後の前髪野郎、帰城影人。両者の逃走劇が始まった。











「・・・・・・ああは言ったが、香乃宮の奴は絶対に追って来るだろうな」

 透明化の力を使いボーリング場の外に出た影人は、辟易とした顔を浮かべていた。光司は基本的に常識人だ。しかし、なぜか影人に限って言えば、少しタガが外れる困った子ちゃんになるのだ。本当にやめてほしい。

「しかも、今日の香乃宮は俺たちの世界に入門してやがるからな・・・・・・マジで地の果てまで追って来やがる。クソッ、何でよりによってあいつが・・・・・・マジで恨むぜ神様」

 光司への恐怖と面倒くささを感じながら、影人は恨み言を口にする。影人にとって、悲しい事に神は身近な存在だ。何なら、今も2人の女神に追われている。つまり、神への恨み言は知り合いへの愚痴になってしまうのだが、影人がいま口にした神という存在は知り合いに向けたものではない。言わば、一種運命に対する愚痴のようなものだった。

「・・・・・・いま1番危険なのは間違いなく香乃宮だ。香乃宮が絶対に追って来れない場所に逃げるのが、現状は1番安全だ」

 例えば海外。影人はイギリス、アメリカ、イタリア、ロシア、中国、フランス、ギリシャを思い浮かべた。少なくとも1度行った事のある場所はそれくらいある。長距離転移を使える今の影人ならば、海外に転移する事は可能だ。先ほどは光司の追跡と転移の力の消費量を天秤にかけ、海外に逃げる選択は外したが、今の光司の危険度から考えるに、海外に逃げてもいいかもしれない。

「でもなぁ・・・・・・今のあいつなら何かよく分からない力で追って来そうなんだよな。そうなったら力の消費量が無駄になって、俺が不利になる。やっぱり、この辺りで適当に・・・・・・」

「見つけたよ、帰城くん」

 影人が真剣に悩んでいるとすぐ近くからそんな声が聞こえて来た。影人がバッと声のした方に振り向くと、そこには案の定光司がいた。

「・・・・・・おい、何でさっきの今で追いついて来てるんだよ。しかもお前・・・・・・ここ小さくはあるがビルの屋上だぞ。どうやって登ってきた?」

 影人は色々と諦めたような顔になりならがも、一応光司にそう聞いた。影人がボーリング場から逃げ出して、まだ数分しか経っていない。しかも、影人が言ったように今いる場所はボーリング場からそれなりに離れたビルの屋上だ。普通はこの短時間でここに来れるはずはないのだ。

「君の気配を感じて君の事を強く想った。すると、気がついたらここにいた。不思議だよね。でも、事実なんだ。これもまた、聖夜の奇跡の力かな」

「ちっ、やっぱりかよ・・・・・・」

 光司の答えを聞いた影人がそんな感想を漏らす。今の光司の言葉からするに、影人が海外に逃げても光司は平然と追って来るだろう。やはり、海外に転移しなくて正解だった。

「という事で帰城くん。観念して僕と今日を過ごそう。大丈夫。精一杯君を楽しませると誓うよ」

「何がという事でなんだよ・・・・・・というか、マジでそういう言葉は俺に言うな。前にも言ったと思うが、そういう言葉はお前を慕ってる誰か他の奴に言ってやれ」

 キメ顔で手を差し向けて来る光司は、いつものイケメンぶりも加わって、それはそれは格好よかった。何というか煌めいて見える。まるで物語の王子様だ。ほとんどの女性はドキドキし過ぎて卒倒するのではないだろうか。

「僕は友人の君にだから言っているんだよ。そこは勘違いをしないでほしいな」

「何を勘違いしろっていうんだ・・・・・・? 取り敢えず、お前には何を言っても無駄みたいだな」

「そうだね。今日の僕は我儘だ。恥ずかしい限りだよ」

「そう思うんなら諦めろよ。どいつもこいつも、何で俺みたいなつまらない人間とクリスマスを過ごしたがるかね。理解に苦しむぜ」

「それはみんな君の魅力を知っているからだよ。かくいう僕もその1人だ」

「はっ、寝言は寝て言えよ」

 影人は光司の言葉をバッサリ切り捨てると、トンと足場を蹴った。すると、影人はそのまま宙に浮き始めた。

「今のお前でも、流石に空は飛べないだろ。なら、俺はしばらくの間空を飛んでればいい。残念だったな香乃宮」

 影人が空中から光司を見下ろす。しかし、光司はフッと笑ってみせた。

「それはまだ分からないよ帰城くん。なにせ、今の僕は聖夜の奇跡を受けた身だからね。不可能なことも可能にしてみせるよ」

「言うじゃねえか。だったら今から俺を追いかけて来てみろよ」

 影人は空中を移動し、光司のいるビルから離れた。いくら謎の奇跡パワーを得たといっても、人間が身一つで空を飛べるはずがない。

 しかし、

「じゃあ、追いかけさせてもらうよ」

 光司はどういう理屈か、その背に半透明の翼を生じさせると、そのまま空中に羽ばたいた。光司のその姿は今日がクリスマスという事も相まって、天の使いのように見えた。

「はあ!?」

 その光景を見た影人が思わずそう叫ぶ。もう訳が分からなかった。聖夜の奇跡の力は何でもありだというのか。

「さあ、空の鬼ごっこといこうか。僕が君を捕まえられたら、僕と今日を過ごしてもらうって事で大丈夫だよね」

「大丈夫なわけあるかよ・・・・・・! マジで何なんだお前は!」

 影人は悲鳴を上げながら光司から逃げた。しかし、光司は半透明の羽を使って影人を追って来る。

「君の友でありたいと願う者だよ!」

「知るか!」

 影人は『加速』の力を使い自身の速度を上げた。こうなったら速さで光司を撒くしかない。世界を置き去りに空を駆ける影人。この速さ、この世界に追いついて来れる者は、レイゼロールやシェルディアなどと限られている。流石に今の光司でも『加速』を使った影人に追いついて来る事は――

「はぁぁぁぁっ!」

「何で追いかけて来れるんだよ!?」

 ――普通に出来た。気合いの込もった声を上げながら影人を追って来る光司に、影人は恐怖を抱いた。それから影人と光司は神速の速度で空を駆け巡り、逃走劇を繰り広げた。

「はあ、はあ、はあ・・・・・・お、お前マジでどれだけしつこいんだよ・・・・・・」

「はあ、はあ、はあ・・・・・・そ、それだけ僕が本気だという事だよ・・・・・・」

 それから約数時間後。影人と光司は互いに向かい合っていた。両者共に肩で息をしており、地面に膝を突いている。明るかった空はもうじき完全な黒へと染まろうとしていた。

「はあ、はあ・・・・・・本当、お前はその情熱を何か違う方に向けろよ・・・・・・だが、取り敢えず鬼ごっこは俺の勝ちだ」

 影人は何とか気力を振り絞り立ち上がると、光司を見下ろした。光司も影人に対抗して立ち上がろうとするが、中々立ち上がる事は出来なかった。

「くっ・・・・・・」

「いくら聖夜に祝福されて奇跡の力を得たって言っても、限界はいつか来る。お前は今日初めてその力を使った。恐らく、常に全力でな。対して、俺は自分の力を熟知してる。もちろん、その限界もな。それが今のこの結果だ」

 と言っても影人も限界ギリギリなのだが。スプリガンの力は既にかなり消費している。しかし、影人はその事を口にはしなかった。影人はなけなしの力を使い、闇色の鎖を創造するとその鎖で光司の全身を縛った。

「なっ・・・・・・」

「万が一にも、お前が俺を追って来れないようにする処置だ。安心しろ。少ししたら消えるからよ。今度の今度こそ、じゃあな香乃宮。間違いなく、今日はお前が1番手強かったぜ」

 全身を縛られた光司が驚いた声を漏らす。影人は最後に光司にそう告げると、光司に背を向け歩き始めた。

「ま、待ってくれ帰城くん! 僕は、僕は・・・・・・!」

 後方から光司の悲痛な声が聞こえて来たが、影人は無視した。そして、影人はその場から去った。

 ――こうして、聖夜の逃走劇は影人の勝利に終わった。












「・・・・・・マジで疲れた。こんなに疲れたクリスマスは初めてだぜ」

 ようやく光司から逃げる事に成功した影人は、疲労の色を隠しきれぬ顔でそう呟いた。気を抜いてしまえば今にも倒れそうだ。

「今すぐベッドにぶっ倒れたい・・・・・・でも、ぶっ倒れたらスプリガンの変身が解けちまうし出来ねえ・・・・・・」

 変身を解除した瞬間、影人の気配を感じ取れるシェルディア、レイゼロール、ソレイユが影人の場所に群がってくる。考えるだけでもゾッとする話だ。少なくとも、今日が終わるまでは影人はずっとスプリガンに変身していなければならない。今の影人はスプリガン状態ではあるが、一応幻惑の力を使って再び目立たない青年に変装していた。

「だけど、流石に外を放浪しっぱなしは無理な気分だな・・・・・・仕方ねえ。家に帰るか。気配の肥大化はまだ使ってるから、家に帰ってる事はバレないだろ」

 影人はそう決めると、スプリガンの身体能力を使い家に向かって駆けた。幸い、この辺りから家はまだ近い方だ。スプリガンの身体能力で駆ければ、5分も掛からないだろう。

「ふぅ・・・・・・」

 ようやく家の近くまで来た影人は歩調をゆっくりとしたものに変えた。普段なら、スプリガン時はこれくらい走っても疲れなど一切感じない。だが、今日は色々と限界が近づいているためか、影人は走った事に対する疲労を感じていた。

「・・・・・・本当、今日は散々な日だったぜ。どいつもこいつもやば過ぎる追手だったし・・・・・・極め付けはあの奇跡パワーの香乃宮だし・・・・・・そもそも、何で俺は追われてたんだ? ああ、だめだ。頭が回らねえ・・・・・・」

 もう何も考えたくなかった。ただ1つだけ確かな事は、影人はこの苦難を乗り切ったという事だ。そう。それだけは、それだけは間違いないはず――影人がそう思いながら歩いていると、影人が住んでいるマンションが見えて来た。ようやくゆっくり出来る。影人の心に久しぶりの安堵感が到来する――はずだった。

「っ・・・・・・!?」

 しかし、スプリガンの金色の瞳はマンション前のある光景を捉えた。

「全く影人の奴・・・・・・絶対に許さないからな」

「うん。クリスマスに女の子たちの予定を潰す事がどれだけ罪深いか・・・・・・影くんにはしっかり反省してもらわなきゃ」

「こればかりは左に同じだね。でもまあ、帰城くんの住まいが知れたのは僥倖だったかな」

「うむ。そうだな。これで、いつでも帰城影人をデートに誘え・・・・・・コホンコホン!」

「ふふっ、さてあの子には何をしてあげようかしら。ふふっ、ふふふふふふっ」

「・・・・・・殺気が出ているぞシェルディア。まあ、気持ちは分かるがな」

「あのバカ前髪、いったいどれだけの女性と・・・・・・ふふっ、絶対に、絶対に女神の鉄槌を下してやるわ・・・・・・!」

「う、うわぁ・・・・・・これ、帰城くん大丈夫かな・・・・・・」

「絶対に大丈夫じゃないわよ・・・・・・まあ、でも自業自得なのかしらね。今のうちに供養しておきましょう。南無三」

「・・・・・・相変わらずバカな事をしていますね帰城影人は。やはり、今まで私が見た中で最も愚かな人間です」

 影人の住むマンションの前には女性の集団がいた。暁理、ソニア、ロゼ、アイティレ、シェルディア、レイゼロール、ソレイユ、陽華、明夜、イズ。いずれも影人がよく知っている者たちだ。というか、陽華、明夜、イズの3人以外は今日影人を追っている者だった。

(おい、何だよあの核レベルにヤバい集団は!? 何がどうなってあの面子がマンションの前にいるんだよ!?)

 影人は反射的に近くの電柱に身を隠した。あの集団は明らかに影人を待ち伏せている。それだけは間違いない。影人は激しく混乱しながらも、その事だけは理解した。

(どうする引き返すか!? いや、でもマジで疲労が限界だ! 部屋で一息つかないとマジで死んじまう! こうなったら部屋に直接転移を・・・・・・いや、もう転移を出来るだけの力がねえ。クソッ、こうなったら・・・・・・)

 影人は覚悟を決めると、電柱の陰から出た。そして、そのままマンションに向かって歩き始めた。今の影人は幻惑の力で姿を変えている。つまり、他人にしか見えないのだ。こうなれば、マンションの住民のフリをして、あの激ヤバ集団の前を抜けるしかない。

(大丈夫。きっと大丈夫だ。俺の変装は完璧。見破った香乃宮がおかしかっただけだ。恐れるな帰城影人。恐れるものなど何もない。俺は・・・・・・生きる!)

 どんどんとマンションと、その前にいる女性集団が近付いてくる。一歩進むごとに、ドクンドクンと影人の心臓が早鐘を打つ。影人の今の心境は、まさに死地に赴かんとする兵士。緊張と恐怖でどうにかなりそうになりながらも、影人は歩みを止めなかった。

「・・・・・・」

 女性集団との距離が10メートルほどまで近づく。当然ながら、向こうも変装している影人に気づく距離だ。影人は無言を保ったまま、出来るだけ平然とした様子に見えるように演技した。

「「「「「・・・・・・」」」」」

 何人かが影人に視線を向けて来たが、すぐに興味がなさそうに視線を外した。それは、影人の変装を誰も見破っていないという事の証明だった。

(よし・・・・・・よし! 俺の勝ちだ!)

 影人は勝利を確信した。女性集団との距離は約5メートルほどまで縮まった。しかし、やはり全員影人を気にする事はない。影人が内心でガッツポーズをした瞬間――

 突然、影人の身から黒い光が発せられた。すると次の瞬間、影人は元の前髪野郎に戻っていた。

「・・・・・・え?」

 急に馴染みのある前髪が視界に入ってきた影人は思わずそんな声を漏らした。同時に、女性集団からの目線が影人に突き刺さった。

『タイムリミットだ。まあ、要はスプリガンの力が尽きちまったってわけだ。今日はかなり力を使ったからな。そういうわけで、くくっ精々頑張れよ。俺は優雅にこれからお前がどうなるか見学させてもらうぜ』

 放心状態の影人の中にイヴの声が虚しく響き渡る。ああなるほど。そういう事か。影人は現実逃避気味に納得した。

「「「「「・・・・・・」」」」」

「へ、へへっ・・・・・・あ、あの、そのですね・・・・・・ゆ、許して・・・・・・ぎゃああああああああああああああああああああああああああああああ!?」

 聖夜に前髪野郎の悲鳴が響き渡る。聖夜に響く鈴の音は――汚い汚い鈴の音であった。


 ――この後、前髪野郎がどうなったのか。それは、ご想像にお任せする。

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