第389話 語らい(1)

「おや、月なんかを見上げてどうしたのですかイズ?」

 ひっそりとした山の麓。焚き火や月の光しか光源がない暗闇の中で、小さなイスに腰掛けていたフェルフィズはイズにそう言葉をかけた。

「・・・・・・特に何も意味はありません。ただ、意識がある状態でこの世界の月を見るのは初めてなので、見ていただけです」

 フェルフィズの問いかけにイズは顔を下ろしそう答えた。記憶としてイズはこの世界の月(向こう側の世界にも月のようなものはあったため、イズは区別するためにそう言った)を識ってはいる。フェルフィズの大鎌の本体の記憶が、意思たるイズにはあるからだ。だが、それは実感のない知識のようなもの。ゆえに、イズは「月を見上げる」という行為を今初めて体験していた。

「ああ、なるほど。あなたはいま体験をしていたわけですか。それは野暮な事をしてしまいましたね。すみません」

「? 製作者が謝るような事は何もないと思いますが・・・・・・」

「気にしないでください。単純に私が謝りたかっただけですから」

 首を傾げるイズにフェルフィズはフッと笑った。その笑みはいつもの狂気を宿した笑みではなく、優しさが見える笑みだった。

「それでどうですか? 月を見た感想は」

「感想、ですか。特にはありませんが、強いて言うのであれば、やはり向こう側の世界の月とこちらの世界の月には多少の相違が見られます。具体的に言えば大きさ、クレーターの数などです。この事実が示すのは・・・・・・」

 フェルフィズに感想を求められたイズが、アオンゼウの器によって得られたデータと比較し、そこから分かった事を述べようとする。そんなイズに、フェルフィズは苦笑いを浮かべた。

「イズ、それは感想ではなく分析ですよ。私が聞きたいのは、月を美しく感じたのか感じなかったのかというような事です」

「美しく感じる・・・・・・?」

 イズはよく分からないといった様子で再び首を傾げた。そして、少しの間考え込むように視線を落とすと、やがてフェルフィズの薄い灰色の瞳を見てこう言った。

「・・・・・・分かりません。美しいという感情がどういうものなのか。私は命がない無機なる物に宿った意思。そういった感情は有していないと思われます」

「そうですか。確かにあなたの本体は無機物ですし、全てを殺す力を持ったあなたの本体は最も無機なる物と言えるでしょう。ならば、その意思たるあなたも当然無機的な意思・・・・・・というわけでは別にないんですよ」

「っ? どういう意味ですか?」

 フェルフィズの最後の言葉はイズにとって予想外だった。

「そのままの意味ですよ。無機質な物に宿った意思が無機質なものであるとは限らない。そんなルールは何も決まっていません。あなたという意思はかなり無機質に近いですが、完全には無機質ではない。イズ、あなたには確かに感情がありますよ。そこは製作者である私が保証しましょう」

 穏やかで優しい、まるで親が子に向けるような笑みをフェルフィズはイズに向けた。イズは驚いたように小さくではあるが、その目を見開いた。

「私に感情が・・・・・・」

「ええ。願わくば、あなたにはもっと色々な事を体験して感情豊かになってもらいたい。いつか何かを美しいと、感想を抱いてもらいたい。それが今の私のささやかな願いです。まあ、その前にこの世界は壊すつもりなので、感想を抱く対象は激減してしまうでしょうがね」

 フェルフィズは一旦そこで言葉を切った。そして、ため息を吐いた。

「はあー、本当なぜ未だにこの世界は壊れないんですかね。昔から何度も壊れる機会はあった。ですが、その度に世界は存続の道に戻る。今度こそ間違いなく壊せると思ったんですがね。しかし、結果はこれだ。ギリギリのところではありますが、未だにこの世界は存続している。しかも、混乱すら起こっていない。流石に怒りが湧いてきますね・・・・・・」

 フェルフィズは空を見上げた。視界内に映る空間には幾つも亀裂が入っている。本当ならば今もこの亀裂が広がり続け、やがて向こう側との境界が完全になくなるはずだった。その崩壊は誰にも止められない。そうして、この世界に未曾有の混乱が生じ、世界は破滅へのカウントダウンを刻むはずだった。

 だが、いったい如何なる方法を用いたのか、そうはなっていない。今フェルフィズに分かっているのは、間違いなくあの男、スプリガンこと影人が関わっているだろうという事だけだ。フェルフィズは影人の顔を想像すると苛立った気持ちを抱いた。

「現状を打破する方法もすぐには思い浮かびませんし・・・・・・やはり、1度じっくりと思考する他ないようですね。仕方ない。この世界を壊すのはもう少し後の楽しみに取っておきますか」

「・・・・・・製作者、1つ質問をしてもよろしいですか?」

「質問? ええ是非に。嬉しいですね。あなたから私に質問があるなんて」

 ジッと自分を見つめてくるイズに、フェルフィズは笑顔を浮かべ首を立てに振る。許可を得たイズはフェルフィズにこう聞いた。

「製作者はなぜこの世界の破壊に拘るのですか? 私はその理由を知りません」

 それはフェルフィズという神に対する一種の根源的な問いであった。なぜ彼の忌神はこの世界を破壊しようとするのか。そこにいったいどれだけの、どのような理由があるのか。フェルフィズの最高傑作である「フェルフィズの大鎌」の意思であるイズですら、その理由は知らなかった。

「私がこの世界を壊そうとする理由ですか? うーん、そうですね。別に大した理由はないのですが・・・・・・」

 フェルフィズは軽く悩むように顎に手を当てた。そして、やがてこんな答えを述べた。

「まあ言語化するならば暇つぶし、ですかね。死んだフリをした私は神界からこの世界に来た。ですが、不老不死というのは永遠に退屈との戦いです。当時の私は酷い退屈感を抱いていた。かと言って、別に死にたいわけでもなかった。死にたいのならば、死んだフリをする必要もなく、本当に殺されておけばよかっただけですからね。ではどうするか。そこで私が考えたのが、この世界を壊そうという暇つぶし、遊戯ゲームですよ」

 フェルフィズは言っている内容とは裏腹に、何でもないような笑みを浮かべた。

「まあ、当時の私はそれとは別に復讐心のようなものも抱いていたかもしれませんがね。私を殺そうとした神界の神々。そんな神々の管轄下にあるこの世界を壊せばいくらかスッキリする。そう思っていたことは否定できません。まあ、今はそんな感情はないですが。コツコツと世界を壊す計画なんやらを立て実行してみたりする内に、すっかり楽しくなってしまいましたから。今では生きる目的・・・・・・と言ってしまってもいいかもしれませんね」

「・・・・・・理解しました。製作者はやはり狂っているという事ですね」

「あはは、えらく簡潔に纏めましたね」

 イズの言葉にフェルフィズは思わず笑った。

「ですが一言で言えばそうですね。私は狂っている。だから、狂神なんやらと呼ばれているわけですが。でも、それが今の私ですからね。私は私を受け入れるだけです。自己からは誰も逃れられないのですから」

 フェルフィズはそう言うと立ち上がった。そして、イズに対してこう言葉を述べた。

「では、そろそろ私たちも移動しましょうか。幸い、まだ私の隠れ家はいくつも残っていますし。ついでに、あなたの器の状態もチェックしましょう。そして、可能であれば調整もしておきましょう」

「了解しました」

 イズが頷く。そして、フェルフィズとイズはその場から離れた。













「ふぁ〜あ・・・・・・よく寝たな」

 異世界から帰って来た翌日。午前7時半過ぎ。影人は自分のベッドから体を起こすと、軽く伸びをした。そして、ベッドから出ると自分の部屋を出て洗面所に行った。

 結局、昨日は帰ってすぐに寝てしまった。大分と疲れやストレスが溜まっていたのだろう。途中起きた影人は晩ごはんと風呂にだけ入りまたすぐに寝た。そのおかげか、現在眠気や疲れはほとんどなくなっていた。

「おはようー」

 影人はリビングに入ると朝の挨拶の言葉を述べた。すると、座ってコーヒーを飲みながら新聞を見ていた日奈美と、朝ごはんを食べていた穂乃影がこう言葉を返して来た。

「おはよう。朝ごはん出来てるからちゃちゃっと食べちゃいなさい」

「・・・・・・おはよう」

「ありがとう母さん」

 影人は日奈美に感謝の言葉を述べると席に着いた。そして、手を合わせ朝食を食べ始める。

 2人の反応からも分かるように、シトュウが施した世界改変は問題なくその力を発揮していた(今はもう解除済み)。この世界にはずっと影人がいたように認識されていたため、昨日帰った時も日奈美と穂乃影は何事もなく影人の帰還を受け入れてくれた。ゆえに、影人は前のように怒られたり事情を説明する事もなく、日常に再び溶け込んでいた。

 そして、ここに影仁がいない事からも分かる通り、どうやら影仁はまだ家には帰っていないようだった。まあ、影仁の事だからまだ世話になった人たちの元を回っているのだろうと、影人は深くは考えなかった。

「じゃ、私は仕事に行ってくるから。2人とも遅刻しないようにね」

 午前8時過ぎ。日奈美はそう言って出て行った。影人と穂乃影は「あいよ」「うん」と返事を返した。

「・・・・・・じゃあ、私も行くから。行ってきます」

 少しして、既に制服に着替えていた穂乃影がイスから立ち上がる。いつの間にか、穂乃影はすっかり夏服姿だった。

「おう。気をつけろよ穂乃影。夏は薄着が理由からか、不審者が多くなるからな。お前は美人だし見た目も物静かだから、特に不審者に狙われやすいかもだ」

「っ・・・・・・キモい。いきなり妹に向かって美人とか」

 穂乃影は一瞬驚いたような顔になると、フイと顔を背けた。そして、こう言葉を続けた。

「それに不審者には慣れてるから大丈夫。なにせ、家にずっと不審者がいるし」

「誰が不審者だおい!?」

「きゃー、不審者が叫んだ」

 影人が思わずそう叫ぶ。穂乃影は棒読みの悲鳴を上げるとリビングを出た。

「・・・・・・私は優しいから一応言っとく。・・・・・・心配ありがとう・・・・・・影兄」

「ん? 最後なんて言った?」

「別に何でもない。じゃ」

 穂乃影はそう言って家を出た。これで、家に残ったのは影人だけになった。

「ったく、ウチの妹は相変わらずだな。さて、面倒だが俺もそろそろ学校に行くか。本当なら、今日一日くらいは学校サボりたかったんだがな・・・・・・」

 何だかんだで感謝の言葉を述べて来た穂乃影に対し、影人はフッと気色の悪い通称前髪スマイルを浮かべた。そして、自分も出発の支度を整える。

「暑いな・・・・・・」

 家を出た影人は朝だというのに熱気のこもった空気を感じそう言葉を漏らした。6月といえば梅雨の時期だが、今日は晴れ渡ったいい天気だ。だが、空気はカラリとしたものではなく、ジメッとした湿度を感じさせるものだ。影人は少しの不快感を抱きながら学校を目指した。

「終わることなどない願◯を〜この手は◯えるか〜。全てが〜・・・・・・ん?」

 影人が鼻歌を歌っていると、前方に見覚えのある背中が見えた。丁度いいと思った影人は少しだけ歩く速度を速めその背中に追いつくと、横並びになり声をかけた。

「よう久しぶりだな暁理」

「ん? ああ、久しぶり影人・・・・・・影人?」

 あまりにも自然に影人が挨拶をしたものだから、男性の夏服に身を包んだその少女――早川暁理は反射的にそう言葉を返した。だが、暁理は訝しげな顔で影人を見つめると、次の瞬間その顔色を驚愕の色に染めた。

「ええ影人!? な、何で君が!? え、ええええええええええええええええええ!?」

「うるせえぞ暁理。朝っぱらから何て声出しやがる」

「「「「「?」」」」」

 暁理のあまりの声の大きさに影人が顔を顰める。周囲の学生や通行人も「なんだ」といった顔で2人の方に顔を向けて来た。

「だっ、だって、だって・・・・・・! き、君いつ帰ってきたんだよ・・・・・・!?」

 暁理は影人の胸ぐらを掴むと声のトーンを落としてそう聞いて来た。この反応からも分かる通り、暁理は世界改変の影響を受けてはいない人物の1人であった。

「胸ぐらを掴むな。お前何かと俺の胸ぐらを掴む癖があるぞ。昨日だよ。戻らなきゃならない事情が出来たからな」

「昨日!? だったら僕に連絡しろよ!」

「サプライズだ」

「何がサプライズだこのバカ前髪!」

 アホの前髪に暁理は即座に怒りの声を上げた。鉄拳が飛ばなかったのは一種の奇跡だった。

「まあ悪かったって。だけどまあ、久しぶりにお前に会えて嬉しいぜ」

「っ、きゅ、急になんだよ! ふ、ふん。君にそんなこと言われても嬉しくなんかないんだからな!」

 笑顔を向けられた暁理はカァと顔を赤くさせ、顔を背けた。口調は怒っていたが、その顔はニヤけるのを堪えるので精一杯といった感じだった。

「はっ、そうかよ。実は戻って来た理由はあんまりいい理由じゃないんだが・・・・・・その辺りはソレイユから聞いてるか?」

「う、うん。その・・・・・・大変な事になったみたいだね」

 暁理が影人の胸ぐらから手を離す。暁理の言葉に影人は頷いた。

「ああ。不甲斐ない事に俺たちはあいつを、フェルフィズを止めきれなかった。この状況を招いたのは俺の責任だ。・・・・・・正直、負けたって感じだな」

「でも・・・・・・まだ諦めてないんだろ?」

「当たり前だろ。俺は諦めが悪いんだ。これだけは死んでも直らねえよ」

「だろうね。なにせ、君はバカだから」

 暁理はフッと笑った。それはバカにするような笑みではなく、仕方がないといった暖かみのある笑みだった。

「でも、君のそういうところ嫌いじゃないよ。戦いになったら僕を呼べよ。仕方ないから力を貸してあげるよ。なにせ、僕は正義のヒロインだからね」

「何だよ上から目線だな」

「いいでしょ別に。それよりほら、学校行くよ。そろそろ歩かないと遅刻する」

「分かってるよ。・・・・・・なあ、暁理」

「ん? 何だい?」

 歩き始めようとした暁理が振り向く。影人は暁理にこう言葉を述べた。

「・・・・・・ありがとな。あと、ただいま」

「どういたしまして。うん、おかえり影人」

 暁理が満面の笑みを浮かべる。その笑みを見た影人は思わず帰って来てよかったと、そう思った。

 そして、2人は世間話をしながら学校へと向かった。












「ふぅ・・・・・・中々現状を打破する方法が思い浮かびませんね」

 同じ頃。隠れ家の一室でフェルフィズは軽く息を吐いていた。

(少し休憩しますか。ああ、そうだ。気分転換に久しぶりに一杯やりましょうかね)

 確かこの隠れ家の地下にはワインがいくつか寝かせてあったはずだ。フェルフィズは地下室へと移動した。

「ふむ、これにしますか」

 棚から適当なワインのボトルを取り出したフェルフィズがそう呟く。フェルフィズは無類の酒好きというほどではないが、好きか嫌いかでいえば間違いなく好きの部類であった。

「ん? 酒、酒・・・・・・何でしょうね。何か思い出しそうな・・・・・・」

 唐突に何かの記憶が頭の中を遮る。次いで、なぜか影人の顔が浮かんだ。そして、フェルフィズはとある記憶を思い出した。

「! ああ、そうだ。そうでした。確かあの時私は・・・・・・くくっ、自分で言った事は守らなければなりませんね。さて、ならまずはの居場所を特定しなければ」

 フェルフィズはニヤニヤとした顔になった。現状を打破する事と今思い出した事は関係ないが、愉快な記憶を思い出した。どうせ、すぐには現状打破の方法は思いつかない。ならば、こちらを優先しよう。フェルフィズはワインのボトルを抱えると、機嫌が良さそうに階段を登った。

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