第342話 ちっぽけで陳腐な理由

「・・・・・・」

 5月6日月曜日、午後3時過ぎ。生物の授業を受けていた影人は、中年の女性教師が話す授業内容を聞き流しある考え事をしていた。

(フェルフィズの奴が逃げたのは、嬢ちゃんが元いた向こう側の世界。普通なら、向こう側の世界に逃げたとしても、シトュウさんの全知の力からは逃れられない。だが、どういうわけかあいつはその力から逃れた。シトュウさんや零無の予想では、あいつの居場所を知るという行為自体が何らかの方法で無効化された可能性が高いって事だったが・・・・・・)

 影人は昨日フェルフィズを取り逃した事に意識を割いていた。あの後シトュウや零無と話したところあの時フェルフィズが開いた穴は向こう側の世界、つまり異世界への門のようなものだと分かった(最初に零無がそう予想し、シトュウが世界と空間のログのような物を調べた結果)。

(・・・・・・そのせいで、フェルフィズの正確な場所は分からない。分かってるのは、あいつが向こう側の世界にいるだろうという事だけだ)

 今更後悔しても遅いし意味はない。これから自分がする事はそれを戒めとし、フェルフィズをどうやって見つけるかを考える事だ。あの忌神をこのまま逃がしておくという選択肢は影人にはなかった。

 それに、確信はないが嫌な予感がするのだ。このままフェルフィズを逃したままにすれば、何か取り返しのつかない事になるのではないかと。フェルフィズはたまたま逃げる先を異世界に選んだのか。影人はその事も気になっていた。

「ったく・・・・・・厄介な奴だぜ」

 影人はボソリとそう呟いた。分かってはいたが、どうやら今度の敵も一筋縄ではいかないらしい。

 結局、影人は生物もその後の授業もフェルフィズの事を考えていたせいで、授業内容は全く頭には入らなかった。












「・・・・・・マズいな。留年生だっていうのに、ノートが真っ白だ」

 放課後。影人は机に広げていた自分のノートに何も書かれていない事に気がついた。留年生の影人にとってこれは由々しき事態である。授業とフェルフィズの事を比べれば、間違いなくフェルフィズの事の方がスケールが大きい。どのような角度から考えても、フェルフィズの事を考える方が優先順位が上だし、また有意義だ。

 だが、それは最低限落第生でなければの話である。落第生もとい留年野郎が1番しなければいけない事は勉強であり、真面目に授業を聞く事である。戦いがどうのやら世界がどうのやらは、留年生にとっては二の次だ。留年前髪野郎もその事は理解していた。

「どうしたんですか帰城さん? 何か深刻なご様子ですけど・・・・・・」

「ああ、いや別に・・・・・・その、考え事してたから生物と古典のノートが真っ白でな。春野、本当に悪いんだがノートの写真撮らせてもらっていいか? また今度埋め合わせはするから」

 隣の席の海公にそう聞かれた影人は、申し訳なさそうに海公に頼み事をした。影人にそう言われた海公は明るい顔で頷いた。

「全然大丈夫ですよ。後、埋め合わせなんていりませんから。はい、どうぞ」

「ありがてえ・・・・・・流石は神様仏様春野様だぜ」

 生物と古典のノートをわざわざ鞄から取り出してくれた海公が今日の授業の板書を写した箇所を開けた。影人は両手を合わせると、スマホのカメラでそのノートを撮った。

「大袈裟ですよ帰城さん。あ、そうだ。よかったら、今日一緒に新しく出来た唐揚げ屋さん寄りませんか? 帰り道にあるんですけど、美味しいって有名なんですよ」

「唐揚げ屋か・・・・・・いいな。小腹も空いて来たし行くか」

 海公の誘いに影人は頷いた。普段ならば、あまり人の誘いには乗らない前髪野郎だが、海公は色々影人に良くしてくれるので別だ。影人の返事を聞いた海公は嬉しそうな顔になる。

「やった。じゃあ、早速――」

 海公は立ち上がり言葉を述べようとした。だが、次の瞬間にはその顔色を変えた。

「っ!? す、すみません帰城さん! 本当に申し訳ないんですが急用を思い出しました! ごめんなさい! 唐揚げ屋はまた後日に! では!」

「お、おう。気にするな。またな」

 海公は影人にそう言うと、鞄を持ってダッシュで教室を出て行った。海公の突然の行動に少し驚きながらも、影人は海公にそう言葉を送った。

「ごめん! ウチ今日急用出来たからパス! じゃ、バイバイ!」

 海公が出て行ったタイミングで教室にいた魅恋も友人たちにそう言って走って教室を出た。魅恋の言葉を受けた友人たちは「えー、また?」「魅恋、最近急用多いなー」「もしかして彼氏じゃね?」と反応していた。

「あー、なるほどな・・・・・・」

 海公と魅恋の様子を見た影人は、2人が急いで教室を出て行った理由を察した。恐らく、あちら側からの流入者が現れたのだろう。そして、2人は光導姫と守護者としてソレイユとラルバから合図を受けた。

「光導姫と守護者してんな・・・・・・まあ、新人のあいつらが呼ばれて俺も呼ばれてないって事は、今回の流入者は大した奴じゃないんだろうが・・・・・・」

 影人は小さな声でそう呟くと鞄を持って立ち上がった。もし本当に危険になったら自分が呼ばれるだろうし、心配のようなものはあまりしていなかった。影人は2人に頑張れ的な事を思うと、教室を出た。

「さて、春野との用事もなくなったし、今日は素直に帰るか」

 廊下を歩き影人は階段を降りた。そして昇降口へと向かう。

 するとその途中で、

「ん? やあやあ、これはこれは。こんにちはボンジュール、帰城くん。今日も素敵な前髪だね」

「げっ、ピュルセさん・・・・・・」

 ロゼに出会った。ロゼは薄桃色の格好いい模様の入ったロングのシャツに紺のジーパンというカジュアルな格好で影人に手を振ってきた。ロゼに手を振られた影人はついそんな反応をしてしまった。

「ははっ、相変わらずの反応だな君は。まあ、多少は気を許してくれているという事で納得しようかな」

「いや、別にそういう事ではないんですけど・・・・・・じゃあ、失礼します」

 影人はそそくさとこの場から離れようとしたが、ロゼはガシリと影人の肩に触れて来た。

「まあ待ちたまえよ。せっかく会ったんだから、少し付き合ってくれないかい?」

「はー・・・・・・いったい何に付き合えっていうんですか?」

「おや意外だね。てっきり断られると思っていたのだが。その言葉からするに了解するという事かな?」

 大きくため息を吐きそう言った影人に、ロゼが言葉通り意外そうな顔を浮かべる。影人は不承不承といった顔でこう返答した。

「正直に言うと嫌ですが、今回は付き合ってあげますよ。ピュルセさんには恩と借りがありますから」

 先の零無との戦いの時にロゼは戦いに駆けつけてくれた。そして、影人は仮死とはいえロゼを殺した。そこには恩と借り(引け目ともいうが)がある。ゆえに、影人はロゼの誘いに乗ったのだった。

「ふむ、律儀だね。まあ、私からしてみればありがたいが。では、私について来てくれたまえ」

「はいはい、分かりましたよ」

 ロゼは嬉しそうに笑うとどこかに向かって歩き始めた。影人はロゼの後ろに着いて行った。














「確かに付き合うとは言いましたが・・・・・・何ですかこれ・・・・・・?」

 約10分後。影人とロゼは美術準備室にいた。様々な美術用品の中、影人はじっと椅子に座りロゼはキャンバスに向かって鉛筆を走らせていた。

「・・・・・・ん、何ってデッサンだよ。本当は今日は図書室を利用させてもらおうと思っていたんだが、せっかく君が付き合ってくれるというから、急遽場所と道具を貸してもらった。元はといえば、私はスプリガンを描きたくて日本に来たからね。だから、その本懐を遂げようと考えてね。まあ、今は君がスプリガンだからという理由以外にも、普通に君自身を描きたいと思っているがね」

 ロゼはいつもとは打って変わって、真剣な顔を浮かべていた。そして、影人とキャンバスを交互に見ながらシャッシャッと描いている音を響かせた。

「ああ、そういえばそうでしたね・・・・・・俺なんかを描きたがる理由は理解できませんが。でも、それでピュルセさんが満足するならいいですよ」

 影人はどうにでもしてくれといった感じにそう言うと、新たに生じた疑問をロゼにぶつけた。

「でも、何で鉛筆でデッサンなんですか? ここは美術準備室だから、筆も絵の具もパレットもあるでしょうに・・・・・・」

「デッサンにはデッサンの良さがあるんだよ。それに、これを元に絵を肉付けしていく方法もある。というか、そちらの方が一般的かな。まあ、私は今回はそうするつもりはないが。君を描くにはこっちの方がいいと思ったんだよ」

 ロゼは影人と会話しながらも滑らかに鉛筆を走らせ続ける。ロゼはこれくらいの事で集中力を欠くという事はないので、影人と会話を続けても問題はなかった。

「へえ、そうなんですね・・・・・・すいません、余計な事聞いて。ああ、よかったら前髪上げましょうか?」

「全然構わないよ。気遣いありがとう。だが、今回は大丈夫だ。普段の君を今は描きたいからね」

 ロゼは小さな笑みを浮かべた。その笑みに普段とは違うロゼの格好良さと美しさを感じた影人は「ッ・・・・・・」と少しだけ息を呑んだ。

 それからしばらくの間、影人は話す内容もなかったので黙っていた。ロゼもそれ以降は言葉を発さなかった。

「・・・・・・ありがとう帰城くん。おかげさまで描き終わったよ」

 静寂を破ったのはロゼのそんな言葉だった。ロゼは満足そうな顔を浮かべると鉛筆を側にあった机の上に置いた。

「いえ・・・・・・あの、一応見せてもらってもいいですか?」

「ああ、もちろん」

 少しの好奇心から影人がロゼにそう聞く。ロゼは笑みを浮かべると、影人にキャンバスを渡した。

「うおっ、凄え・・・・・・」

 キャンバスの絵を見た影人は思わずそう言葉を漏らした。そこにあったのはまるで写真のような影人の姿だった。そこには確かな迫力と生命の躍動があった。描かれていたのは毎日鏡で見るような自分の姿なのだが、影人は感動を覚えた。

「ピュルセさんって、ただの変人じゃなくてちゃんと画家なんですね・・・・・・マジで絵が上手い」

「まあ、一応それが仕事だからね。しかし、ははっ、そんなストレートに変人と言われたのは久しぶりだな。まあ、私自身人と少し感性が違う自覚はあるがね」

「あ、すいませんつい・・・・・・」

「いいよいいよ。全く気にしていないから。むしろ、君の本音の言葉を聞くのは嬉しい。私は君ともっと仲良くなりたいからね」

 ロゼはかぶりをふるとパチリとウィンクをした。ロゼにそう言われた影人は、よく分からないといった感じで軽く首を傾げた。

「・・・・・・何で俺なんかと仲良くなりたいんですか? 俺は別に容姿が優れた人間でもなければ、面白い人間でもないですよ」

「そうかな? 君の秘密を知った今の私からすれば、君は世界で1番面白い人間だと思うが。君は自分を随分と過小評価しているんだね」

 ロゼはクスリと笑うと、影人の方に一歩近づき至近距離からその薄い青の瞳で影人を見つめた。

「それに、君は少し勘違いをしている。本当に仲良くなりたい人というものに、そういった要素は必要ないよ。大事なのはただ1つ、その人に惹かれているかどうかという事さ」

「っ・・・・ピュ、ピュルセさん。近いですよ・・・・・・あと、からかうような言葉はやめてください」

 至近距離からロゼにそう言われた影人は思わずロゼから顔を背けた。至近距離であるためか、ロゼからふわりとシャンプーのいい香りがする。影人の心臓の鼓動は色々な理由から少しだけ速くなっていた。

「おや、照れているのかい? ふふっ、君はこういう事にはあまり動じないと思っていたんだが、嬉しい誤算だ。どうだい? 前に提案したように、私と付き合ってみるというのは。存外に、私たちは相性がいいかもしれないよ」

「それは前にお断りしたでしょう・・・・・・すいませんが、今回もお断りしますよ。あの時から色々ありましたが・・・・・・俺の気持ちは変わってないので」

 どこか悪戯っぽい顔を浮かべるロゼに、影人は冷静さを取り戻しそう返答した。既に影人は恋愛感情を取り戻しているが、影人自身は恋人を作りたいとはまだ考えていなかった。

「それは残念だ。もしかしたらと思ったのだが。似たような事は前にも言ったが、でも私はいつでもウェルカムだから、その気になったら言ってくれたまえよ。よし、では帰ろうか。付き合ってもらった礼だ。自販機で飲み物をご馳走しよう」

 その答えを聞いたロゼはフッと笑うと影人から離れた。そして、影人にそう言ってきた。

「あざっす。ピュルセさん、いい女ですね。後これお返しします」

 影人は素直にロゼに感謝の言葉を述べるてな、自分の姿が描かれたキャンバスをロゼに返した。

「分かりやすい世辞だが、それでも君にそう言われるのは嬉しいね。ああ、よければこの絵プレゼントしようか? 私は正直、君を描けただけで満足だから」

「気持ちはありがたいですが、自分の絵なんていりませんよ」

「そうかい。なら、私が預かっておくよ」

 影人からキャンバスを受け取ったロゼは、ポケットに入れていたビニール袋を取り出すとそこにキャンバスを入れた。キャンバスは風洛高校にロゼがお邪魔し始めて以来何十枚か学校に寄付しているので、1枚くらい借りても大丈夫だ。ここを貸してくれた美術部の部長も、キャンバスは持って帰ってもらっても問題ないと言っていた。

「ピュルセさんはフランスには帰らないんですか? 一応、今日で目的は達成したでしょう」

 校舎の外に出た影人は、自販機からロゼに奢ってもらったオレンジジュースを取り出すとそんな質問をした。

「うーん、そうだね・・・・・・確かに、私が日本に来た目的は一応達成された。でも、一応なんだよ。私はまだ君の本質を描き切れていない。だから、それが描けるようになるまでは日本にいるかな。この国は居心地がいいし、その文化も美しい。私にとって刺激的だ。感性を磨くという点でも、この地は私に適しているんだよ」

「そうですか。それじゃ、まだしばらくはよろしくですね」

 オレンジジュースの蓋を開けた影人がスッとロゼに缶を差し出す。影人の仕草の意味を理解したロゼは、自分が持っていたブラックのホットコーヒーの缶をカンと影人の缶と軽く合わせた。

「そういう事だね。私からも質問を1ついいかな。帰城くん、私たちが再び戦う事を決めたように、君もスプリガンとして戦うのかい?」

「・・・・・・まあそうですね。今回の騒動を引き起こした奴と、俺は因縁があるんで。まあ、昨日そいつと戦って情けない事に向こう側・・・・異世界に逃しちまったんですが」

 もはや正体を知られているロゼに隠す事もないので、影人は素直に答えた。ソレイユから既に異世界とそこに生きる者たちの事を聞いていたロゼは、影人の言葉を理解し、その上で少し驚いた顔になった。

「ほう、それは・・・・・・予想以上の答えだよ。まさか、そこまで事態が進展していたとは。暗躍者である事は変わっていないようだね」

「まあ、そうですね。そこは変わってません。だから、俺はそいつと決着をつけるまでスプリガンのままです」

 オレンジジュースを飲み終えた影人は缶を缶入れに入れた。そして、ロゼに別れの言葉を述べた。

「じゃあ、俺はこれで。ご馳走さまでした」

「ああ、帰城くん。もう1つだけいいかい。君はどうしてそんなに戦えるんだい? 過酷極まる戦いに身を投じられるその気概はいったいどこから生まれてくるのだろう。よければ、教えてくれないだろうか」

 ロゼが影人に最後にそんな事を聞いて来た。突然ロゼにそんな事を聞かれた影人は少し押し黙った。

「・・・・・・理由はまあ色々ありますよ。今回の戦いや零無との戦いで言うなら、さっき言ったように因縁って言葉に集約されると思います。レイゼロールとの戦いの時は、最終的には約束のためでした。でも、俺が戦う根源は、いつも関係していた事は・・・・・・」

 そして、影人はロゼにこう答えを述べた。

「何でもない事ですよ。どこにでも転がっていそうな全く陳腐な理由。大切な人たちを、日常を守りたい。ただ、それだけです」

 影人はその場から去った。影人の答えを聞いたロゼは、

「いや・・・・・・実に素晴らしい理由だよ、帰城くん。君はどこまでも人間だ」

 笑みを浮かべそう独白した。












「・・・・・・言語化すると、我ながら陳腐な理由だよな」

 学校を出た影人は先ほどのロゼとの問答を思い出しながら、ポツリとそう呟いた。

「・・・・・・だがまあそれでいい。俺はただの人間だ。行動原理はちっぽけなくらいがちょうどいい」

 影人は改めて自身の戦う理由を自覚すると、フッと笑みを浮かべた。前髪野郎特有の気色悪い笑みを。

(そうだ。俺はそのためなら何でもできる。本当に何でも・・・・・・)

「ああ影人! 今日はいつもより36分と45秒遅かったね! 待ち遠しかったよ!」

 影人がそんな事を考えていると、零無が影人の前に現れた。

「お前は相変わらずだな・・・・・・ああ、そうだ。なあ零無。1つ質問なんだが・・・・・・」

 現れた零無に呆れた影人は、何気ない様子でこんな事を聞いた。


「向こう側の世界って、どうすれば行けるんだ?」

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