第289話 選択、少年は覚悟を決める

「な、何を・・・・・・いったい・・・・何を言ってるの? 零無お姉さん・・・・・・」

 零無から放たれた歪な愛の言葉。それを聞いた影人は、ただ戸惑い呆然とした顔でそう言葉を漏らした。愛してる。こんな状況でなければ、影人は間違いなく照れていただろう。

 だが、今の影人には零無のその言葉は全く響かなかった。むしろ、その言葉は、言いようの無い恐怖を影人に抱かせた。

「何を? 言葉通りの意味だぜ。吾はお前を愛している。誰にも渡したくないほどに。だから、これ以降はお前を逃がさない。お前はずっとずっと、吾と一緒に暮らすんだ。2人きりで」

 そんな影人に対し、零無は当たり前のようにそう言った。歪んだ愛がその言葉の端々から迸る。

「む、無理だよ・・・・・・俺には家族がいるし、お姉さんとはずっと一緒にはいられない」

 明らかに零無がいつもと違うという事を確信した影人が、先ほどよりも明確に恐怖を感じながら、その首を横に振った。

「それはダメだ。ダメだよ影人。そんな事は認められない。お前と吾がずっとずっと、2人で一緒にいる事は既に森羅万象の法則の1つとなった。ゆえに、お前の言い分は認められない」

「そんな、そんなの・・・・・・おかしいよ! 意味が分からない! そんな無茶苦茶な法則があるもんか! 零無お姉さんが言ってる事は、ただのデタラメだ!」

 零無の言葉に対し、遂に影人はそう吠えた。零無の言っている事は、子供の影人でも分かるくらいに無茶苦茶であった。

「デタラメであるものかよ。全ての存在の上である吾が決めた事だ。吾がそうと言えばそれが真理。逆に吾が嘘と言えばそれは嘘だ」

 だが、零無はゆっくりと首を横に振り、影人の言葉を否定した。これも、影人や他の人間が聞けば、間違いなく無茶苦茶であると断定出来るような理由で。

「っ・・・・・・そんな言葉は、そんな理由は! 偉そうだよ! 零無お姉さんは神様のつもりなの!?」

 あまりにもな零無の言葉。まだ傲慢という言葉を知らなかった影人は、零無をそう形容し言葉を放つ。影人の言葉は正しかった。何も間違ってはいなかった。

 少なくとも――では。

「神? いや、それ以上だよ。そこらの有象無象の神程度、吾と比べられる事すら烏滸がましい。ゆえに、吾は吾の思うままに、当然のように振る舞う。それが吾という存在であり、吾の特権であるからだ」

 零無が持ち出したのは、人の道理、神の道理すら超える、零無の道理。ただただ当然すらも超えた最上の道理。言葉通り、零無のみに許された道理であった。

「っ・・・・・・!?」

 影人は絶句した。そして、気がついてしまった。零無に人の道理は通じない。いや、いかなる道理も通じはしないのだと。

 そもそもが、影人と、いや人間と零無ではその存在が、次元が、思考が違いすぎるのだ。零無が今まで影人とコミニケーションを取れていたのは、ただの零無の気まぐれだったのだ。影人は多大なショックと、悲しみを抱きその事を理解させられてしまった。

「もう・・・・・・もう話は通じないんだね。俺の言葉は、零無お姉さんには届かない・・・・・・」

「何を異な事を。お前の言葉はしっかりと吾に届いているとも。何せ、吾が愛するお前の言葉だからね」

 諦め切ったように、絶望したようにそう呟いた影人に、零無は首を傾げた。

「そうじゃない・・・・・・そうじゃないんだよ・・・・・・俺の言っている事の意味は。っ・・・・・・」

 ここ2日間の零無との記憶が蘇る。たった2日。だが、零無と過ごした時間は既に影人にとって大切な思い出になっていた。それは楽しい思い出だ。

 しかし、もうその思い出のような関係には戻れない。影人と零無の関係は唐突に、あまりにも唐突に変わってしまった。影人はその事が悲しくて、悲しくて仕方なかった。

 そして、

「・・・・・・零無お姉さん。俺は家族の元に帰る。あそこが俺の帰るべき場所だから。だから、俺は零無お姉さんとは行かない。絶対に。止めても無駄だよ。零無お姉さんは幽霊。俺に触れる事は出来ないんだから。じゃあ・・・・・・バイバイ」

 影人はグッと涙を堪えながら、零無に決然とそう告げた。そして、零無に背を向けこの場から去ろうとした。

 だが、

「はあー・・・・・・まだ分からんかなぁ、影人。ダメだと言っているだろう。よし、分かった。そこまで言って分からないなら、吾が強制的に分からせてやろう。そうだな、まずは・・・・・・

 零無はそんな言葉を発したのだった。

「は・・・・・・・・・・・・?」

 あまりに自然と紡がれたその言葉に、影人は思わず零無の方を振り返り、呆然と立ち尽くした。何だ。いったい何を言っているのだ。

「よし、そうしよう。何、貴重ではあるが、残っている吾の力を使えば、人間数人くらい殺せるだろう。ふむ、そうとなれば善は急げというやつだ。影人、お前の家族は昨日訪れた部屋にいるかな? 少し待っていてくれ。すぐに奴らを殺して――」

「待って・・・・・・待ってよ・・・・・・待てよ!」

 笑顔を浮かべ狂気の言葉を述べる零無に、影人はそう言葉を割り込ませた。

「ん? どうしたんだい影人?」

「そんな事ダメに決まってるだろ!? 絶対に、絶対に! 俺の家族を殺すなんて! ねえ、やめてよ零無お姉さん! おかしいよ! 本当におかしいよ!」

 必死になりながら影人は自身の心のままの言葉を吐露した。

「吾だって、出来れば貴重な残りの力を使って人間風情を殺したくはないさ。もったいないからね。だがしかし、お前は奴らがいる限り、奴らの元に帰るのだろう? ならば、殺すしかないじゃないか」

「っ、だから・・・・・・!」

 しかし、今の零無にそんな言葉が通じるはずがない。軽く首を傾げる零無に、影人は泣きそうな顔を浮かべた。

「はあー、お前は強欲だな影人。吾と2人でいる事は嫌だといい、家族を殺すのも嫌だと言う。分かるかい影人。お前は、お前のような弱く儚い存在は――」

 零無はそこでスゥと目を細め、自身の気配を解放すると、冷たい声でこう言った。

「選べないんだよ。どちらもは。お前に残された道は2つだ。素直に吾と共に来るか。家族を殺されて、仕方なく吾の元に来るか。さあ選べよ影人。いい加減にな。でなければ、少し苛立って来たぜ」

「っ!?」

 瞬間、影人に尋常ならざる恐怖が襲い掛かった。その恐怖は零無と初めて会ったあの時と同じ、耐え難い恐怖であった。

「ひっ・・・・・・あ・・・・・・ああ・・・・・・!」

 影人の体が恐怖から震える。呼吸が乱れる。全身に鳥肌が立ち、冷や汗が止まらない。涙が生じ、地面へと落ちて行く。影人は地面に尻餅をついた。

「さあ、選べよ影人。どちらか、片方の選択肢を。最後に5秒だけ時間をやる。その間に決めろ」

 零無は恐怖に慄く影人を見つめると、カウントを始めた。

「1つ」

「う、ううっ・・・・・・!」

 影人は発狂してしまいそうになるほどの恐怖の中で、極限の選択を迫られた。

「2つ」

 カウントが更に進む。だが、こんな状況下でまともな判断がただの10歳の少年に、いや人間に出来るはずがなかった。

「3つ」

「うあ・・・・・・おえっ!」

 あまりの恐怖から影人は嘔吐いた。だが、カウントは無常にもただ進む。

「4つ」

 遂に残すカウントはあと1つ。影人はここで無理にでも選択しなければならなかった。

(お、俺は・・・・・・本当は、母さんや父さん、穂乃影たちと別れたくない。で、でも俺が行かなきゃ、俺の大切な家族たちは、零無お姉さんに殺される。ううっ、なら・・・・・・)

 極限の状況下において引き絞られた意識の中で影人はそう考える。

 そして、

「・・・・・・5――」

「わ、分かったよ・・・・・・! 一緒に・・・・・・零無お姉さんと一緒に行くよ!」

 影人は声を振り絞り、零無に自身の選択の答えを告げた。

「うん・・・・・・うん、そうかい! やはり、お前は賢い子だな影人! そうか、そうか。吾と一緒にいたいか! ふふふっ、いいだろう。ならば仕方ない。お前の家族は殺さないようにしよう!」

 影人の答えが放たれた瞬間、零無は今までとは一転、ニコニコと心の底から嬉しそうな笑みを浮かべた。次いで、零無から放たれていた恐怖が霧散する。零無が再び自身の気配を封じたのだ。

「ケホッケホッ・・・・・・はあ、はあ・・・・」

 恐怖から解放された影人は、まずは呼吸を整えた。あの恐怖だけは、絶対に慣れる事など出来ないだろう。

「ならば、行動はすぐにだ。さあ、影人。吾と共に行こう。なに、吾には色々と知り合いがいるから、食や寝床の心配はないよ。お前はずっとずっと、吾が守る。ふふっ、しかし最初はどこに行こうか? まるで新婚旅行ハネムーンの気分だ。そうか、そうか。人間たちはこんなに素晴らしい思いをしていたのだな」

 1人でウキウキと零無はそんな言葉を述べる。ようやく落ち着いてきた影人は、零無に対しこう言葉を掛けた。

「ま、待って零無お姉さん・・・・・・零無お姉さんとは一緒に行く。それはもういいよ。・・・・・・でも、もう少しだけ、もう少しだけ俺に時間をちょうだい。家族と別れる時間を・・・・」

「む?」

 影人は零無を見上げそう嘆願した。その言葉を聞いた零無は少しだけ顔を厳しくさせた。だが、

「まあ、いいだろう。人間は弱い。気持ちの整理というものは必要だろうしな」

 影人が自分と共に来る事に舞い上がっていたからか、零無は影人の嘆願に頷いた。

「そうだな・・・・・・制限時間は、明日の朝までとしよう。太陽が昇り始めて、人間共が本格的に活動し始める前。それまでに再びここに来なさい。もし来なければ・・・・・・分かっているね?」

 零無は約束の時間を定めると、少し冷たい目を再び影人に向けてきた。

「っ・・・・・・分かってる。逃げないよ。幽霊の零無お姉さんから逃げるなんて出来ないから」

 零無の言葉の意味を正確に理解していた影人は、頷きながらそう言った。逃げれば家族を殺す。零無はそう言っているのだ。

「うん、ならいいよ。では明日の朝までしばしの別れだ。吾は明日までに、お前と過ごすべき場所を見定めたり、準備したりして来るよ。じゃあね、影人。また明日」

 零無は影人に一方的にそう言うと、フッと煙のように影人の前から消え去った。昨日の夜のように。

「・・・・・・・・・・・・」

 零無が消え去った後、影人はしばらくの間、座ったまま顔を俯かせた。

 影人の運命は唐突に、あまりにも唐突に変わってしまった。














「・・・・・・ただいま」

 午後6時半過ぎ。神社から自分が宿泊する旅館の部屋に戻った影人は、家族にポツリとそう言った。

「おかえり。えらくギリギリだったわね」

「おかえり、影兄」

 影人が戻ると日奈美と穂乃影がそう声を掛けて来た。影人は出来るだけ普段と同じ声を心掛けながら、こう言葉を返す。

「ごめんごめん。でも、ちゃんと今回は夕食前には戻って来たしいいでしょ。それより、父さんは?」

「影仁は1階の休憩室よ。夕食前には戻って来るって言ってたけど、まだ戻って来てないのよね。影人、悪いけど影仁呼んできてくれない?」

「そうなの? まあ、分かったよ」

 日奈美にそう頼まれた影人は、再び部屋を出ようとした。だがその時、

「ああ、後・・・・・・何かあったの影人? あんた、何だか・・・・いつもより、少し辛そうに見えるわよ?」

「っ・・・・・・!?」

 日奈美がそんな事を言って来た。日奈美に背を向けていた影人は、その顔を驚愕に染めた。

(ああ・・・・・・やっぱり、母さんは俺の親だな。普通にしてるつもりでも、すぐに気づくんだ・・・・・・)

 本当ならば気づかれてはいけないはずなのに。だが、影人は日奈美が自分の内に閉じ込めていた悩みの一端に気がついてくれた事が、ただただ、ただただ素直に嬉しかった。

「・・・・・・いや、別に何でもないよ? もしかしたら、外に居すぎてちょっと疲れたからそう見えたんじゃない? 本当、俺は別に何ともないよ」

 しかし、零無の事を、自分が明日には家族と別れなければならないという事を、日奈美に言えるはずがない。影人は振り返り小さく笑みを浮かべた。その際、キュウと自身の胸が締め付けられた。

「そう? ならいいけど・・・・・・じゃ、お願いね」

「うん」

 日奈美はまだ少しだけ疑問を抱いている様子だったが、それ以上は深く言及しなかった。影人は日奈美の言葉に頷くと、影仁を迎えに行った。












「・・・・・・・・・・・・」

 そして、あっという間に時は過ぎ、時刻は午後11時を過ぎた。家族と過ごす最後の日。影人は家族と一緒に夕食を食べ風呂に入り、団欒の時を過ごし布団に入っていた。

(・・・・・・寝れないな。いや、寝れるわけないか・・・・)

 既に布団に入って体感30分は過ぎている。日奈美、影仁、穂乃影は既に寝入っており、寝息を立てている。だが、影人だけは一向に眠れなかった。それも当然だろう。影人は早朝にはここを去らなければならない。そして、2度と家族と会う事は叶わないのだ。

(・・・・・・どうして、どうしてこんな事になったのかな。俺は普通に家族と旅行に来ただけなのに。ああ、本当何でだろう・・・・・・)

 理由は分かっている。分かりきるほどに分かっている。あの時、影人が神社に行ったから。零無と出会ったから。零無と目を合わせてしまったから。それが全ての原因だ。

(何で俺だけに零無お姉さんは見えたんだろう。ああ、不思議だ。何で、何で俺なんだろう・・・・・・)

 今になって溢れて来るのはそんな思いだった。最初は嬉しかった。零無が幽霊と分かっても、幽霊と友達になれた事が。零無と過ごしたこの2日間は、本当に楽しかった。

 だが、今は真逆の思いだ。影人は零無と出会った事を、零無と友達になった事を激しく後悔していた。自分から友達になろうと言ったのに。不義理で独りよがりという見方もあるかもしれない。しかし、それが影人の偽らざる気持ちであった。

(・・・・・・嫌だ。嫌だな。母さんと父さん、穂乃影と永遠にお別れなんて。嫌だよ。もっと、もっともっと、みんなと一緒にいたいよ・・・・・・!)

 遂には我慢が出来ずに、布団の中で影人はポロポロと涙を流した。もう我慢の限界だった。影人のき止められていた思いは決壊した。

「う、ううっ・・・・・・」

 歯を食いしばり漏れる声を噛み殺す。だが、小さな呻き声が少し漏れた。それでも、影人は恐怖と悲しみに震える体を必死に制御しようとした。

 本来ならば今すぐにでも泣き叫びたいだろう。影人はまだ10歳の子供なのだから。

 普通ならば、とっくに泣き叫んでいてもおかしくはない。子供はもちろん、大人でさえも。だが、影人は必死に、必死にその自分の体には収めきれない思いを収めようとした。なぜならば、家族の命が懸かっているからだ。

 その夜は間違いなく影人にとって1番長い夜であった。長い長い、恐怖と悲しみに震え、涙を流す夜。おかしくなってしまいそうな、発狂してしまいそうな長い夜。いっそ、おかしくなってしまえればどれだけよかったか。だが、影人は狂えなかった。狂えば、最終的には大切な家族が死んでしまうから。

「・・・・・・」

 そうして、どれくらい時間が経ったのだろう。カーテン越しに、空が少しだけ明るくなり始めた時間。涙さえも枯れ果てた影人は、全てを諦め切ったような顔を浮かべていた。

(あと少ししたら行かなきゃ・・・・・・3人は俺がいなくても、きっと大丈夫だ。みんな優しいから、最初は悲しんでくれるだろうけど、母さんや父さん、穂乃影ならきっと3人で強く生きていける・・・・・・)

 自分1人欠けたくらいならば大丈夫だ。影人はむくりと体を起こし、未だに寝ている家族をジッと見つめた。目に、心に焼き付けるように。

(・・・・・・よし、もう大丈夫だ。未練は・・・・・・ない)

 そして、影人は布団から出ようとした。だがその時、影人の隣で寝ていた穂乃影がこんな言葉を漏らした。

「だめ・・・・・・行かないで、影兄・・・・・・」

「っ!?」

 穂乃影が漏らしたその言葉。それを聞いた影人がハッとした顔になる。まさか起きているのか。影人が驚きながら穂乃影を見る。だが、穂乃影はまだ眠ったままだった。どうやら、ただの寝言のようだ。影人はホッと安心したように息を吐いた。

(穂乃影・・・・・・)

 寝ている自分の妹。影人は愛しそうに、そっと、そっと右手で穂乃影の頬に触れた。穂乃影を起こさないくらいの力で。穂乃影の頬は当然の事ながら、温かった。

「ん・・・・・・」

 すると、穂乃影は笑みを浮かべた。その笑みは、恐怖と悲しみで疲弊し切った影人の心に暖かく染みた。

(・・・・・・・・・・・・ああ、そうだ)

 穂乃影の頬から手を引いた影人は、唐突に得心した。今までの自分の考えが間違っていた事を。

(家族は誰1人欠けちゃだめなんだ。母さんも、父さんも、穂乃影も、そして俺も。誰かが欠けた穴は一生塞がらない)

 分かっていたはずなのに。日奈美や影仁、穂乃影はもし影人が消えれば、一生の傷を心に負うだろう。その傷は決して癒える事はない。少なくとも、影人ならばそうなるだろう。

(そんな思いは、そんな傷は、俺は家族に負わせたくない。だったら、どうする? 答えは1つだ)

 零無をどうにかする。それだけが、唯一の道だ。その道の果てに、家族みんなが笑える結末がある。そのためには、覚悟を決めるしかない。


 すなわち、零無と戦う覚悟を。


(正直に言えば、零無お姉さんと・・・・・・いや、零無と戦う事は怖い。もし負けたら、俺と、俺の家族は殺されるかもしれない。でも、それでも・・・・・・)

 それしか、それしか道はないのだ。影人はもう気づいてしまった。先ほどまでの自分の考えが、ただの恐怖に負けた弱い自己犠牲の精神でしかなかった事に。未練はないと思ったが、本当は未練しかなかった事に。気づいてしまったのだ。

(・・・・・・やるしかない。俺はみんなと・・・・・・家族といるために零無と、あいつと戦う。そして、勝つ。もう大丈夫だ。穂乃影の笑顔が教えてくれたから。穂乃影の笑顔に勇気をもらったから。俺は一生、母さんと父さんの息子であるために、穂乃影の兄貴でいるために、覚悟を決める)

 先ほどまでの恐怖と悲しみが、嘘のようにスゥと鎮まっていく。むろん、それらが完全に消えたわけではない。だが充分に、いや十二分にそれらはコントロールできるレベルだ。

(幸いな事にアテはある。零無をどうにか出来るアテは。今の俺なら・・・・・・はずだ)

 代償も、命でない限りならば何だって支払ってみせる。影人は布団から出て立ち上がると、最後に自分の家族を見つめた。

 そして、

「・・・・・・行って来るよ。必ず・・・・戻って来るから」

 影人は小さな、小さな声でそう呟くと、襖を開け隣の部屋に出て、その部屋を出て、旅館を出た。

 零無と――戦うために。


 ――この日、影人は覚悟を決めた。そして、この日、帰城影人の精神は完成した。鋼をも超える精神を、影人は獲得した。

 生きるために、目的のために、必要とあるならば、心を道具のように使う精神を。恐怖を克服する精神を。何者にも動じない精神を。どんな状況でも絶対に諦めない精神を。

 本当ならば、人間が一生を懸けても獲得できるかも分からない精神。それを、影人はたった10歳で獲得してしまった。

 それは仕方がない事といえ、とても――とても悲しい事であった。

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