第284話 幽霊との問答

「・・・・・・・・・・・・」

 たまたま通り掛かり、中に入った神社。境内の大きな石に腰掛けていた、美しくも神々しい不思議な女性。その女性と目が合った影人は、女性の神秘的な透明の瞳から視線を外せなかった。まるで、魅入られたかのように。

「ふむ・・・・・・」

 影人に見つめられ、自身も影人の事を見つめていたその女は、どこか不思議そうな顔を浮かべた。そして、

「ふっ」

 女性はニコリと笑みを浮かべた。

「あ・・・・・・」

 その瞬間、影人は尋常ならざる。体は途端に震えが止まらず、影人は立っていられずに膝から地面に崩れ落ちた。半ズボンから覗く生足が参道の石畳に激突し、多少の痛みがあったが、そんな事すら気にならないほどの恐怖を、影人は感じていた。

「ひ、あ・・・・・・ああ・・・・・・!」

 唐突に生じた耐え難い恐怖。その恐怖はどんどんと急激に影人を蝕んでいく。呼吸が乱れる。冷や汗が止まらない。吐き気まで催して来た。両の目からは涙が止まらない。だが、それでも影人は女性の透明の瞳から目を離せない。

(な、何で・・・・・・あの人はただ笑ってるだけ。なのに、何でこんなに怖くて、怖くてたまらないんだ?)

 女性が笑った瞬間、影人は女性に今までの人生で1番の恐怖を感じていた。影人にはその意味が、理屈が分からない。ただ、どうしようもなく女性が怖く恐ろしい。

 この時の影人は、その恐怖の根源が何であるのか理解していなかったが、それは存在の格差から生じる恐怖であった。女性と影人の存在としての、生物としての、余りに違い過ぎる格の違い。普通に生きていれば、間違いなく出会わなかった圧倒的上位存在との邂逅。影人の生物としての本能がそれを無意識に察知し、特大の警告として影人に恐怖の感情を与えたのだ。

「おえっ・・・・・・! かはっ、げほっ・・・・・・」

 影人の本能は女から逃げるという選択を取らなかった。それは、逃げるという行為すらも死に直結すると影人の本能が判断したからだ。ただ動かずに恐怖が去るのを待つのみ。ゆえに、影人は動けなかった。だがその結果、影人は嘔吐えずき、呼吸困難に陥ってしまった。

「おや、やはり吾が見えているのか。吾の気配に当てられているからな。ふむ、ならば・・・・・・」

 参道の真ん中でのたうつ影人を見つめながら、女性はそんな言葉を漏らす。すると、次の瞬間、

「え・・・・・・?」

 今までの恐怖が嘘の如く、影人はピタリと女性に恐怖を感じなくなった。その結果、体の震えや冷や汗も止まり、呼吸も元に戻った。

「すまなかったな少年。なにせ、吾を見る事の出来る人間など非常に稀だからね。吾の気配をそのままに垂れ流してしまっていた。許してくれよ」

 影人がその事に驚いていると、女性が先ほどとは違う怖くはない笑みを浮かべながら、影人にそう言って来た。

「あ・・・・・・は、はい・・・・・・」

 女性にそう言われた影人は、未だにどこか呆然としながらも頷いた。影人の頷きを見た女性は、「うん、いい子だ」と言って微笑んだ。

「しかし、なぜ君には吾の姿が見えるのかな。普通、人間は吾を見る事など出来ないはずなんだが・・・・・・興味が湧いた。見れる範囲で、少し見てみるか」

 女性はそう呟くと、ジッと影人を見つめて来た。次の瞬間、女性の透明の瞳に一瞬だけ、ほんの一瞬だけ小さな光が宿った。

「ほう・・・・・・なるほど。本質が闇なのか。これはまた珍しい。普通、人間の本質は光のはずだが・・・・・・ふむ、それが吾を見る事が出来た理由か。神々の加護から外れているために、理の外の存在を見る事が出来る・・・・・・ははっ、面白いじゃないか」

 女は1人でに納得したようにそう呟くと、笑い声を上げた。そして、ニヤニヤとした顔を浮かべながら、影人にこう聞いて来た。

「少年、君の名前は?」

「お、俺の名前・・・・・・? え、影人・・・・・・帰城影人・・・・・・」

 女に名前を尋ねられた影人は、素直に女に自身の名前を答えた。学校では、知らない人に名前を教えないようにと教えられていたが、女に嘘をついたり、答えたりしないのは、なぜだかしてはいけないように影人には感じられた。

「なるほど、影人か。じゃあ、影人。こっちにおいで。少し話をしようじゃないか」

「う、うん・・・・・・」

 女が手招きをして影人を呼ぶ。女に呼ばれた影人は戸惑いを覚えながらも、女が座っている大きな石の方へと近づいて行った。

「あの・・・・・・お姉さんは、いったい・・・・・・何者なの?」

 大石に近づいた影人は女にそう聞いた。既に女に恐怖を抱いていなかったがゆえに、影人はそんな質問をする事が出来た。

「ふむ、吾に何者であるか尋ねるか。ふふっ、人間にそう聞かれたのは初めてだな。いいだろう、特別に吾が何者なのかお前に教えてやろう」

 女は影人の質問に軽く笑みを浮かべると、こう言葉を続けた。

「吾はぜろなる始原にして、たる終わりの権化。唯一絶対なるうつろの存在だよ」

「・・・・・・?」

 女が影人に自身が何者であるのかを告げる。だが、女の答えを聞いた影人は、意味が分からないといった感じの顔を浮かべた。

「ごめんなさい、俺にはよく分からないや・・・・・・お姉さん、名前はないの?」

「名前? 名前か・・・・・・そうだな。追放される前の吾には『空』という名前があったが、今は奴ら真界の神々の内の誰かが『空』に就いているだろうし・・・・・・言われてみれば、今の吾に名前はないな」

 影人の問いかけに、結局女はそう答えた。

「だが、吾に名前など不要だぜ少年。吾は全ての存在の頂点に立つ存在。何者も吾を縛る事は出来ない。名前でさえもな。吾は全てから自由なのさ」

「そう・・・・なの・・・・・・?」

「ああ、そうなのさ」

 不思議そうな顔を浮かべる影人に女は頷いた。

「ふーん・・・・・・じゃあ、お姉さんはお姉さんって呼ぶしかないんだね」

「まあ、そうだな。今の吾に固有の名詞はないから。いいだろう、そう呼ばれてやるさ」

 女が影人に許可を与える。その言葉を受けた影人は女にこう言った。

「じゃあ、お姉さん。お姉さんはここで何してるの? 休憩?」

 たった1人で、夕暮れの神社で靴も履かずにいる女。そんな女に疑問を抱かない影人ではなかった。影人の言葉を聞いた女は「ん、そうだな。休憩みたいなものだよ」と言って頷いた。

「そうなんだ。じゃあ、靴は無くしちゃったの? 靴がないとお家には帰れないでしょ。早く何とかした方がいいよ」

「靴? ははっ、吾にそんな物は不要だよ。それに、吾には帰る家などない。いや、まあ家と称す事の出来る場所はあったが、吾はそこを追放されたからな」

「え・・・・・・? お姉さん、家から追い出されちゃったの・・・・・・? それは・・・・・・悲しかったね。ごめんなさい、そんな事を聞いて・・・・・・」

 女のその答えを聞いた影人は、申し訳なさそうな顔を浮かべた。影人のその顔と謝罪の言葉に、女は不思議そうな顔になる。

「んん? なぜそんな顔をして吾に謝る? 確かに、吾を追放した奴らに思うところはあるが、悲しいとは思わないぜ、吾は」

「そうなの・・・・・・? 俺がお姉さんの立場だったら、凄く悲しいけどな。俺はたまに家族とケンカして、家族が嫌いになる事もあるけど・・・・・・それでも、結局は家族が好きだから」

 影人は素直な自分の気持ちを女に吐露した。日奈美や影仁、それに穂乃影。影人は普段は恥ずかしくて言えないが、自分の家族が大好きだ。だから、もし自分がそんな家族から追い出されたりしたら、嫌われたりしたら、影人は絶望して死ぬかもしれない。

「家族、ね。少年、少し難しいかもしれないが、吾に家族はいないし、いらないんだよ。家族とは、弱者が群れをなし、自身の生きた証を残す、残そうとするものだ。吾は最初から完成された個体。吾以外に吾はいない。だから、悲しいとかそんな感情は感じた事はないよ」

「? ごめん、やっぱりお姉さんの言う事は難し過ぎてよく分からないや。・・・・・・でも、お姉さんに家族がいないのは、やっぱり寂しいと思う。だから・・・・・・」

 影人はそう言うと、スッと女に右手を向けた。そして、不思議そうな顔を浮かべている女に、こう言葉を続けた。

「俺と友達にならない? 家族の代わりにはなれないけど、それでも友達がいれば少しは寂しくないって思えるから。知ってるお姉さん? 友達って暖かいんだよ。楽しい時に側にいればもっと楽しいし、孤独な時に居てくれれば、気分も晴れてくる。心の中で繋がってる気持ちになれるんだ」

 影人は小さな笑みを浮かべた。少しだけ恥ずかしそうに。それは、最近思っている事を素直に言葉にするのが、何故だか恥ずかしくなってきたからだった。

「もちろん、迷惑なら断ってくれても全然いい。俺の提案が厚かましくて、不快だったのなら謝るよ。でも、もしそうじゃなかったら・・・・・・どうかな?」

 チラリと女の神秘的な透明の瞳を、自身の黒い瞳で見つめながら、影人はそう聞いた。影人の言葉を受けた女は、なぜかしばらく呆気に取られたような顔を浮かべ、

「ふ、ははっ・・・・・・はははははははははははははははははははははっ! 人間が吾と友に、並び立つ存在になりたいというのか! おいおい、今まで吾にそんな事を言う奴はいなかったぞ!? 真界の神々ですらな! それを、人間が・・・・・・くくっ、はははははは! お前は面白い事を言うな、少年!」

 突然、大笑いした。まるで、おかしくてたまらないといった感じで。急に笑い始めた女に影人は戸惑った。

「な、何・・・・・・? 俺、そんなにおかしい事言ったかな・・・・・・?」

「おかしいさ! おかしいが、まあ理解はあるよ。君はまだ吾をと思っているようだからね。だが、しかし・・・・・・くくっ、人が吾と友にか」

 女は尚も笑いながらそう言った。普通、人間などという女からしてみれば下等な存在が、女と友達になりたいなどと申し出る。それ自体が、とんでもない不敬だ。もし女が不機嫌であったのならば、自身の重圧を再び解放して影人に罰を与えていたかもしれない。

 だが、今の女にとって影人の申し出は愉快な思いの方が強かった。ゆえに、女は影人に罰を与える事はしなかった。

 そして、あまつさえ、

「いいだろう! 少年、特別に吾はお前と友になろう! 吾に真っ直ぐに、純粋にそう言える精神が気に入った。光栄に思え。吾と友になった人間など、唯一無二の例外。全ての世界が開闢して以来の一大事だ!」

 女は影人の提案に頷いた。

「え、いいの・・・・・・? 正直、今の感じだと俺断られると思ってたけど・・・・・・」

 頷いた女に、影人は意外そうな顔になる。そんな影人に女は再び頷く。

「普通なら、間違いなく断ってるぜ。だが、何だかな。少年、君は面白い。吾を見れる事もそうだが、吾に先ほどまで恐怖を覚えていたのに、今は吾と友達にならないかという。しかも、それは恐怖からの提案ではなく、少しの哀れみと善意からの提案だ。吾にそんな思いを抱ける。そこが気に入った」

「そうなんだ・・・・・・じゃあ、これからよろしくね、お姉さん。友達なんだから、俺の事は影人って呼んで」

 改めて、影人はそう言って女に再び右手を差し出す。笑みを浮かべながら。

「ああ、分かったよ。よろしく頼むぜ、影人」

 女は笑みを浮かべ影人の名前を呼ぶと、左手で影人の右手に触れようとした。友人となる握手が交わされる。そして――


 女の左手がスッと影人の右手を通過した。


「え・・・・・・?」

 その現象に、影人は素っ頓狂な声を漏らす。何かの間違いだろうと思い、影人は自分から女の手を握ろうとした。だが、起きる現象は先ほどと同じだ。影人は女の手に触れる事は出来ない。まるで、ホログラムに触れようとするかのように。霧に触れようとするかのように。幽霊にでも触れようとするかのように。

「え、あ・・・・・・お、お姉さん。これって・・・・・・」

 影人が訳が分からないといった顔を浮かべながら、女の顔を見つめる。女は影人の戸惑いに変わらずに笑みを浮かべ続けると、こう言った。

「今起きた現象が全てだよ。影人、吾はお前に触れられないし、お前は吾に触れられない。吾には肉体がないからな。今の吾はただの精神体。つまるところ、この世界で言う――」

 女が言葉を紡ごうとしている時だった。突然、静かな神社内にこんな声が響いた。

「おーい影人! いるかー?」

「ッ、父さん・・・・・・?」

 影人が聞き覚えのある声に、その声のする方、鳥居の方に振り返る。すると、そこには影人の父親である影仁の姿があった。影仁はすぐに大きな石の近くにいた影人を見つけると、安堵の表情を浮かべた。

「影人! はー、よかったぜ。影人、もうすぐに夕食の時間だ。お前夕食の時間までには戻るって言ってただろ? だっていうのに、中々帰ってこないもんだから、俺が来たってわけだ。まあ、旅行で気持ちがはしゃぐのは分かるが、約束は守れよ。みんな軽く心配したんだからさ」

「あ、ごめん・・・・・・時間の事、忘れてた」

 影仁は参道の真ん中で立ち止まると、影人にそう言ってきた。影仁にそう言われた影人は、素直に謝罪の言葉を述べた。

「あ、あのさ父さん。ここにいる女の人と友達になったんだ。でも、変なんだよ。何でか、触れないんだ」

 影人が石の上に座る女を指差しながら、影仁にそう訴える。だが、影人の言葉を聞いた影仁は不思議そうな顔を浮かべ、

「女の人? すまん、俺にはお前が何を言ってるのか分からない。だって、そこには1じゃないか」

 そう言った。

「・・・・・・・・・・・・え?」

 影仁の言葉の意味が、影人にはまるで分からなかった。影人がその顔を再び女の方に向ける。そこには確かに女の姿がある。影仁にはこの女の姿が見えないのだろうか。

「じょ、冗談だろ父さん? だって、ちゃんとここにいるじゃないか。髪と目が透明の、凄く綺麗な女の人が」

「? いや、悪い。冗談とかじゃなくて、マジで分からん。え、お前が冗談言ってるんじゃないのか?」

 影人はどこか焦ったようにそう言うが、影仁は真面目な顔でそう言ってくるだけだった。影仁の言葉が嘘ではないと分かった影人は、サッと体が冷えたのを感じた。

「え、俺にしか見えてない・・・・・・? お、お姉さんはいったい・・・・・・」

 その現象に対する少しの気味悪さと、自身の理解を超える出来事から、影人は呆然とした顔で女を見つめた。

「さっき言おうとしたんだがな。あの言葉の続きを言おう。影人、吾はこの世界で言う、のようなものだ。だから、普通の人間には吾は見えないし、吾の言葉も聞こえない。吾は、だ」

「っ!?」

 どこか超然とした笑みでそう言った女。女のその答えを聞いた影人は衝撃を受けた。

「そ、そんな・・・・それじゃあ、今まで俺は・・・・・・」

 幽霊と問答をしていたのか。影人があまりの衝撃から立ちすくんでいると、影仁が心配そうな顔を浮かべ影人にこう言ってきた。

「影人? お前・・・・・・大丈夫か? 気分が悪いなら医者に行くか?」

「い、いや大丈夫。・・・・・・ごめん、ちょっと暑さでやられてたみたい。もう大丈夫だから」

 取り敢えず、驚きから無理やりに立ち直った影人は、影仁にそう言った。影人の言葉を聞いた影仁は軽く目を見開いた。

「そうなのか? まあ、これだけ暑いんじゃな・・・・・・早く涼しいところに、旅館に戻ろうぜ」

「う、うん」

 影人は頷くと、影仁の方に歩き始めた。そして、途中でチラリと女がいる石の方に振り返る。すると、女は笑みを浮かべながら影人に右手を振っていた。

「取り敢えず、さらばだ。また会おうぜ、影人。吾の唯一の友よ」

「っ・・・・・・うん。またね」

 そう言って見送ってくれた女に、影人は小さな声でそう言うと小さく手を振り返した。確かに、女が幽霊だと言った時には衝撃を受けたが、影人には女が悪い幽霊ではないような気がした。

「お待たせ、父さん。行こう」

「おう」

 そして、影人は影仁と共に神社を後にして、旅館へと戻った。


 ――この日、影人は初めて幽霊の友達を得たのだった。

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