第282話 昔日の帰城家

「――よし、旅行に行こう!」

 始まりはそんな声だった。とある夏の日、正確には8月半ばの水曜日の夜。家族で食卓を囲んでいる時に、唐突にその男――帰城きじょう影仁かげひとはそう言った。ボサボサの髪に人懐っこいような顔。現在35歳のその男は、楽しそうな顔を浮かべていた。

「・・・・・・は? いきなり何言ってるんだよ、父さん」

 影仁のその言葉に、そう言葉を返したのは1人の少年だった。髪の長さは少し長いくらいで、前髪も標準よりは少し長い。だが、そこから覗く顔は整っており、綺麗な顔立ちをしていた。現在10歳、あと数ヶ月で11歳になるその少年――影仁の息子、帰城影人はどこか呆れたような顔を浮かべた。

「子供じゃないんだから、突拍子もない事を急に言うのやめろよな。本当、恥ずかしいぜ」

「オーマイガー、どうしよう日奈美ひなみさん・・・・・・息子がすっげぇ厳しい・・・・・・」

 影人にそう言われた影仁は、自分の隣に座っている女性――影仁の妻であり、影人の母親である帰城日奈美に軽く泣きついた。

「ちょっと、鬱陶しいわよ影仁。いまご飯食べてるの。邪魔しないで。あと、いつも言ってるでしょ、ベタベタして来ないでって。全く、次やったら蹴るから」

 影仁に泣きつかれた日奈美は、ムッとした顔でそう言葉を返した。ボブくらいの長さの黒髪に、整った顔立ちは、スマートな美人そのもので、現在34歳だが、まだ20代半ばくらいにしか見えない。明るくばっさりとした性格で、思った事ははっきりと言うタイプだ。それは当然、夫である影仁も例外ではなかった。

 ちなみに、影人の整った顔立ちは母親の日奈美譲りである。影人の顔は母親似だった。

「オー、愛する妻まで・・・・・・ううっ、普通に泣くぜ。どうしよう穂乃影、2人が俺に凄く厳しいんだ!」

 明らかに嘘泣きだが、影仁は影人の隣に座っている少女――自分の娘である帰城穂乃影にそう言った。

「・・・・・・え? 私は旅行凄く楽しみだけど・・・・・・どこに行く気なの? お父さん」

 黙々とご飯を食べていた穂乃影は、影仁にそう言葉を返した。現在9歳、小学4年生。長い黒髪のこちらも綺麗な顔立ちだ。ただし、影人や日奈美とは少し違う感じだった。

「あー! 穂乃影は素直で可愛いなもう! さすが俺の自慢の娘! 冷たい妻と息子とは大違いだ! ああ、いいよ! 教えよう! 旅行の行き先は――!」

 穂乃影にそう聞かれた影仁は、嬉しそうな顔を浮かべながら旅行の行き先を述べようとした。だが、その行き先を述べる前に、

「誰が冷たい妻よ」

「何か腹立つ」

 日奈美と影人が影仁の脛を蹴った。影人は真っ直ぐに、日奈美は横から。2人の蹴りは影仁の左の脛に二重の衝撃と痛みを与えた。

「痛っ!? ちょ、普通に痛いって! やめてよね!?」

「うるさい。影仁がいらない事言うからでしょ。自業自得よ」

「母さんの言う通りだ。名誉毀損は犯罪だぜ。テレビでやってた。俺は名誉を毀損された。だから、蹴り入れた。それだけだ」

 痛がる影仁に、日奈美と影人は素っ気なくそう言った。2人からそう言われた影仁は、「いやー、マジで泣きそう・・・・・・」と言葉を漏らした。

「というか、本当に旅行に行く気かよ? 母さんは知ってたの?」

「うん、一応ね。ちょうど私が週末に3日間お盆休み取れたから、どこかに行こうって事になったの。ほら、今年はあんた達も夏休みに入ってから、まだどこにも連れて行ってやれてないでしょ」

 影人の問いかけに日奈美は頷くと、こう言葉を続けた。

「で、せっかくだったら久しぶりの旅行はどうだって、影仁が言ったのよ。私はまあいいけど、あんた達の意見も聞かなきゃだからさ。それが最初の言葉ってわけ。まあ、決めつけた言い方してたのはちょっと腹立ったけどね」

「ふーん、そういう事か・・・・・・」

 日奈美の説明を聞いた影人は納得したようにそう呟いた。

「で、結局行き先はどこにしようって考えてるんだよ父さん。行くか行かないかはまだ決めないけど、取り敢えず教えてくれ」

 豆腐とお揚げの味噌汁を啜り、影人は影仁にそう質問した。ちなみに、今日の帰城家の夕ご飯は、白ごはんに、豆腐とお揚げの味噌汁、そして豚の生姜焼きというメニューだった。作ったのは影仁だ。帰城家の食事当番は、日奈美と影仁の交代制なのだ。

「えー、お前さっき俺に冷たかったじゃん。普通に教えたくないんだけど」

「何で拗ねてるんだよ・・・・・・はー、本当ガキみてえ・・・・・・分かったよ、さっきはごめん。だから、教えてくれよ」

 唇を尖らせた影仁に、影人は仕方なくそう言った。全く、これではどちらが子供か分かったものではない。

「ふっ、いいぜ。俺は大人だから許してやる。よーし、影人に穂乃影。聞いて驚け、俺が旅行の行き先に計画してる所は・・・・・・」

 影仁は一瞬気持ち悪い笑みを浮かべると、言葉をため、その場所の名前を告げた。

「なんと、京都だ! 夏の古都! 美しい街並みに神社仏閣! 観光する場所は盛り沢山! 定番ではあるが、言い換えれば旅行先の王道! 家族で一夏の思い出いっぱい作っちゃおうぜ!」

 急にハイテンションになった影仁に、影人は若干引いたような顔を浮かべた。本当にこの人は大人で自分の父親なのか。情緒はいったいどうなっているのだろうか。

「京都か・・・・・・取り敢えず、母さんと穂乃影はどう思ってる? 賛成か反対か」

「私はまあ賛成ね。京都って何だかんだ高校の修学旅行以来行ってないし。あの時はただ友達とはしゃいでただけだけど、今行くと違った見方も出来るでしょうしね」

「私は正直どこでもいい。旅行自体が楽しみだから」

 影人の質問に、日奈美と穂乃影はそう答えた。なるほど。つまり、2人とも賛成というわけか。

「母さんと穂乃影が賛成なら、俺も反対はしないけど・・・・・・でも父さん、旅行の代金はどうするつもりなんだよ。正直、父さんの稼ぎで旅行に行けるとは思えないんだけど」 

 影人は疑うような目を影仁に向けた。影仁の仕事は、いわゆる都市伝説や不思議系を扱う雑誌のライターで、稼ぎは正直少ない。そのため、帰城家の家計の殆どは、大手モデル雑誌などの編集者である日奈美の稼ぎで賄われている。いま影人たちが住んでいるこの2階建ての一軒家の家賃も、日奈美が全て払っている形だ。そのため、影仁にはいわゆる甲斐性はない。その事を知っていた影人は、疑問を抱きそう聞いたのだった。

「うぐっ・・・・・・いやまあ、父さんだって貯蓄してるお金は多少あるからさ。だから、それ使って・・・・」

「心配しなくても大丈夫よ影人。旅行代金は、私の夏のボーナス使うから。そもそも、影仁には金銭面の事は期待してないし。だから、お土産とかだけ買ってもらいなさい。穂乃影もね」

 どこか引き攣ったような顔で答えを返そうとする影仁だったが、日奈美がばっさりと横からそう言った。

「ちょ日奈美さん!? 俺だって旅行代金の何割かくらいは出せるよ!?」

「何割かなんて逆にいらないわよ。私が全額出してあげるから、影仁はいま私が言ったみたいに2人にお土産とかを買ってあげなさい」

「いや、それはもちろん買うけど、その父親としてのカケラばかりの威厳が・・・・・・」

「あんたにはカケラばかりの威厳もないでしょ。影人も穂乃影もその事はとっくに分かってるんだから、見苦しいわよ」

「え!?」

 日奈美の言葉に驚きとショックを受ける影仁。そんな影仁に、影人と穂乃影はこう言った。

「何を今更」

「お父さんが甲斐性なし? って事なのは知ってる」

「この歳の子供たちにそう思われてるのかよ俺・・・・・・ダメだ。今日は泣いて寝るしかねえ・・・・」

 その言葉を聞いた影仁は、今日1番のショックを受けた。ガクリと肩を落とす影仁を見ながら、影人はこう言葉を放った。

「別に父さんの甲斐性について、これ以上とやかくは言わないけど・・・・・・母さんはよく父さんと結婚したね。母さんなら、もっといい人と結婚も出来ただろうに」

 影人は最近になって抱いた疑問を口にした。正直、日奈美と影仁はあまり釣り合ってはいない気がする。日奈美は美人で仕事も出来て頼り甲斐もあったりと、息子の影人から見ても素晴らしい女性だと思う。

 対して、影仁はごく普通の容姿に、仕事もいつも締め切りに追われている。性格も優しいが、頼り甲斐はあまりない。なのに、なぜ日奈美は影仁と結婚したのか。影人にはその辺りがよく分からなかった。

「まあ、一言で言えば惚れた弱みってやつよ。私が影仁を好きになっちゃったから。確かに、影仁はしっかりしてないし経済力もないわ。性格も子供っぽいし、すぐにベタベタしてこようとするし。正直、ちょっとウザい」

「うっ・・・・・・」

 日奈美の容赦のない言葉に、影仁は更に落ち込んだように肩身を狭くした。

「でも、こう見えていざって時は格好いいのよ。それに凄く優しい。だから、影仁と結婚した事、全く後悔してないわ。金なんて、私が稼げばいいだけよ。それに、影仁と結婚してなかったら、あなた達とも出会えなかったしね」

「へえ、そうなんだ・・・・・・母さん、やっぱり漢気あるな」

「お母さん、格好いい」

 軽く笑いながらそう言った日奈美。日奈美の言葉を聞いた影人と穂乃影はそんな言葉を漏らした。

「ふふん、そうでしょ? 見てなさい。いつか編集長になって、今にもっと稼いで――」

 日奈美が言葉を紡ごうとすると、突然隣で落ち込んでいたはずの影仁が日奈美に抱き着いた。

「あー! さすが日奈美さん! もう大好き! 普通に惚れ直した! うへへ、俺やっぱり幸せ者だぜ!」

 先ほどまでの落ち込み具合はどこへやら。影仁は満面の笑みを浮かべていた。

「きゃっ! ちょっと影仁! あんた、次やったら蹴るって言ったわよね!? このッ!」 

 急に影仁に抱きつかれた日奈美は驚いたような顔を浮かべた。そして次の瞬間には怒った顔になり、右足で再び影仁の脛を蹴った。

「痛っ!? ひ、ひでえよ日奈美さん! 俺はただ感情が爆発しただけなのに!」

 蹴られた影仁は日奈美から飛び退くと、情けない顔でそんな言葉を述べた。

「いい大人がそんなにすぐ感情爆発させるんじゃないわよ! 本当、バカでアホなんだから!」

 日奈美は怒った顔でそう言うと、両手を合わせ「ごちそうさまでした!」と言って立ち上がると、食器を台所の流しに持って行った。

「じゃあ、みんな賛成って事で金曜日から京都に旅行に行くわよ! 私は残ってる仕事あるから部屋に戻るから!」

 日奈美は3人にそう言うと、書斎のドアを開けてリビングから姿を消した。

「・・・・・・はあー、父さん、後で母さんにちゃんと謝っとけよ。母さん、けっこうマジで怒ってたぜ」

「あ、うん・・・・・・」

 ため息を吐きながらそう言った影人の言葉に、影仁はしょんぼりとした顔を浮かべ頷いた。

 こうして、帰城家は週末に京都に旅行に行く事が決まったのだった。












「おーい! もう行くぞ影人。早く来いよ!」

 そして2日後。よく晴れた金曜日の午前8時過ぎ。帰城家は京都に旅行に行くべく、出発しようとしていた。既に日奈美と穂乃影は車の中に荷物と共に乗り込んでいる。後は影人と影仁が車に乗るだけだ。だが、影人はまだ2階の自分の部屋から降りて来ていない。影仁は玄関から影人を呼んだ。

「分かってるって。今行くから」

 影人は階下にいる父親にそう言葉を返すと、リュックサックのファスナーを閉め、それを背負った。そして、階段を降りて玄関へと向かう。

「えらく遅かったな。旅行先に持って行くオモチャの選別でもしてたのか?」

「別に。遅れてごめん。ほら、行こうぜ父さん」

 影仁の言葉に、靴を履きながらそう答えた影人は玄関を出た。影仁は、「ははっ、照れ隠しかよ」と笑って影人の後に続いた。そして、玄関のドアを閉めると鍵を掛けた。そして、影人は車の後部座席に、影仁は運転席へと乗り込む。

「遅かったわね。まあ、まだ全然新幹線の時間には間に合うからいいけど」

「ごめん。ちょっと荷物の整理し過ぎた」

 影人と影仁が車に乗り込むと、助手席に座っていた日奈美がそんな事を言って来た。日奈美の言葉に影人はそう返事をした。

「ようし、じゃ行くか! 帰城家みんなでの旅行に! いやー旅行なんてマジで久しぶりだから、俺すっげえ楽しみだぜ!」

 シートベルトをした影仁は、興奮したようにそう言うと車を発進させた。影仁の様子はまるで子供そのものだ。

「本当、ガキみてえ・・・・・・」

「全く、相変わらず感情が豊かね」

「ふふっ、お父さんらしい」

 そんな影仁を見た影人、日奈美、穂乃影はそんな反応を示した。影人と日奈美はいつも通りどこか呆れたような顔を浮かべ、穂乃影は面白そうに笑った。

「でもまあ、私も楽しみよ。久しぶりの旅行。美味い物食べて、美味い酒を呑んで、日頃のストレスを発散しまくってやるわ」

「おー、その勢いだぜ日奈美さん! 影人と穂乃影もしっかり楽しもうな!」

「分かってるよ。多少の非日常だ。できる範囲で精一杯に、色々と経験するさ」

 影人は普段と変わらない様子で影仁にそう言葉を返した。まだ10歳だというのに、どこか子供らしからぬ態度。よく言えばクールで、悪く言えば可愛げの無い感じだ。その態度と容姿から、実は密かに学校の女子から人気があるのだが、影人本人は今のところ女子に興味がないのでその事を知らない。

 まあ実は、影人のこの態度はクールな方が格好いいという、余りにも早すぎる厨二病発症の症状なのだが、その事を知っているのは、幸か不幸か今のところ誰もいなかった。

影兄えいにい

「ん? 何だ穂乃影」

 車が道路を走り影人が窓の外を見ていると、隣に座っていた穂乃影が呼びかけてきた。影人は穂乃影の方に顔を向けた。

「旅行楽しみだね。影兄、いっぱいいっぱい遊ぼうね」

 影人が顔を向けると、穂乃影はニコリと笑みを浮かべながらそう言って来た。穂乃影にそう言われた影人は、

「・・・・・・ああ、そうだな。いっぱい遊ぼう」

 自身も笑みを浮かべながら、そう言葉を返した。


 ――それは、どこにでもある幸せそうな家族の姿。楽しい旅行に行き、旅の思い出を重ね、何事もなく帰って来る。この時は、誰もそんな未来を疑っていなかった。


 ――この旅行が、まさか1旅行になるとは、誰も考えてすらいなかった。

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