第135話 兄としての問い

「――なあ、妹よ。そう言えば、いつからお前は俺の事『あなた』って他人行儀に呼ぶようになったっけ?」

 8月23日木曜日、午後3時過ぎ。影人がスプリガンとして、穂乃影に問いかけを行った翌日。自宅のリビングのテレビの前に座っていた影人は、リビングのイスに座って雑誌を読んでいた穂乃影に、唐突にそんな言葉を掛けた。

「・・・・・・・・なに? 藪から棒に・・・・」

 影人の言葉を受けた穂乃影は見ていた雑誌から視線を上げると、影人の方に訝しげな顔を向けた。

「いや、深い意味はねえよ。単純に暇つぶしがてらの兄妹間の会話の話題だ。いつからお前は俺の事、影兄えいにいって呼ばなくなったっけかなーってよ」 

 影人は本当に気まぐれ、といった感じで軽い笑みを浮かべる。影人は何気ない会話という事を、穂乃影に意識させた。

「・・・・・別にどうでもいいでしょ。あなたの呼び名なんて」

「まあまあ、そう言うなって。俺もいつからか、お前のことを妹とかお前としか呼んでないだろ? 俺の場合はたぶん高校に入るか入らないかくらいからそう呼んでるが、それは気恥ずかしさみたいなやつがあったからだ。今でも気恥ずかしさはあると思う。ったく、厄介な年頃だよな」

 ふいと顔を背けてしまった穂乃影に、影人は少しウザめの兄を演じながら、そんな話をした。影人の話を耳にしていた穂乃影は、軽く息を吐きながら言葉を紡ぐ。

「・・・・・それを言うなら、私だって気恥ずかしさから。高校生にもなって、昔みたいな呼び方はしたくはないだけ」

 穂乃影の理由は影人と同じものだった。しかし、穂乃影が影人の事を他人行儀に呼ぶ本当の理由は、それではなかった。いや、確かに気恥ずかしさもあったので、完全に嘘という事ではないが。

「まあそうだよな。それが普通だ。だがしかし、お前の兄としてはいささか寂しいのもまた事実だ。そこで、1つ提案がある。1回だけ、また俺のこと『影兄』って呼んでくれよ」

 影人は少し苦笑しながら穂乃影の言葉に頷いた。だが、ここで素直に引き下がる訳にはいかない。影人は続けてウザめの兄を演じながら、穂乃影に向かって格好をつけた笑みを浮かべた。

「はあ・・・・・? あなた頭は大丈夫? 何か変な物でも食べたの?」

 当然、と言っては前髪が深刻な精神ダメージを受けるかもしれないが、穂乃影は引いたような顔になった。いつもどこか変な兄ではあるが、今日はいつもよりもかなり変である。

「・・・・・・・嫌。私は断固として拒否する。私は絶対に――」 

「なあ、頼むよ。

 断ろうとする穂乃影に、影人は穂乃影の名を呼んで再度願った。

「ッ・・・・・・!?」

 影人から、自分の兄から久しぶりに名前を呼ばれた穂乃影は、つい驚いたような表情を浮かべた。

「って、やっぱり気恥ずかしいもんだな。ただお前の名前を呼んだだけなのに。でも・・・・妹の名前を呼ぶの気恥ずかしがってたら、兄ちゃん失格だよな。よし、これからはちゃんとお前の事、また名前で呼ぶようにするぜ、穂乃影」

 驚いた表情を浮かべる穂乃影をよそに、影人は恥ずかしそうに頭を掻く。この言葉も、この表情も、嘘ではない。影人は本気でそう言ったのだ。

「だから、お願いだ。1回だけ、また昔みたいに呼んでくれよ。一生のお願いだからさ」

 影人は自分に出来る範囲で、最大限優しそうに笑う。柄ではない。こんな笑顔も、こんな言葉を吐くのも、自分の柄ではない。自分を客観的に見てもそう思う。

(だが知った事じゃねえ。こいつが抱えてるものを少しでも、ほんの少しでも軽減してやれるなら、俺は何だってやってやる。らしくない事でも本気でやるだけだ)

 影人は昨日スプリガンとして、穂乃影に問いかけを行った。そして影人は、穂乃影が抱えてるいる気持ちを知った。

 穂乃影は何故だか知っていたのだ。自分が兄と母親と呼んでいた者たちと、事に。本来ならば、自分たちの母親が穂乃影が20歳になったら伝えようとしていた事。それを穂乃影はいつの間か知っていた。

 そして穂乃影は、いつからかそんな自分の事を思い悩んでいたのだろう。部外者だから。資格がない。これらの昨日穂乃影が言った言葉の中に、穂乃影の底知れぬ、果てしない苦悩の一端がある。穂乃影が影人の事を「あなた」と呼ぶようになったのは、血の繋がっていない影人の事を兄と呼ぶのはどうなのか、そう穂乃影が考えたからだろう。

 しかし、影人はあえて穂乃影に自分の事を兄と呼ばせようとした。それは影人が穂乃影の兄であるという事を、穂乃影に認めさせるためだ。

(血の繋がりがなんだ。お前は俺の妹だ、穂乃影。母さんだって、お前の事は娘だと思ってる。お前が心の奥底で抱いてる気持ちも、お前が光導姫として戦ってる事も、それは・・・・・本来いらねえものなんだ。そんなものは、くだらねえんだ・・・・・!)

 穂乃影が抱いてる気持ちは、影人には分からない。血の繋がりがないという事が、どれほどの苦悩なのか自分には分からない。穂乃影のどうしようもない葛藤を、影人は分かってやれない。

 だが、それでも敢えて影人はそんな言葉を心の中で吐き捨てた。穂乃影の気持ちを無視するかのように、妹の心をないがしろにするかのように。

(血なんか関係ないんだ穂乃影。俺たちは家族だ。家族に資格なんていらない。部外者なんていない。何でお前にはそれが分からない・・・・・・・!)

 家族の愛を舐めるな。つまるところ、影人がくだらないと吐き捨てた理由はそんなものであった。

「い、意味がわからない・・・・・・何でそんな事を・・・・・・・」

 しかし当然、影人が内心で呟いた事など穂乃影には届かない。影人の言葉を聞いた穂乃影はたじろいだだけだった。

「頼む! この通りだ!」

 影人はパンと両手を合わせ、穂乃影に向かって頭を下げた。穂乃影になぜ自分が急にこんな事をするのかの理由を言うわけにはいかない。「お前が自分の事を血の繋がっていない家族と知っていて、葛藤していても、そんな葛藤は必要ない。それを証明してやる」なんてバカ正直には話せない。言えば穂乃影は、昨日のスプリガンの事と自分の事に疑問を抱くに決まっているからだ。 

 だから影人は、何気ない気まぐれといった感じで、バカな兄として、穂乃影に接するのだ。今のところ、全ての事情を話して穂乃影の葛藤を完全に無くしてやる事は無理に等しい。

 でもせめて、せめて少しでもその葛藤を和らげさせたい。それが影人の心からの思いだ。

「な、何度言われたって私は・・・・・・・」

 自分に頭を下げてくる影人。なぜ影人はいきなりこんなお願いを自分にしてきたのだろうか。やはり、この人の行動は訳がわからない。

 正直、これだけお願いしているのだから、普通ならばその願いを聞いてやればいいだけかもしれない。穂乃影は一言、兄に向かって影兄と呼べばいいだけだ。それだけで、この少しウザったらしい兄は満足するだろう。

(でも、私にこの人の事を面と向かって兄と呼ぶ資格なんて・・・・・・・・・)

 だが、穂乃影の場合は少し事情が違う。穂乃影は影人と血が繋がっていない事を知っている。つまり穂乃影は、血縁的には本当の影人の妹ではないのだ。

 穂乃影がその事を知ったのは、中学2年の夏の事。真夜中にふと目が覚め、飲み物を取りにリビングのドアを開けようとした時に、母親と当時中学3年生だった影人が話している事がふとリビングから聞こえて来たのだ。

 それは穂乃影についての話だった。穂乃影にいつ、穂乃影が本当は自分たちとは血の繋がっていないという事を話すべきか、というものであった。

 その話を聞いてしまった穂乃影は愕然とした。その場から動けずに、ただただ立ちすくんだ。穂乃影の内面では、まるで自分が立っていた揺るぎない場所が、ガラガラと音を立てて崩壊していくような感覚があった。

 それからの事はあまり覚えていない。何でも穂乃影は、影人の母親の親戚の夫婦の子供であったらしいが、その夫婦が不慮の事故で亡くなったために、その事故で唯一生き残った当時1歳だった穂乃影が帰城家に引き取られる事になった。という話まで聞いた事は覚えているが、それ以上の記憶はない。ついでに言えば、穂乃影の本当の両親の記憶も、穂乃影にはなかった。

 それからだ。穂乃影が影人の事を兄と呼ばなくなったのは。穂乃影は気がついてしまったのだ。自分が影人の事を兄と呼ぶ資格がないことに。

 そんな自分が頼まれたからと言って、また影人の事を兄と呼ぶのはどうなのか。それが穂乃影が影人のお願いを渋っている理由だった。

「マジで頼む! 本当にお願いだから! 一生の一生のお願いだ! 聞いてくれなきゃ、ずっと頭下げ続けて同じ事を言い続けるぞ!」

「ちょ、ちょっと迷惑だし怖いからやめてよ・・・・・・・!」

 しかし、そんな穂乃影の内心を知らない影人は、ただ頭を下げ続けてそう言い続けるだけだった。穂乃影はそんな影人に、慌てたような顔になる。本当の妹でなくても、穂乃影は影人とずっと一緒に暮らして来た。穂乃影が影人の願いを聞かない限り、影人は本当にこのまま頭を下げ続け同じ事を言い続けるだろう。穂乃影にはその事が容易に想像できる。

「わ、分かった。分かったから、頭を上げて・・・・・!」

 だから、つい穂乃影は影人の言葉を了承してしまった。このままでは埒があかないと思ってしまったから。

「本当か!? んじゃ、頼むぜ穂乃影!」

 影人は嬉しそうに笑いながら顔を上げ、穂乃影にサムズアップした。殊更に嬉しそうに、殊更にバカ兄っぽく振る舞う事も忘れない。

「あ・・・・・う、うう・・・・・・」

 そして、ついつい影人の願いを了承してしまった穂乃影は、後悔したように顔を俯かせるのだった。

「さあ、言ってくれ我が妹よ! 俺のことを影兄と!」

 急かすように影人は穂乃影に声を掛け続ける。ここで引いてしまっては、穂乃影は絶対に自分の事を影兄とは呼ばないだろう。畳み掛けるなら、今しかない。

「さあさあさあさあ!」

「う、うるさい! 分かったから・・・・・!」

 穂乃影は顔を上げて、煽ってくる影人に普段よりも大きな声でそう言った。顔を上げたその顔はどこか赤かった。

「・・・・・・・・・え・・・・・」

 穂乃影は顔を赤くさせながら、消え入りそうな声で一言そう呟いた。そして意を決したように、穂乃影はその言葉を口にした。


「影兄・・・・・・・・・・・・」


 恥ずかしさの余り、穂乃影はギュッと両目を閉じて、あの日以来影人に対して呼んでいなかった呼び名を呼んだのだった。

 穂乃影にそう呼ばれた影人は、

「おう、そうだそうだ! 俺はお前の兄ちゃんだぜ。いやー、ひっさしぶりにそう呼ばれたが、嬉しいもんだな。ありがとうよ、穂乃影」

 嬉しそうに屈託なく笑うのだった。

「ッ・・・・・・」

 影人の反応を見た穂乃影は無意識に、衝撃を受けたような顔をしていた。

「いやー、嬉しすぎて何だかハイになっちまった。穂乃影、俺ちょっくらコンビニ行って高いアイス買ってくるわ。頑張ってくれた妹には、ちゃんとご褒美あげないとだからよ。じゃあな、行ってくる!」

「え? あ、ちょっと・・・・・・!」

 影人は突然立ち上がりそう言うと、リビングから出て行った。穂乃影が声を掛ける暇もなく。

 10数秒後、玄関のドアが開けられる音がした。どうやら本当にコンビニに行ったようだ。

「何なの、全く・・・・・・・・・・・」

 1人になった穂乃影は少し疲れた顔になり、ため息を吐いた。本当に、あの人が考えている事は分からない。やはりどれだけ客観的に見ても、影人は変人の部類に入るだろう。それだけは間違いない。

(でも・・・・・・・・久しぶりに影兄って呼んだな。それに、あの人本当に嬉しそうな顔してたし・・・・・・)

 自分には影人の事を兄と呼ぶ資格がない。穂乃影はそう思っていた。だが、先ほど影人は穂乃影に兄と呼ばれて嬉しそうな顔をしていた。あの顔は嘘ではない。穂乃影にはそれが分かる。

「・・・・・・・・・・私は、あなたの妹でいいのかな? 影兄・・・・・・」

 先ほどの影人の反応を思い出しながら、穂乃影はそう呟いた。前髪が異常に長く、少し変人な兄。普段は多少ウザったかったり、どうかと思う事もある人だが、穂乃影にとっては間違いなく大切な人だ。

「・・・・・・ふふっ。でもそんな事を聞いたら、さっきみたいに笑って肯定してくれそうなのが、頭に浮かぶ」

 穂乃影はつい小さく笑っていた。穂乃影の脳内には、先ほどの影人の姿が鮮明に残っている。穂乃影がそのような問いを投げかければ、影人は格好をつけた笑みを浮かべながら、「愚問だな。愚問に過ぎるぜ」とか言いそうだ。

「もしかしたら・・・・・・・・・私の考えとか思いは、ちっぽけなのかもしれない」

 穂乃影は少しだけ晴れやかな笑みを浮かべる。もちろん、穂乃影の抱いている「血の繋がり」という葛藤が全て消えたわけではないし、これからも穂乃影はこの葛藤を抱き続けていくと思う。

 だが、なぜだかその葛藤が今は少し軽減されたように穂乃影には思えた。認めるのは少し癪だが、影人のおかげだろうか。

「とりあえず・・・・・高いアイスは楽しみ」

 穂乃影は少し軽くなった心で、影人の帰りを待つのだった。












「ふぅー・・・・・・・・とりあえず、こんなもんか?」

 財布を持って家の外に出た影人は、息を吐きながらそう自問した。その様子は、先ほどのウザっための兄とはまるで違い、普通の様子そのものだ。

「あいつからしてみりゃ、死ぬほどウザかったろうな・・・・・だがしかし、必要な振る舞いだった。そのおかげで、穂乃影から影兄って言葉も引き出せたしな」

 許せ穂乃影と心の中で謝罪する。穂乃影の口から兄と呼ばせる。それが影人の目的だった。 

「・・・・・・・・あれだけ兄だ妹と言っときゃ、嫌でもその事は意識するだろ。当たり前だが、口に出さなきゃ伝わらないしな」

 マンションの構内を歩きながら影人はそう呟く。穂乃影との会話の中で、影人は兄や妹という単語をかなり多く言葉にした。それは、穂乃影が影人の妹であり、影人が穂乃影の兄であるという当たり前の事を伝えたかったからだ。

「・・・・・悪いな穂乃影。今の俺に出来るのはこれくらいだ。いつかはお前の事情にも触れて、真正面から家族だって伝えてやる。それまでは・・・・・・俺がお前の事を見守る」

 穂乃影は光導姫。影人はスプリガンだ。幸い、影人にはいざとなれば穂乃影を助ける事の出来る力がある。穂乃影が光導姫の仕事を続ける限り、影人は穂乃影を影から見守り続ける。

「・・・・・・・・ソレイユには、穂乃影が危険になったら教えてもらうとするか。完全に私的だが、まあそこは仕方ねえだろ」

 もちろん本業の仕事を抜かるつもりはさらさらない。スプリガンの役割も、怪人としての振る舞いも影人はこれまで通りにするつもりだ。ただ、そこに仕事を1つ追加しようというだけである。

「・・・・・・スプリガンを続ける理由が、1つ増えちまったな」

 マンションのエントランスから灼熱の太陽照る世界に出た影人は、フッとした笑みを浮かべコンビニを目指すのだった。

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