第89話 聖女帰国
「・・・・・・・・・聖女サマはやっと今日でヴァチカンに帰国か。長かったようで短かったな」
7月20日、土曜の午前10時。自分の部屋のベッドに腰掛けながら、影人は癖である独り言を呟いた。
一応、今日から影人は夏休みということになる。ファレルナが来日していた期間の間に、風洛高校の期末テストは終了していた。今回はまともにテストを受けたが、ある程度勉強したおかげで赤点は取らずにすんだ。とりあえず、補習はなしなので一安心だ。
まあ、そのぶん普通に夏休みの宿題は各教科から出されたし、今年の夏は担任の教師の家の倉掃除が確定している。更に今年の影人はスプリガンとしての役目も果たさなければならない。全く以てどこが休みだというのか。
「・・・・・・とりあえず、俺からすれば1つ肩の荷が下りたってとこだな。なんか知らんが、あの聖女サマえげつない勘してたし」
そう。先ほど呟いたように、今日で『聖女』ファレルナ・マリア・ミュルセールはヴァチカン市国へと帰国する。日本にはちょうど1週間の滞在であった。
影人からしてみれば、ファレルナが国に帰ってくれるのは嬉しいことだ。影人は月曜日の夜に、スプリガンとしてファレルナに接触した。そこで、ファレルナについて分かったことは色々とあったが、その1つがファレルナの異様に冴える勘であった。
(ソレイユも言ってたように、俺の正体がバレるってことは絶対にないんだろうが・・・・・・なーんか、あの聖女サマはふとした拍子に気づきそうで恐いんだよな。底知れなさがあるっていうか)
自分は正体がバレるようなヘマはしていないはずだし、スプリガン状態は究極の偽装形態。ファレルナにバレるはずはない。しかし、もしかしたらあの少女ならば気がつくかも知れない、そう思わせる何かがファレルナにはあった。
ゆえに、そんな影人にとっての危険人物が日本から去るというのは、一安心というかホッとした気分だ。日本にはいないという事実が影人の気を楽にさせる。なにぶん、あの少女の行動は常人には理解が及ばない所があるので、日本にいればまた影人と会いかねない。そうなれば、明らかに面倒な事態になることは目に見えている。
(・・・・・・・俺にとってはメディアの中の人間で、苦手な部類の有名人。それが聖女サマに対する評価だったはずだったのにな。何の因果か、プライベートで関わっちまったし、スプリガンとしても関わった。その結果、俺の聖女サマに対する評価は多少なりとも変わった)
ここ数日の間の記憶を呼び起こしながら、影人は胸中でそんな事を思った。ファレルナの事が苦手という気持ちに変わりは無い。いや、もしかすれば勘のことなどもあり、むしろもっと苦手になったかもしれない。
しかし、聖女の覚悟、胆力などを実際に見聞きした影人は、ファレルナという少女に一種の尊敬の念を覚えた。命の掛かっている状況で、あの少女は恐怖に支配されることもなく、堂々と受け答えし己を示した。もし逆の状況ならば、自分はあそこまで出来るだろうか。いや、きっとあそこまで堂々と出来ない。確実に焦りや恐怖の色が多少なりとも漏れるだろう。
「まあだが、あれは見習えるもんじゃねえしな・・・・・・・」
ドサッと背中からベッドに倒れ込みながら、そう呟く。見習えるものならあの胆力を見習いたいものだが、自分には無理だろう。なにせ、自分は普通の人間だ。というか、ただの10代のクソガキ。ファレルナが異常なだけであって、精神の強さは普通それほど強くはない。
だいたい影人がこんな事を思えば、イヴが茶々を入れてくるものなのだが、今は自分の部屋ということもあって、ペンデュラムは学校の鞄の内に仕舞っている。黒い宝石状態のイヴとの念話をするためには、ペンデュラムから半径1メートル以内にいなければならないので、今回イヴの声は影人には届かなかった。
「・・・・・・暇だな。確か聖女サマが帰るのは13時くらいだったか。こっから空港まで大体2時間半くらい。・・・・・・・・・ちょっくら外に出るのも悪くはねえか」
再びガバリと体を起こした影人は部屋の時計に視線を向けた。もちろん、直接会おうなどという事は考えていない。ただ、ヴァチカン政府専用の飛行機を実際に見てみるのもいいかと思っただけである。
先ほどはどこが休みだと思ったものだが、なんだかんだ夏休みという事に変わりはない。なら、普段と違う事をするのも醍醐味の1つだろう。
「とりあえず準備だな。ええと、水筒とタオルと財布と後は――」
影人はまず寝巻きから外出用の服に着替えるべく、タンスを開けた。
「聖女様は今日で帰っちゃうのかー・・・・・・・なんだか一瞬だったね」
「そうね、聖女フィーバーな1週間だったわ。経済バカみたいに潤ったんじゃないかしら」
「相変わらずコメントがズレてるね明夜・・・・・・」
現在の時刻は午前11時過ぎ。影人と同じく夏休み期間に突入した陽華と明夜は、喫茶店「しえら」にいた。夏休みという事もあり、2人とも私服姿である。
「とりあえずこの後空港行くけど、聖女様気づいてくれるかしら?」
黒と青色のTシャツに7部丈のズボンを履いた明夜が、アイスティーをストローで啜る。その問いに陽華はこう答えた。
「それよか空港内に入りきれるか、前列辺りに行けるかの問題があるよ。まずこの2つの問題をクリアしないと、そこまでいけないから」
ピンク色のTシャツに白の薄い羽織、膝より少し上くらいのスカートを履いた陽華が、昼のランチを食べながら左の指を2本立てる。お昼ご飯にはまだ少し早い時間ではあるが、陽華は腹ペコ大食らい系少女なので、我慢が出来ずランチを食している。ちなみに今日のメニューは、ミニサラダにスパゲティナポリタンである。
「確かにそうね・・・・・・」
陽華の言葉に明夜は頷いた。言わずもがな、ファレルナのファン或いは信者は日本にもいる。その人物たちは間違いなく、ファレルナが出国する空港に行くはずだ。
「ま、そこはラッキーを期待しましょ。それより、あと5分くらいしたら出るから、ちょっと急いでね」
「分かってるよ。あと二口で終わりだし大丈夫」
陽華が残り少しとなっていたナポリタンを美味しそうに平らげた。水で喉を潤し、ペーパーで口を拭う。
「ぷはー、ごちそうさまでした! めちゃ美味かったです、しえらさん!」
「・・・・・うん、よかった。また来て」
美味しい物を食べた陽華は、いつもより2割り増し輝いた笑顔でしえらに礼を述べた。しえらはいつもの様に、少しだけ口角を上げた。
「それじゃ行くわよ陽華。ごちそうさまでした、しえらさん」
「ごちそうさまでしたー!」
2人はそれぞれ自分の注文した物の代金を支払うと、喫茶店「しえら」を後にした。
「聖女様、そろそろお時間です。これから空港へと向かいます」
「分かりましたアンナさん。では、行きましょうか」
アンナの言葉に、ファレルナは笑みを浮かべて豪華な装飾のされているイスから立ち上がった。ここは、日本政府からファレルナに割り当てられた最高級クラスのホテル。そのスイートルームの一室だ。
「荷物は全て車の方に運んでいますので、どうぞそのままで。では、車までご案内します」
アンナが部屋のドアを開ける。念のため素早く周囲を見渡し、何か危険がないかを探したが問題なさそうである。
「・・・・・・・・・・」
アンナとファレルナが廊下に出ると、部屋の前で待機していたSPのスキンヘッドの男性、ジーノとその他複数のSP達が素早くファレルナの周囲を固めた。アンナ、ファレルナ、SPの者たちはエレベーターの前まで移動した。
「なんだか日本に滞在していたのは、一瞬だったような気がしますね。きっとそれほどに楽しく、有意義な時間だったのでしょうけれど」
「・・・・・・・そうですね。確かに一瞬だった気がします」
エレベーター内でファレルナが呟いた言葉に、アンナはどう答えていいか分からず、とりあえずそう言葉を返した。どう返しても恐れ多い気がしたからだ。
「・・・・・・出来る事ならば、またあのお兄さんに会いたかったですね。もう1度、しっかりとお礼を言いたかったです」
「それは・・・・・・・難しいですね。我々はあの少年の見た目こそ知っていても、それ以外には名前も何も知らないですから」
ポツリとファレルナの漏らしたその言葉に、アンナが言葉通り難しそうな顔でそう言った。ファレルナを会場まで送り届けてくれた、あの前髪の長い少年の情報を自分たちは何も知らない。そして時間的にも、もうあの少年と会う事はどちらにしても不可能だ。
「・・・・・・影人」
「え・・・・・・・・?」
「・・・・・確か帰城影人という名前だったと思います。私が彼に色々と聞いていた時に、名を尋ねましたので」
疑問の声を上げたファレルナに、ファレルナの左横についていたジーノがその名前を教えた。
「影人・・・・・帰城影人さん。それが、あのお兄さんの名前・・・・・・・・・」
自分を助けてくれた少年の、影人の名前を知ったファレルナがその言葉を
そしてそんな間に、エレベーターが1階のロビーへとたどり着いた。ホテルの従業員たちがファレルナを待っていたかのように頭を下げる。SPたちに周囲を警護されているファレルナは、その従業員たちに軽く頭を下げながら、ホテルの目の前に停まっている車に乗った。アンナはファレルナと一緒の車に、SPたちはその前後に停まっている車に乗る。
「・・・・・・・アンナさん、また日本に来る事もあるでしょうか?」
「・・・・・・・・私はただの修道女です。ですから、聖女様がまた日本を訪問するかどうかは知りませんし、分かりません。それをお決めになるのは、教皇様ですから。・・・・・・・・・・ですが、今回の日本への訪問は大成功だったと思います。ファレルナ様のおかげで、神の教えに関心を持った人々も少なくはないでしょうから。だから、その・・・・・・また日本を訪れる機会もあるのではないかと私は思います」
ところどころ言葉を選ぶように、探すようにアンナは隣に座るファレルナに言葉を述べた。アンナ個人の意見をファレルナに述べるのは、恐れ多いとは思ったが、ここは自分の意見を言った方がいいのではないか、となぜか思ったのだ。
「やっぱり、アンナさんは優しいです。ありがとうございます、アンナさん。アンナさんがいてくれたから、私は日本で楽しく過ごせました」
「っ!? も、もったいないお言葉です・・・・・・」
その言葉を聞き、ファレルナの笑顔を見たアンナは、自分の感情をコントロールし切れず、思わず顔を背けてしまった。
そんなアンナを微笑ましく思いながら、ファレルナは窓の外に視線を移す。窓の外に映る景色は、高層の建物やこの国特有の民家などだ。自分の国とは違う、外国の景色。
(お兄さんに、朝宮さんに月下さん。風音さんにアイティレさん。それにその他多くの日本の皆さん。思えば、色々な人たちと触れ合えた1週間でした)
それぞれの人々の顔を思い出しながら、ファレルナは思いを馳せた。いずれの人々も自分に素敵な異国での思い出をくれた。しかし、ファレルナには忘れられない人物があと1人だけいる。
(そして、スプリガンさん・・・・・・・・あの人の綺麗な金の瞳には、なぜか暖かさを感じました)
唐突として出現した正体不明・目的不明の怪人。4日前の月曜日の夜、ファレルナはその人物と出会った。
客観的に見れば、ファレルナはスプリガンに脅された。抵抗する素振り、嘘をつけば、殺すとスプリガンは言い、質問をファレルナに行ってきた。
第3者がファレルナの話を聞いたならば、スプリガンの事を冷酷な卑怯者と言うかもしれない。しかし、ファレルナはそうは思わなかった。
(確かに、あの人は一見すると冷酷な態度でした。言葉には冷たさと本気を感じた。ですが、あの人は約束を守ってくれた。それに・・・・・あの人は笑った。あの笑みに冷たさは感じなかった)
ファレルナはスプリガンの事を敵とは思っていなかった。スプリガンと会った今でも、そう思っている。確証はなにもない。強いて言うなら、ファレルナの勘がスプリガンは敵ではないと言っているだけだ。
(・・・・・・・・・・不思議です。私はあなたの金色の瞳を、どうしても忘れられない)
あの金色の瞳。本人の纏っている衣装と相まって、ファレルナはスプリガンの事を「夜の闇のような人物」だと思った。黒色の衣は闇、金色の瞳は月だ。夜の闇には月が伴うものだから。それにファレルナが感じた優しさ。夜の闇は人々に安らぎを与えてくれる。その安らぎのような優しさを、ファレルナはスプリガンに感じた。
空港につくまでファレルナは、あの金色の瞳の怪人の事ばかりを考えていた。
「あ、明夜! 聖女様来たよ!」
「ぐっ、ちょ、ちょっと待って。人がギュウギュウ過ぎて・・・・・・よし、何とかポジどり成功。あ、本当ね」
とある空港内。多すぎる人混みの中、ファレルナの見送りにやって来た陽華と明夜は、何とか最前列にポジションを取ることに成功した。これでファレルナに気がついてもらえる可能性が多いに高まった。
陽華が指摘した通り、ファレルナ本人は空港の入り口に姿を現した。ファレルナの直線上は綺麗に空いていて、その左右に押しかけたファレルナのファンやテレビ局のカメラなどがいる。ファレルナが日本にやって来た時と同じ形だ。
周囲を警護に固められたファレルナは、カメラやファンの人々ににこやかに手を振りながら、歩を進めて行く。
「聖女様ー! 色々とありがとうございましたー! また日本に来てくださいねー!」
「お達者でー! マジでサインありがとうございましたー! 家宝にしてます! また来てくださいねー!」
空港内は喧騒に包まれていたので、2人は声を張り上げてそう言った。ついでに、手をこれほどかというほどに振る。
「あ、お2人とも。見送りに来てくださったんですね! ありがとうございます」
陽華と明夜の前を通りがかったファレルナが、パタパタと軽く手を振った。ファレルナはその立場上立ち止まれなかったので、短い言葉とその仕草だけになってしまったが、2人からしてみればそれで十分過ぎるくらいだった。
ファレルナはそのまま周囲の人々に笑顔を浮かべ続け、手を振りながら進んでいった。
「ふう、何とかお別れの言葉言えた・・・・・・じゃあ、明夜帰ろっか。せっかくだからこの近くのどっか寄って行く?」
「うーん、そうね・・・・・しばらくこっちら辺は来ることないだろうから、どっか寄って行きましょうか。あ、でも明日からしばらく私遊べないからね陽華。部活あるから」
「りょーかい。それじゃあ今日はとことん遊んじゃお! 夏休み初日、遊びまくるぞー!」
そんな事を話し合いながら、2人はガヤガヤとした空港内を後にするべく移動し始めた。
それから15分後、ファレルナを乗せた政府専用機は大空へと飛び立った。
「・・・・・・・・・行ったか」
青く澄んだ夏の空へと飛び立って行く飛行機を見つめながら、影人はポツリと言葉を漏らした。
いま影人がいる場所は飛行機の発着場その近くだ。空港内は人が多過ぎたし、ファレルナに気がつかれる可能性もゼロではなかったので、影人は外にいる事を選択した。
「あばよ、聖女サマ。出来れば2度と日本には来てくれるな。・・・・・・面倒事はごめんだからな」
飛行機の姿が徐々に小さくなっていく。影人は夏の日差しに前髪の下から目を細めつつ、そう呟いた。
「・・・・・・・・・・・帰るか。ついでに昼飯をどっかで食って行こう」
もうここにいる理由もない。影人は適当な食事処を探すべく歩き始めた。
だがファレルナの来日は、これから起こる様々な出来事の前触れでしかなかった。後に影人はそう思うことになる。しかし、今の影人は何も知らない。それは当然だ。未来のことなど、誰にも分かりはしないのだから。
影人にとって、波乱の夏休みが幕を開けた。
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