第55話 触れてはならぬモノ

「くくっ、俺の望みね。なんだ? さっきの1つしか分からなかったんじゃないのか?」

「ありゃ言葉の綾だ。お前の望みは俺には分からん。だから教えてくれよ。もしかしたら、お互いの望みが釣り合う、いい落とし所が見つかるかもしれないしな」

 穏やかにあくまで平和的な姿勢を影人は取った。もし悪意の望みが受けいられるものであるなら、そこで話は終わる。そして、影人としてはその結果が最も望ましいものだった。

「まあ、いいぜ。教えてやる。――俺の望みは、完璧に。帰城影人」

「っ・・・・・・・・!」

 悪意がその望みを口にした瞬間、影人は悪意の底知れぬ欲望と自分に対する敵意を感じた。

「なあ、お前の体を俺にくれよ。本能が訴えてくんだよ、全部を壊せってな。で、俺の欲望を満たすためにはお前という自我が邪魔だ。だからおとなしく消えてくれよ? ほら、俺の望みは教えてやったぜ。落とし所は見つかったか?」

(こいつ・・・・・・!)

 悪意の望みは影人としては到底受け入れられないものだった。悪意の望みを受け入れたとすれば、影人という自我は完全にこの世界から姿を消してしまう。そして悪意の言葉通りなら、悪意は自分の体を完璧に乗っ取った時、全てを、おそらくは人間も見境なく壊す。それだけは絶対に避けなければならない。

(ちっ、終わってやがる! この交渉に落とし所なんてありゃしねえ・・・・・! 交渉に乗ってくる可能性は低いとは思ってたが、予想の下を行きやがったッ!)

 こうなれば、悪意と影人は純粋にどちらかが滅ぶまで戦い続けるしかない。それは「力」の手段。そして、影人が必要なら取ろうと思っていた方法でもあった。

「くくくっ! ねえよなぁ、落とし所なんて! お前も腹ん中では色々考えてたみたいだが、結局はこうなるんだよ! 分かってただろ!?」

「・・・・・・やっぱり、てめえは紛れも無い悪意か!」

「そうさッ! 何を今更ッ!」

 影人がベンチから立ち上がり距離を取ろうとする。悪意もどこか狂気を含んだ笑みを浮かべ、影人から距離を取った。

「帰城影人! 今ここでてめぇの意識を殺してやるッ! そんでお前の体を貰うぜ!」

「やらねえし俺は死なん! 大人しく俺と共存しやがれッ!!」

「そいつは無理だぁ!」

 悪意の周囲の空間が歪み、そこから闇色の鎖が複数出現した。闇色のびょう付きの鎖は、当然ながら影人へと狙いを定めていた。

 その力はまるでスプリガンの振るう闇の力そのものであった。

「ちっ・・・・・・!」

 舌打ちをしながら、影人はその鎖を避ける。影人の体(といっても仮初の肉体だが)は、さながらスプリガン時のように身体能力が凄まじいものになっていた。でなければ、今の鎖は普段の影人では避ける事など出来るはずがない。

「ああ? ちっ、身体能力の主導権はそっちってわけだ。『力』は当然こっちだが・・・・・・・・乖離してるってわけか。しゃらくせえ」

 悪意の言葉は一見すると意味不明。だが、悪意の正体を知っている影人は、ここが精神世界という特殊な場所であることを加味して悪意の言わんとしていることを察した。

(スプリガンとしての身体能力は俺側に持ち込めたが、能力は悪意の方に分離してるってわけか。まだましだが、圧倒的に不利なのは俺だな。つーか、現実じゃない精神世界ここでの勝利条件はどうなるんだ?)

 突発的に開始されたこの戦いの状況を影人は冷静に分析した。現在の影人にはスプリガンの身体能力がある。だが、力は使えない。、それは分かる事だ。

 そして、影人とは対照的に悪意はスプリガンの闇の力が使える。だが、先ほどの言葉から考えるに、身体能力は通常の人間と変わらないはずだ。しかし、この状況は影人が圧倒時に不利だ。

 なぜなら、悪意の闇の力は全てに対応出来る力。影人には未だにできない身体能力の常態的強化も、回復も無詠唱も、悪意にはそれが使える。ゆえに、影人のスプリガン時の身体能力はないよりはましだが、大きなアドバンテージにはなり得ないのだ。

「おい悪意! これだけは教えろ! この世界での戦いの勝ち負けはどうやって着けるんだ!?」

 それだけは結局分からなかったので、影人は鎖をアクロバティックに避けながら、悪意にそう問いただした。すると悪意は「簡単だ!」と言って、こう言葉を続けた。

「どちらかの意志が屈服した方が負け! それがここでの勝敗を決める! だから安心しろよ! ここでは、仮初の肉体が傷つこうが千切れようが死なないし負けねえ! ある意味不死身だ! さあさあ、分かったら楽しもうぜぇぇぇ!」

「イカれてやがる・・・・・・!」

 心の底からの笑みを浮かべる悪意に、影人は忌々しそうにそう吐き捨てた。

「ははははははははははははははははははっ!! そいつはぁ、どうも!」

 悪意の周囲から闇色の剣や短剣、さらには銃など様々な攻撃物が姿を現す。

 悪意は更に闇で拳銃と日本刀を一振り創造して、それを両手で持った。その瞬間、悪意の全身から黒いオーラのようなものが揺蕩い始めた。闇による肉体の常態的強化を示すものだ。

「そうらぁ! いくぜッ!」

「っ・・・・・・・・・!」

 影人は冷や汗をかきながら、集中力を最大に高めた。「ここでは意志が屈服した方が負け」悪意の言葉を思い出しながら、影人は意志を強く保ち、自分に向かってくる悪意に立ち向かった。









「む・・・・・・・こうやって見ていると、本当に綺麗な顔をしていますね」

 影人が精神世界で悪意と戦いを繰り広げている中、神界で影人の肉体を見守っていたソレイユはそんな言葉を漏らした。

 今の影人は精神世界へと意識を飛ばしているため、現実世界ではまるで意識を失ったように、それこそ眠っているような感じだ。ソレイユはそんな影人を横に寝かせて、膝枕をしていた。

 なお、膝枕をしている理由は影人の頭をさすがに地べたに置くというのはどうなのか、とソレイユが思ったからだ。

 なら、ソレイユが枕かクッションを創造すればよいのではないか、と影人が起きていれば絶対に言うだろう。テーブルやイスを創造できるのであれば、枕も出来るはずだと。

 確かに、ソレイユにはそれが出来る。だがそれをしないという事は、要するにソレイユが膝枕をしている理由は建て前であった。

(ふふっ、普段は態度の悪いクソガキ・・・・・・こほんっ! 捻くれ者が、まさか私に膝枕をされているなんて、思ってもいないでしょうね。こっちに戻ってきた時の反応が楽しみです)

 スプリガンの服装に身を包んだ影人を見つめながら、ソレイユはどこか意地悪そうに微笑んだ。

 スプリガン時であるため、影人の顔はある程度露出している。先ほども思ったが、影人の顔は本当に綺麗だし、整っている。

「・・・・・・・・考えてみれば、私はあなたの名前しか知りませんね。他に知っている事といえば、あなたが陽華と明夜と同じ学校に通っている同級生という事くらいですし」

 気がつけば、ソレイユはそんな言葉を呟いていた。そう。ソレイユが帰城影人という少年の事について知っているのは、実はそれくらいしかない。

 だが、それはソレイユの管轄の光導姫たちにも言えることだ。ソレイユは昔から自分で決めたルールとして、人間のプライベートには出来るだけ干渉しないし、必要に個人情報を聞き出さない。そしてそれは今でも変わらない。

 そのためソレイユには現在も何人か、名字や名前の知らない光導姫がいる。その少女たちは、個人情報をあまり話したがらない人物たちだ。

 だが、ソレイユはその事を気にしてはいない。ただでさえ、ソレイユは少女たちに力を貸してもらっている立場だ。光導姫としての力を少女たちに与えているのはソレイユだが、そもそも戦う決意をしてくれているのは少女たちだ。自分が彼女たちの事について情報を聞き出そうなどとは烏滸がましいにも程があるだろう。

「・・・・・・・・・あなたも例外ではありますが、それは変わらないはずなんですがね。でも、私は・・・・・・あなたの事を知りたいと思ってしまっている」

 上から覗き込むように、目を閉じている影人を見つめながら、ソレイユの思いが溢れた。初めて影人を見た時に感じた。影人はと驚くほどにその姿が似ている。まだ自分の姿が幼かった頃に出会ったあの人と――

 だからだろうか。ソレイユは影人の前では、どうしても素が出てしまうし、影人のことをもっと知りたいと思ってしまっている。

 いや、きっとそれだけではない。ソレイユはいつの間にか、この少年といる事が楽しくなっていたのだ。

「・・・・・・・・ちゃんと帰ってきてくださいね、影人」

 影人の髪に触れながら、ソレイユは優しくそう呟いた。










「――おいおい、何で折れねえんだよ。まさかてめえ、痛みを感じねえのか?」

「・・・・・・アホか。感じてるに決まってんだろ。バカスカ斬ったり撃ったりしやがって。おかげで痛みで気が狂うかと思ったぜ」

 悪意のどこか呆れたような問いかけに、影人は不機嫌そうに答えた。

 結局、仮初の体同士の戦いは悪意が勝利した。まあ、それも当然だ。悪意は闇の力を十全に使えたのに対し、影人は身体能力だけ。勝負は最初から目に見えている。

 だが、精神世界ここでの戦いは意志が屈服しない限り、真に負けることはない。悪意もそれは分かっていたので、まず悪意は影人の仮初の肉体を鎖で拘束した。そしてそこからが地獄だった。

 悪意は影人の意志を折るために、痛みを与える方法を取った。この世界は精神世界なので、痛みは幻痛ではあるが、感じる仕組みになっていたのだ。

 悪意は残忍な笑みを浮かべ、様々な方法で影人に痛みを与えてきた。その方法は、斬ったり撃ったり、時には仮初の肉体を半分消し飛ばしたりと様々だ。そして仮初の肉体が負傷すると、その度に悪意が闇の力で肉体を修復していった。後はそれの繰り返し。控え目に言っても地獄であった。

 しかし、普通の人間であるなら心が折れているであろうこの状況でも、影人の意志は決して折れなかった。ゆえに、悪意は呆れたように影人にそう言ったのだ。

「じゃあ何で折れねえんだよ・・・・・・・てめえの意志の強さはどうなってるんだ?」

 悪意のその言葉は、帰城影人という人間に対しての疑問の1つだった。いま自分の前にいる、仮初の肉体を鎖で縛られたこの少年は、なぜこれ程までに意志が強いのか。

「・・・・・・・・別に俺の意志は強くねえよ。ただ、あの痛みは幻痛だってのは最初から分かってたからな。なら、それが架空の痛みだと俺自身に言い聞かせてやればいいだけだ」

「それがイカれてるっ言ってんだよ。普通なら分かってても発狂するか、心が折れる。だっつうのにこの調子だもんな・・・・・・・・はぁ、こっちの調子が狂うぜ」

 当の本人はどこかズレたようにそう言った。悪意はそんな影人がはっきり言って、気味が悪いと感じた。

「・・・・・・・・で、どうする気だ。自分で言うのも何だが、俺はたぶん折れないぞ。つまりは、何も起きない膠着状態が続くってわけだ。ずっとそんなのはお前も嫌だろ? だから妥協してくれよ」

 悪意に影人はそう提案した。別に影人としては悪意が今後、自分の意識に干渉して来なければそれでいいのだ。まあ、欲を言えば影人にも望みは1つだけあるのだが、最優先事項は変わらない。

「嫌だね。俺は自分の欲望に素直なんだ。――ああ、そうだ。せっかくお前がいるんだから、に入れるじゃねえか。ちょうど良い、あそこにお前の心を折る何かがあるかもしれねえ」

「あの領域・・・・・・・・・・?」

 悪意がいったい何を言っているのか、影人には理解出来なかった。悪意の言う「あの領域」とは何のことなのか。

「なんだ? その様子だと全く知らねえって感じだな。まあ、自分の精神世界なんざ普通は来ないからな。そう言う事もあるか。くくっ、いいな。つーことは、あそこは無意識的に閉じられてるって感じか。俄然なんかありそうだ」

 悪意は影人の反応を見て1人でに納得している。影人が変わらずに頭の上に疑問符を浮かべる中、悪意は右手を広場の床へと向けた。

「帰城影人。今から俺たちが行くのは、お前の精神世界の1番奥底だ。俺はお前の精神世界でお前について、お前の知識についてあらかた触れてきた。だが、今から行く場所だけは俺も入れなかった」

 悪意は周囲に広がる建物たちにその奈落色の瞳を向けた。悪意は自我を得てから、この精神世界で帰城影人という人間について触れた。それは影人の記憶であったり、体験であったり、知識といったものだ。そして悪意はあるとき、影人の最も深い精神世界へと訪れた。だが、その場所のある場所に悪意は入る事が出来なかった。それこそが、悪意が「あの領域」と呼ぶ場所だ。

「たぶんあそこに俺が入るにはお前の許可がいる。何せお前の精神世界だからな。お前にはその権限があるはずだ」

 悪意の手をかざした床に、悪意がここにやって来た時と同じ昏い穴が出現した。悪意は影人を拘束している鎖を持つと、躊躇なくその穴に飛び込んだ。

「分かったら、さあ行くぜ!」

「っ・・・・・・・・・! おいッ!?」

 必然、影人も悪意と共にその穴へと落ちていった。影人からしてみれば、何が何だか分からぬまま、影人は己の最も深い精神世界へと足を運ぶことになった。











「――よっと、ついたぜ。ここが精神世界の奥底だ」

「ここが・・・・・・・・?」

 悪意と共に周囲が真っ黒な闇に包まれた空間に降りたった影人は、思わずそう呟いていた。辺りは全てが闇に包まれていた。まるで先ほど戦っていたキベリアに連れて行かれた空間と同じだ。

「ああ。キベリアの異空間に似てるだろ? まあ、それはたまたまだから気にすんな。それより、俺が言ってたあの領域ってのはあれのことだ」

 悪意がその細い指を正面へと指さした。するとそこには、鎖で雁字搦めにされた1つの赤いドアがポツンとただずんでいた。影人は何もないと思っていたが、どうやら自分が見落としていただけらしい。

(何だ? あのドア・・・・・・・・・ここにあるのはあれだけか?)

 周囲を改めて見渡してみるが、ここにあるのはやはりあの赤いドアだけだ。ここは影人の精神世界の奥底だと悪意は言うが、影人にもあの赤いドアは見覚えがなかった。

「おら、さっさとあのドア開けてくれよ。お前ならあの鎖外せるはずだからさ」

「・・・・・・・・・・俺が素直にお前に従うと思うか?」

 少しドスの効いた声で影人はそう言った。先ほど、悪意はあそこに自分の心を折る何かがあるかもしれないと言っていた。なら、あのドアを開ける事は自分にとって明確に不利だ。

「あ? お前に選択権なんてねえぞ。拒否すんなら、てめえの腕引きちぎってあのドア開けるぞ。さっきは許可がどうこう言ったが、別にお前の仮初の肉体のパーツなら開けれるだろうからな」

「分かりました開けます」

 一瞬であった。影人は真面目な表情で何度も頷いた。別に影人は幻痛には耐えられるが、マゾヒストではないのだ。どちらにせよ、開ける事になるなら痛くない方がいい。

「くくっ、お利口さんだ。なら鎖は解いてやる。が、分かってんな? 妙な素振りを見せた瞬間――」

「分かってる、別に何も反抗しやしねえよ。反抗したとして結果は目に見えてるしな」

 影人を拘束していた鎖が虚空に溶けるように消えていった。影人は自由になった仮初の体を動かすと、赤いドアへと向かっていった。

(つーか、本当に何なんだこのドア? 全く覚えがねえ。この感じだと何かを封じてるのか?)

 赤いドアを至近距離から見つめ、影人はそんな事を考える。だが、いくら記憶を掘り返してもこんなドアには見覚えがなかった。

「やっぱ分からん・・・・・・」

 影人はそう息を吐くとドアに絡み付いている鎖を外していった。不思議な事に、影人が鎖に触れると鎖は1人でに外れていった。

「・・・・・・・・外したぞ」

「おー、よくやった! やっぱお前にならその鎖は外せたか」

 そうして全ての鎖は解かれた。後はこの取っ手に触れてドアを開ければいいだけだ。

 影人は何とはなしにドアの取っ手に触れた。

「っ・・・・・・・・・・!?」

 元々ここは影人の精神世界。取っ手に触れるということがきっかけで、影人にはこのドアの奥に封じられている記憶が何なのか分かってしまった。

(最悪だ最悪だ最悪だッ!! バカか俺はッ!? なんで今まで気がつかなかった!? 俺がなんて1つしかねえじゃねえか! ダメだ、このドアを開けるのだけは絶対にダメだ!!)

 仮初の体から冷や汗が滝のように流れ出す。体が震える。それは帰城影人という少年が、全力でこのドアを開ける事を拒んでいる証拠であった。

「? 何だ? さっさと開けろよ」

 影人の様子を不審に思ったのか、悪意がこちらに近づいてきた。影人は咄嗟に背を向け、悪意からドアを守るように立ち塞がった。

「あ・・・・・・・? 何のつもりだ」

「・・・・・・・・・・・・聞け、悪意。善意から言う。ここには入るな。入っても俺の心を折るもんなんてない。・・・・・・・この中にはがある。つまりの残滓が、影が残ってる。もう1度だけ言う。やめておけ、ここに入れば逆にお前の意志が折られるぞ!」

 片眉を吊り上げる悪意に、影人は本気の言葉でそう叫んだ。ここは絶対に触れてはいけない記憶がある場所。


 ――このドアの向こうは、が存在する影人の禁域だった。

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