陸の人魚は青に溺れる4



 彼女が目を覚ますと、そこは見知らぬ場所だった。大きなベッドと真っ白なシーツ。天井には真っ白な漆喰(しっくい)の装飾とシャンデリア。何度か目をぱちぱちとさせても、おかれている状況がまったくわからない。


「あぁ、起きたか?」


 異国人の血を引くという青く澄んだ瞳がのぞき込む。カイルが助けてくれたことが夢ではなかったのだと思うと、メリッサはひどく安心する。

「ここは?」


「商会の、俺の仮眠室みたいなところだ。屋敷までは距離があったからな」


「ん?」


 メリッサは自分の状況を確認する。まず、ぬれていたはずの服は全部脱がされていて、おそらく下着もつけていない。あきらかにサイズの大きなシャツ一枚、その上に薄い毛布がかけられている。壊れた眼鏡とパメラからもらったリボンはベッドの脇にある台の上においてある。

 けがは手当てされ、人魚の力が戻っている。メリッサが自身の胸に手をあててみると、服の上からでも硬いものが身体に埋め込まれているのがわかった。


「あの、ふ、服」


「それは俺のだが、着替えさせたのは俺じゃない。彼女には買いものに行ってもらった」


 女性で、鱗水晶うろこすいしょうを見せても安心なのはウィレミナだけだ。カイルの言っている人物が彼女なのだとすぐにわかる。


「それと、これをやる」


 カイルが手に持っていたのは金縁の丸眼鏡だ。メリッサがかけていた黒縁眼鏡は壊れてしまったので、その代わりだろう。


「コンラッドの蒐集品しゅうしゅうひんからおまえに合いそうなやつを選んだ」


「コンラッドさんが? あとでお礼を言わなきゃだめですね」


「いや、やつの蒐集品から俺が選んで買った」


 カイルは少しふくれて、礼を言うべき人物はコンラッドではないと主張する。


「そうでしたか、ありがとうございますカイル様」


「さっきまで“様”をつけていなかったくせに」


 カイルはさらに不機嫌になる。その顔は完全にいじけているようだ。


「あの、カイル? どうして鱗水晶を戻したんですか?」


「勝手に押しつけられて、腹が立ったからだ」


「そんな! でも、そんなことくらい、マーガレット様の病気に比べたら!」


「命がかかっていれば、無関係のおまえの人生がくるってもかまわない……本気でそう思うのか?」


「でもっ!」


「鱗水晶を戻したのは、人の気も知らないで勝手においていったのがムカつくから。受け取らないとは言ってない。……まだ、話したいことがあるんだ」


 カイルはメリッサのいるベッドの近くに椅子を持ってきて座る。メリッサも上半身だけ起こして、カイルの「話したいこと」を聞く準備をする。


「まず、おまえのことを最初から人魚だと知っていたのは本当だ」


「はい」


 たぶん、今のカイルは嘘の気持ちを言わない。メリッサはそう思った。

「鱗水晶を奪うために、仕事を与え屋敷に住まわせた。これも本当だ」


「……知っています」


「わかっているのなら、なんでおいていった? おまえ、バカなのか?」


 カイルはあきれて、大きなため息をはき出す。


「でも」


 メリッサの予想では、もしカイルが本気で鱗水晶を奪うためだけに彼女に接していたなら、もっとやりようがあったと思うのだ。だから彼女は書庫で怖いと感じた彼の瞳をしっかりと見る。彼の本心を知りたいのだ。


「カイルは、いつも演技していたわけじゃないですよね。私がその、成人してしまって、本当に鱗水晶が手に入る状況になったから、どうすればいいかわからなくて出て行くように仕向けたんじゃないかなぁって」


「……おまえは鈍いのか、鋭いのか? どっちかにしろ」


 カイルは頭をかかえているが、それは本心を言い当てられた照れ隠しのようでもある。

 彼のその言葉でメリッサの胸のざわつきが、すっとひいていく。


「それに、カイルがどう思うかということと、私がマーガレット様のためになにかしたいのは別の話。それはカイルが決めていいことではありません」


「おまえな……」


 メリッサがきっぱりと断言すると、カイルはあきれて、そのあとしばらく黙ってなにかを考えるようにしている。


「わかった。鱗水晶のことと、今後のおまえと俺がどうなるかはいったん切り離す」


「私たち、ですか?」


 カイルは突然立ち上がり、メリッサのいるベッドに座るようなかたちになる。引き寄せられ、カイルの顔がだんだん近づいてくるのを彼女は不思議な気持ちで見ていた。

 気がついたら胸の中に閉じ込められ、人魚よりもあたたかいカイルのぬくもりを感じると、それだけで鼓動が高鳴る。


「すぐにおまえを探しに行ったが、ラファティ殿のところに行かないし、探し回っているうちに港で騒ぎになっているし、どれだけ心配したと思う?」


「でも、出ていくように仕向けたのはカイルです!」


「村の連中から追われている身で、頼れる者を頼らないバカがいるとは思わなかったからだ」


 カイルはメリッサが同族のラファティを頼るはずだと考えていたから、屋敷を追い出すことにためらいがなかったのだ。鱗水晶を押しつけて行方をくらますことは彼にとっては想定外だった。


「人魚でも、そうでなくてもおまえが迂闊(うかつ)でお人よしなのは変わらない。離れられると、気になってほかのことが考えられない。わかるか?」


「あの……?」


 ナイジェルに縛られたせいで傷ついた手首をカイルや指先で優しくなぞる。


「ほかの男に傷をつけられたのを見たら、気がおかしくなりそうだった。そのきっかけをつくってしまったのは俺だから、よけいにな」


 今までの彼の態度はいつも意地悪だった。基本的に世話焼きで、使用人を大切にし、いつもメリッサの安全を考えていてくれていることは知っていたが、紡がれる言葉はいつも意地悪だ。

 今のカイルはそうではない。真摯しんしにメリッサを見つめる瞳も、紡がれる言葉も、ひどく甘くてメリッサを困惑させる。


「でも、カイルはマーガレット様や、どこかのご令嬢に向けるような顔を私には……。私にはあんまり……っ……」


「マギーはともかく、どこかの令嬢? おまえ、仕事用の顔とそうじゃない顔の区別もつかないのか?」


「わかりません」


「じゃあ、わかれ!」


 カイルは大きな手がメリッサの前髪を横にはらい、瞳の色を確認するようにまっすぐに見つめる。海と同じ澄んだ青を見ていたら、吸い込まれてしまうのではないかと思い、メリッサは自然に目を閉じる。

 触れた唇から伝わるカイルの温度はやはりあたたかい。あたたかくて、愛おしい。その感覚にすべてを支配されたいとさえ思う。

 お互いが別々の存在であるのを確かめ合うように重ねられた唇が離れる。メリッサが再び目を開けると、やはりカイルは笑ってはいなかった。それを少し残念に思う。


「メリッサの前ではあまり余裕がない。心を支配するつもりで近づいたのに、いつもかき乱された」


「私だって! 私なんて、本当に胸が痛くて、苦しかったんです!」


 人間も感情が高ぶって胸が痛むことはあるだろう。でも、メリッサはその痛みと鱗水晶が外れそうになる物理的な痛みの二重苦だった。


「俺に、鱗水晶をくれるか? マギーのためじゃなく、俺のために」


 マーガレットの病気を治すためではない。カイルと同じ存在になるために鱗水晶を外してほしい。カイルのその願いはメリッサの心に響く。

 投げやりに渡すのでもない、皆で一緒に幸せになる方法をカイルは提示している。

 きっと二人とも間違っていたのだ。カイルはマーガレットのために近づいたのに、メリッサとともに生きる資格がないと勝手に手放した。

 メリッサも投げやりに鱗水晶を押しつけて逃げた。意地さえ張らずに二人の想いをすべて叶える方法があるのに、それに気がつかないふりをしたのだ。



 メリッサがうなずこうとしたそのとき――――。



「……あの、お取り込み中、申しわけないのですが」


 姿を見せたのはラファティとウィレミナだった。タイミングがよすぎるのは、メリッサたちの様子をうかがっていた、ということだろう。


「やはり、私としてはメリッサ君が鱗水晶を外すのは賛成できませんね。あなた方は若く、出会って間もない」


「でも!」


 出会って間もない二人の選択は過ちである。ラファティからそう言われている気がして、メリッサは強く反発する。


「メリッサ君。そういうことはご家族に許可をとってからするべきです。それにアルフォード様は人魚にとって因縁のある相手ですし」


 人魚姫の恋人、血のつながりはないとはいえその孫であるカイル。そして海の王国の宝を売りさばいて財を成したとうわさされるアルフォード商会。カイルに鱗水晶を渡せば、メリッサの父や兄がどう思うか。想像できない話ではない。

 人魚の意見としてはラファティの言うことは正しかった。それでも、正しいからといって納得できるものではない。

 カイルの提案は、今しか取れない選択だ。時間が無限にあるのなら若いうちの選択は浅はかだと言われても仕方がない。でも、残された時間が少ないのに、それを無視して正論を言われてもメリッサには納得いかない。

 困惑するメリッサに、ラファティはやわらかい口調で語る。


「私はもう、三年です……。三年もウィレミナ君をまたせてしまって。まったく臆病でいやになりますよ。ウィレミナ君とともに生きたいのに、力を失うのが怖いだなんて」


「ラファティ師匠(せんせい)?」


 ラファティがカイルとメリッサの前に、握りしめた手を差し出す。ゆっくりと開かれた手のひらに、ひし形の輝く宝石があった。


「アルフォード様と妹君に、さしあげますよ。もう不要なものですから」


 ラファティの鱗水晶。薬師としての優位性を失うのがいやでためらっていたはずの選択。その選択をカイルとメリッサ、そしてマーガレットのためにしたのだ。


「……ラファティ殿。よろしいのですか?」


「えぇ、あなた方を見ていたら、私もそろそろ覚悟を決めるべきだと。そう思ったんですよ。きっかけがないと見切れないなんて情けないことです」


 ラファティはウィレミナをちらりと見てほほえむ。ウィレミナもラファティの選択にうなずいた。


「そのかわり、私の人魚としての最後の助言はきちんと聞いてくださいね」


 ラファティの助言は、メリッサが鱗水晶を外すなら、もっと互いを知り、メリッサの家族と話し合ってからにするべき、ということだ。


「必ず約束は守ります。ラファティ殿」

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