陸の人魚は青に溺れる1
妹の寿命があと少しで尽きると知ったカイルは、祖父ブラッドが残した手記を手当たり次第読みあさった。
ブラッドは世間でうわさされているような人物ではない。父が不慮の事故で死亡したあと、後継者として商会を任されたカイルに、彼は商会を守ること以外に、もうひとつアルフォード家の当主が負うべき責務を語った。
「海の王国の復興?」
「そうだ、それが私の望みだ……私の、私が愛した姫へのつぐないだ」
町の人々から『アルフォードは人魚の血肉で赤く染まった手で金貨をつかむ』とうわさされているブラッドの望みをはじめて知ったカイルは、驚きよりも納得する気持ちのほうが大きかった。
ブラッドは物静かであまり多くを語らない。とくに人魚姫のことについては一度も話したことのない人だったが、カイルにとっては尊敬できる大切な家族だった。
ブラッドはたしかに、海の王国に関するものを集めていた。しかし、その理由は人魚たちの宝の流出をとめ、彼らに関する知識が人間に漏れないようにするためだった。
アルフォードの当主しか知らない、書庫からつながる隠し部屋に、人魚の宝は大切に保管されていたのだ。
祖父は時々船を出して、人魚の宝を引き上げ、時には大金をはたいてほかの人間が手に入れた人魚の宝を購入していたが、それらをほかに売ったことはなかった。
「カイルもおまえの父親も、少しひねくれているが根は優しい人間だと信じている。この家にはおまえが死ぬまでには使い切れないほどの財産がすでにある。だからどうかそれ以上は望まず、私の意志を継いで人魚たちの宝を守ってほしい」
「わかりました……。必ず」
血はつながっていないがブラッドとカイルの父はどこか似ていた。一方のブラッドからすれば父とカイルは似ているのだという。それならばブラッドとカイルも、やはり似ているのだろうか。
祖父から秘密をうち明けられたカイルは、そのことが誇らしく、祖父の意志を継いでいつか人魚たちに宝を返そうと誓った。
誓いは、簡単に破られる。カイルが祖父の残した手記に手をつけたのは、人魚を守るためではない。妹の命を救う方法を探すためだった。
祖父の手記には人魚の生態や
「これを手に入れれば……」
鱗水晶は成人した人魚から彼らの意志で譲り受けなければ手に入らない。
ヴィンス・ラファティが人魚であることは予想がついていたが、同性の彼から譲り受けることは無理だろう。
「人魚は恋を知ると成人となる、か……。
ブラッドがこのことを知っているのは、人魚姫から直接聞いたからだろうか。今となってはわからないが、おそらくそうなのだとカイルは考えた。
人魚姫は愛するブラッドのために、鱗水晶を外し人間になりたかったのだ。
祖父の願いをふみにじり、私欲で手記をひもといたカイルは、日が沈む時間になった砂浜で今後のことを考えていた。
鱗水晶を手に入れることはいくら金を積んでも叶わない。妹を助ける術はない。
祖父を裏切ってしまったことへの後悔。結果的に方法がないとわかったことで
そんなときだった。ふとカイルが岩場の上を見上げると、スカートの裾をなびかせた女の姿が月明かりに照らし出された。
臆することもなく高い岩場から下に飛び降りようとするのは身投げ以外に考えられない。彼はすぐに岩場によじ登り彼女のそばへ行き、たしなめる。
『月と海を見ていただけです。とても綺麗だったから』
どう考えても飛び込もうとしていたのに、彼女はそんな言いわけをする。だが、その様子はとても世を儚んでいるようには見えなかった。
長い前髪、小さな顔に不釣り合いな黒縁眼鏡、整った容姿を隠したいけれど、まったく隠せていないメリッサという名の女。彼女が人魚だとカイルはすぐに疑った。
身投げ以外に外套(がいとう)を丁寧にたたんで靴を揃えてから夜の海に飛び込もうとする理由も、彼女が人魚ならば説明がつく。
だから仕事を与え、屋敷に住まわせた。案の定その日の夜更け、へたくそな漁師唄を楽しそうに口ずさむ、まぬけな人魚が現れた。
メリッサに出会って、カイルはひどく動揺した。彼が心から欲している鱗水晶を与えてくれるかもしれない女性。まだ成人でないのだとしたら、彼女をだましてカイルに恋心を抱かせればあるいは――――。
「こんなに純粋な生きものなら、心を奪うなど簡単じゃないか」
そんなカイルのたくらみに気がつかず、ほいほいとついてくるメリッサの危うさ、眼鏡の奥に隠されたあきれるほど澄んだはしばみ色の瞳。彼女を
カイルはすぐにそのまぬけな人魚に惹かれてしまったのだ。
カイルは商会の代表を務め、人のあしらい方も女性のあつかいもそれなりに自信があった。
しかしメリッサに対しては、すべてがうまくいかない。
上手に甘やかして、彼女に恋心を抱かせ、鱗水晶を手に入れてしまえばいいと考える利己的な感情。それとは別に、彼女にわざと冷たくし、さっさと屋敷からいなくなればいいという気持ち。
どっちつかずで、結局はありのままの態度で接しても、メリッサがカイルを避けることはなく、毎晩人魚の「ルーナ」が姿を見せる。
突き放すことも、甘い言葉でたぶらかすこともできずに毎日他愛もない話をする。
昼間の地味な眼鏡をなんど奪って自分のほうを向かせたいと考えたか、たいした明かりもない夜の海でどれだけ彼女の姿を見たくてもどかしく感じていたか。メリッサにはおそらくカイルの気持ちなど少しも伝わっていなかったのだろう。
せめて、彼女をおとすために優しくいつわったカイルを好いてくれるのならまだよかった。メリッサが毎晩会いに来るカイルは、なんの演技もしていないただのカイル・アルフォードという男だった。
(この女、本当にバカだ……)
結局、人魚に魅了され心を奪われたのはカイルだった。たとえ、彼女から鱗水晶を奪えるのだとしても、彼女を家族や仲間から引き離すことはできない。
約束をしていたわけではない。でも雨が降っていない日は毎晩海でメリッサと会っていた。だが、ラファティの薬局に行くと言ってダラムコスタの町へ向かった晩、はじめてメリッサが現れなかった。
なにかあったのかと思ってカイルが彼女の部屋をおとずれると、そこには胸が痛いと言って泣いている彼女がいた。
『私、もしかしたら大人の人魚になるかもしれなくて……』
それはカイルがもっとも望んでいた、けれど全く望んでいない結末だった。
メリッサはカイルに恋をして大人になった。カイルが彼女に愛をささやいて、鱗水晶を外させれば妹の病は治る。これはきっと、祖父の意志を裏切り、彼の手記を私欲のために使おうとした罰なのだとカイルは考えた。
マーガレットを見捨てるか、メリッサの人生をずたずたにするか、どちらかを選ぶのがカイルへの罰だった。
「マーガレット、すまない……」
カイルはわざと目につく場所に祖父の手記をおいて、メリッサに見せた。
さすがのメリッサもこれでカイルのもとを去るだろう。それなのに――――。
『カイル様へ――――人魚として生きるのは常に命の危険にさらされて、なかなか苦労が多いです。せっかく成人になって、鱗水晶がとれたので、私は人間にまじって暮らしていきたいと思います。鱗水晶はもういらないので、お世話になったお礼にさしあげます。さようなら。――――メリッサ』
メリッサが残していったものは手紙と虹色に輝く鱗水晶だった。早く戻してやらないと、二度と仲間のもとへ帰れなくなる。
「あの、バカ人魚!」
なんでもないことのように淡々とした手紙が、彼女の本心だとはカイルには思えなかった。
カイルは水晶を布に包んで胸のポケットにしまってから町へと急いだ。
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