陸の人魚は嘘をつく8



『恋を知った人魚は鱗水晶うろこすいしょうを自らの意志で外すことができる』


『人魚の力の源は鱗水晶で、あらゆる病やけがを治す万能薬になる』



 それは人間には知られていないはずの、人魚の能力のはずだ。手記は相当古いもので、カイルの筆跡とは違っている。


「カイルのおじいさんの……?」


 人魚姫の恋人であったというカイルの祖父が、姫からその話を聞いていたとしてもおかしくはない。

 あるいは『アルフォードは人魚の血肉で赤く染まった手で金貨をつかむ』と言われ、海に沈んだ王国の遺産を集めていたというのが本当だとしたら、金になると知って人魚の生態を調べ尽くしたという可能性もある。

 メリッサはいやな想像に頭の中が支配されていくのを感じた。横におかれた紙を読んではいけない。そう思っても震える手が勝手に紙を拾いあげる。



『ラファティ殿から譲り受けることは難しい。しかし、メリッサ・シーウェルから鱗水晶を奪える可能性はある。幸いにも仕事を世話したことで彼女は恩義を感じている。それを利用し――――』



 それはなんどか見たことのある、カイルの筆跡だった。



『それを利用し、メリッサを成人させたあと、鱗水晶を奪う』



 カイルは最初からメリッサが人魚だと知っていて、鱗水晶が欲しくてそばにおいたのだ。

 人間の前で不用意に泣いてしまわないように、人魚は涙を我慢するように厳しくしつけられる。

 それでもカイルのことを考えてわき上がってくる感情だけは別だった。胸がひどく熱くなり、痛い。鱗水晶が痛むことはもうないのだから、メリッサが感じているのは心の痛みなのだろう。あふれる想いを我慢できず、それが涙に変わって流れ出る。


 カイルの筆跡で書かれたその紙の上に、ポタリポタリと落ちる水滴が、インクで書かれた文字をにじませる。文字が消えても書かれた真実が消えるわけではないのに。

 カイルがメリッサを捕らえなかったのは当然だ。カイルの持っている財産を考えれば、人魚の血肉で得られる金になど興味はないのだろう。カイルが欲しているものは、どれだけ大金をはたいても手に入らないものだった。


「カイル……。どうして?」


 カイルの文字で真実が書かれた紙が、震えるメリッサの手から滑り落ちる。


 そのとき、カチャリと書庫の扉が開く音がした。メリッサは急いで涙を拭いて身構える。そこにいたのは仕事へ行ったはずのカイルだった。


「あぁ、遅かったか。……残念」


「カイル!」


「それを広げたままだったかもしれないと、気になって戻ってきたんだが……。俺もさすがに疲れていたのかもな。最後の最後で失敗するとは」


 カイルはメリッサの足もとに落ちた白い紙を見ながら言った。


「最後の最後……?」


「そういえば、俺に話があるんだったな」


「…………」


 今までバカにされても叱られても、メリッサは彼を恐ろしいとは感じていなかった。今、彼女の目の前にいるのは青い瞳からいっさいの感情が読み取れない男だ。


「マーガレット様とカイル様に、鱗水晶をさしあげようと思っていました……」


「へぇ。おまえ、本当にお人よしでだまされやすいな。どうせ、故郷でも人魚だってバレて逃げてきたんだろ? 拾ってやっただけで簡単に好意を抱いて、成人するなんてな」


 メリッサの顔が怒りで真っ赤になる。怒りの中には羞恥心も混じっていた。カイルは人魚がどうすれば成人するのか、最初から知っていたのだ。

 胸の痛みに耐えきれず泣いていたメリッサを抱きしめたのは、それをうながすため。彼はあのとき、メリッサの背中をさすりながらどんな顔をしていたのだろう。優しい言葉でなぐさめながら、どんな思いでいたのかを想像すると、たまらなく恥ずかしかった。


「そうさせたのは、カイルでしょ!? 私が、私が簡単にあなたのことを好きになって、満足だった? 私のこと笑ってた!?」


「……そんなことはない。美しい人魚から想われて、よろこばない男がいると思うか?」


「……っ!」


 カイルがメリッサとの距離をつめ、彼女の眼鏡に手をかける。その顔は笑っている。背後には机があり、彼女はその手から逃げられない。


「安心しろ。血肉に興味がないのは本当だ。おまえの瞳は本当に美しいな。……血肉よりずっと価値がある、そう思わないか?」


 カイルの手が頬にのびて、メリッサに無理やり上を向かせる。こんな男のために泣いて、本当の瞳の色を見せるのはいやなのに、やはり涙は止まらない。


「じゃ、じゃあ。鱗水晶を奪って人魚じゃなくなれば、もう価値がなくなるわ!」


 仮にメリッサがカイルに鱗水晶を渡してしまったのなら、もうその血肉に価値はなくなる。ある意味で命を狙われることのない安全な存在になるのだ。

 だが、人魚ではなくなったメリッサにカイルは興味がない。

 メリッサが彼に鱗水晶を与えれば、彼はメリッサに対する興味を失い、彼女は薬師としての力も削がれる。カイルが言っていることはそういうことだ。


「そうなるな」


 パンと乾いた音が響く。メリッサがおもいっきりカイルの頬を叩いたのだ。遅れて彼の頬が赤くなるが、彼がそれで表情を変えることはない。

「非力だな。……そんなに泣いて。おまえの涙は男をよろこばせるだけだと、いい加減気がついたら?」


「き、嫌い……嫌いっ!」


 カイルの行動のすべてがメリッサを傷つける。メリッサが頬を叩いても怒ることすらせず、涙が美しいと言葉を紡いでも、その瞳に熱がこもることはない。

 メリッサはたとえ怒りでもいいから彼の心を動かしたかった。


「そうか、出ていくのなら泣きやんでからにしろ。捕まったらもったいない」


 カイルはたいして興味もなさそうにメリッサから離れ、背を向ける。

 メリッサは机に背中をあずけるようにしてその場にしゃがみ込み、しばらく動けなかった。


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