陸の人魚は嘘をつく7



 翌日、マーガレットが再び発作を起こした。今度の発作はすぐには治まらず、薬で押さえ込んでもまだ苦しそうにしている。

 夜更けから熱も出てしまい、皆で交代しながら看病をすることになった。


 呼吸を荒くして、真っ青な顔をしたマーガレットの汗を拭いながら、メリッサはどうすればいいのか迷っていた。

 メリッサはもう成人してしまったので、鱗水晶うろこすいしょうを彼女に与えられるのだ。そして、彼女に与えたからといってメリッサが死ぬわけではない。ただ人間と同じような存在になるだけ。

 このまま「人魚の至宝」が見つからず、人間にまざって暮らしていくのならば、むしろ鱗水晶など捨ててしまったほうがいい。

 けれど、その選択をすれば人魚の仲間たちから人魚の誇りを失った者だと軽蔑され、父や兄からも縁を切られるかもしれない。そして、薬師としての能力を失うことになる。

 助けられるのに見捨てれば、きっと後悔する。何度か胸に手をあてて鱗水晶をとってみようとするが、そこから先へはふみ出せない。


 カーテンの隙間から光が差し込む時間になったころ、マーガレットの呼吸が落ち着いてくる。震える手でそっと額に手をあてると、そこはまだ熱かった。


「メリッサ……手、そのままにして」


 目をつむったまま、マーガレットがつぶやく。人魚の冷たい手が心地よいのだろう。


「あのね、私……。誕生日まで生きたい、って気持ちと……おわかれが寂しくなるだけって気持ちと両方あって、……どっちを願えばいいのかな? わからないの」


 それはマーガレット自身で決めることのできない運命だ。さだめられたときまでどうすごせばいいのか、マーガレットがずっと悩み、葛藤していたことはメリッサも知っていた。


「思い出がほしいの。お兄様とも、ギュルセルとも、ほかの人とも……」


 マーガレットの唇は少し震え、瞳から涙がこぼれる。


「でも、きっと私が欲しい思い出は、残された人を苦しめる。……それは望んでないのに、どうすればいいの?」


 自身の中に両立しない二つの感情がある。どちらかを選べば、どちらかが叶わない。マーガレットが思い出を残そうとしても、残される人たちへの罪悪感から心の底からは楽しめないのだ。

 だからといってなにも望まず、なにも残さないで我慢することは彼女自身の本当の望みではないし、周囲の人間もそれを望んでいない。


「私、みんなを悲しませるために、生まれたんじゃないよね……? でも、私がなにかをすればするほど、きっと誰かを悲しませる……どうしたら?」


 どうしていいのかわからない。それはメリッサも同じだった。助ける力があるのに、それをしたときに自らが失うものを考えると怖い。だからと言っていつまでも選ぶことをためらっていたら、自動的に助けないほうが選ばれる。それはとても臆病で卑怯なことだ。


「マーガレット様。きっと、今さらなんです。マーガレット様は屋敷の方々に愛されていますから、我慢してもきっと無駄です、だから」


「……うん」


 マーガレットはその言葉を最後に黙り込む。眠ってはいないが、呼吸はだいぶ落ち着いていた。

 しばらくマーガレットの様子を見守っていると、部屋の扉がゆっくりと開き、食事を持ったギュルセルが入ってくる。


「代わる。食事をして、少し寝てこい」


「はい」


 ギュルセルは慣れた手つきで、サイドテーブルを設置して朝食の準備をする。消化のよさそうな野菜が入った麦粥と小さく切られたりんご。粥からは食欲をそそるゆげがあがり、優しい香りがただよう。


「マギー様、粥を持ってきたので、少しでいいから食べてください」


「うん。ギュルセル、ここにいてくれる?」


 マーガレットから素直な言葉が出てきたことに、ギュルセルは驚いた様子だ。


「おおせのままに」


 ギュルセルはベッドの隣に椅子をおき、まだ熱い粥を大きなスプーンで混ぜて、ふーふーと冷ます。

 メリッサはその様子を遠巻きに眺めたあと、言われたとおり、マーガレットの部屋をあとにする。


 その後の主治医の診察で、今回の発作の峠は越えたと診断された。カイルも屋敷の使用人たちもそのことには安堵していた。

 だが、マーガレットの命があとわずかであることは、誰も口にはしないがあきらかだった。


 今、決断しなければメリッサはきっと後悔する。だから彼女はカイルの部屋へと向かう。



 §



「入れ」


「お、おはようございます。カイル様、メリッサです」


 ふだんなら、仕事に行っている時間だがマーガレットのこともあり、カイルはまだ屋敷の私室にいた。けれど出かけるつもりだったようで、すでにジャケットを羽織っている。だるそうに黒髪をかき上げるその表情はとても疲れているようだ。

 昨日は屋敷の人間が交代でマーガレットにつき添ったのだが、結局カイルは眠れなかったのだろう。


「おまえも一昨日まで体調を崩していただろう? 平気なのか?」


「はい、それはもう治りました。ご心配をおかけいたしました」


 原因がカイルで、メリッサが素直にその感情を認めたから治ったのだということは恥ずかしくて言えない。マーガレットが大変な時期にそんなことを言われても困るだけだろう。


「治った、ね……」


「あの! ちょっと、お話したいことがあって。その、人魚の力のことで……」


「それは大事な話なのか?」


「はい、とっても大切なことです」


「……すまん、マーガレットも落ち着いたし、いったん商会に顔を出さなきゃならない。話は帰ってきてからでもかまわないか?」


 カイルは決してメリッサの話を軽んじたわけではない。おそらく大事な話だから時間のあるときに聞くつもりなのだ。


「はい、では帰ってきてからお願いします」


「おまえ、ちゃんと食事して寝ろよ。目の下がひどいぞ」


 そういうカイルのほうはもっとひどい顔になっていた。


「それと、仮眠したあとでいいから、新しい本の整理をしておいてくれるか? 書庫の俺の机の上に積んであるから」


「わかりました! あの、カイル様。気をつけてくださいね。カイル様のほうがよっぽどひどい顔ですから。いってらっしゃいませ」


「あぁ、じゃあな……」


 言われたとおり、きちんと食事をして一眠りしたあと、メリッサは書庫へ向かった。


 本が日に焼けないように分厚いカーテンがかけられた薄暗い部屋。メリッサは必要なぶんだけカーテンを開け、作業ができるだけの明かりを確保する。

 部屋の中央にマーガレットが愛用しているソファがあるが、用があるのは書庫の奥にあるカイルの書斎机だ。

 木製の大きなその机の上には、三十冊以上の本が二段にわけて積まれていた。

 そして机の中央には、乱雑に装丁されている手書きの本が開きっぱなしでおいてある。紙の黄ばみ具合から相当古いものだとわかる、誰かの手記のようだ。その横には数枚の紙が散乱している。

 カイルはわりと几帳面な人物で、読みかけの本を広げたままにしておくというのは珍しい。



『恋を知った人魚は鱗水晶を自らの意志で外すことができる』



 開かれたページに記された文字を見て、メリッサはそこから目を離せなくなった。


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