陸の人魚は嘘をつく6



 屋敷に戻ったメリッサは、いつものお仕着せに着替え、ジョアンナの仕事を手伝った。明日の朝までは休暇ということになっていたのだが、一人でいるとどうしても胸が痛くて辛かったのだ。


 仕事を終えて、いつもならルーナとカイルが会う時間だったが、メリッサは浜辺には行かなかった。

 これ以上カイルと深く関わるとメリッサの鱗水晶うろこすいしょうはとれる。さすがのメリッサにももうわかっていた。それがとにかく恐ろしかったのだ。



『そんなものは人から聞いてわかるもんじゃない。大人になれば自然に理解するんだ』



 父の言う大人とは、こういうことなのか。なんの準備もせずに突然おとずれた身体の変化にメリッサは戸惑い、教えてくれなかった父や兄を呪った。

 一人になるとどうしても、カイルのことを考えて、不安で鱗水晶が痛む。心が変化したから起こる身体の変化のはずなのに、その身体の変化を心はまだ受け入れられない。

 どうやったら大人になれるのか。父は「自然に理解できる」と言っていたが、全然違うと彼女は思った。「自然に理解できる」ではなく「いやでも理解させられる」という言葉が正しい。


「痛い……。助けて、お父さん、お兄ちゃん!」


 部屋のロウソクを消して、布団の中にうずくまり痛みに耐えることしかメリッサにはできない。心の中からカイルが消えてくれれば痛みが消えるのに、ついそんなことを考える。


「メリッサ! まだ起きているか?」


 乱暴に部屋の扉が叩かれて、カイルの声が聞こえる。


「起きています。……でも、ちょっと体調が悪くて、早く寝ようと思って……っ、……」


 だから顔を見せることはできないとメリッサは言いたいのに、胸の痛みで声が出ない。心も鱗水晶も痛くて、どうしても涙をこらえられない。メリッサの瞳の色は間違いなく虹色になっている。

 それなのに、ドアノブをカチャリと回す音がする。隙間から廊下の光が漏れはじめた瞬間、メリッサは顔を両手で隠す。


「お、女の子の部屋ですよ! いくら雇い主でも、許されません!」


 下を向いて瞳を手で隠しているのだから、カイルがどんな顔をしているのか、メリッサにはわからない。瞳を覆っている指の合間からオレンジ色の光が見える。カイルは明かりを持っているのだ。顔を見られたら秘密がばれる。


「なぜ泣いているんだ? ラファティ殿になにか言われたのか?」


「違います。こっちに来ないで、見ないで」


 胸の痛みの原因はカイルだ。原因が近くにいたら、治るものも治らない。


「別に隠さなくていいだろう、……ルーナ」


「え……!?」


 呼ばれた名前に驚き、心臓がどくどくと音を鳴らす。カイルはメリッサのことを「ルーナ」と呼んだのだ。それはつまり、メリッサが人魚だと知っていたということだ。

 メリッサは彼を警戒してじりじりとうしろに下がる。メリッサがいるのは壁際におかれたベッドの上だ。狭い部屋の中には逃げる場所などない。


「別に、捕まえるつもりならとっくにやってる。……おまえが言いたくなさそうだから、気がつかないふりをしていただけだ」


 カイルがベッドに座っていたメリッサのそばによる。その手が、瞳を覆っていたメリッサの手をつかみ、少し強い力で下へ追いやる。

 目じりが少しだけ垂れた大きな瞳は涙でぬれて虹色に輝いている。その瞳をのぞき込むカイルの表情は戸惑いをはらんでいる。

 カイルの手がメリッサのやぼったい前髪を軽くはらう。もう、メリッサを隠すものはなにもなくなっていた。


「はじめて、明かりのある場所で見た。ラファティ殿のところでなにかあったんじゃないのなら、家族のことか? すまん、故郷を離れて一人じゃ、不安になっても当然だな。おまえが元気そうに見えたから、配慮が足りなかったな」


「ちが、う……」


 最初から、口が悪くても意地悪でも、それだけの人ではないと知っている。でもしっかりと目を見据えてそんな言葉をかけられたら、メリッサの想いは止められなくなる。

 カイルはメリッサに、そこまで配慮する立場ではないはずなのに、彼はなぜ謝罪の言葉を口にするのか、メリッサには意味がわからない。

 彼はいつもそうなのだ。ふだんはメリッサに意地悪なことを言う。でも、その言葉にはたいてい、彼女に対する心配やお節介が含まれている。そして、本当に困っているときにはどこまでも優しい。


「本当にどうした? 言わなきゃわからん」


「うっ!」


 また鱗水晶がギシギシと痛む。メリッサが服をつかみ、痛む胸もとをおさえる。


「どこか悪いのか!?」


 カイルはメリッサの瞳をのぞき込む。


「違うんです。私、もしかしたら大人の人魚になるかもしれなくて……」


「……大人?」


「でも、私はそのことを、詳しく知らないんです。お父さんは大人になったら自然にわかるって。痛くて、すごく不安でっ! いつになったら痛みが引くのかわからなくて……とっても怖い!」


「…………」


 泣いているメリッサをカイルは優しく包み込むように抱きしめる。


「すまない。こうしていたら、おまえの不安は和らぐか?」


 カイルの手が彼女の背中をさする。カイルこそが胸の痛みの原因そのものなのだから、そんなことをされても不安も痛みも増すだけだ。それなのにメリッサはカイルのぬくもりに包まれていたい、心臓の音を聞いていたいと感じた。


「あったかい、あったかいです……」


 もっと強くカイルの存在を感じたい。そう思ったメリッサは、なにかのきっかけで彼が離れてしまわないようにゆっくり彼の背中に手を回す。

「メリッサ? ……すまない」


 カイルの声はなぜか少し震えていた。広い胸に包み込まれているので、メリッサには彼がどんな顔をしているのか見えない。でも、きっと自分のことのように辛く感じてくれているのだろう。痛いのはメリッサなのになぜカイルが不安そうに声を震わせるのか、それはきっとカイルは優しい人だから。メリッサはそうであってくれればいいと願う。


「どうして、カイルがあやまるんですか? ……そんなのおかしい」


「……そうだな」


 それっきり、なにも言わない。メリッサも求めず、そのまま目を閉じて痛みに耐える。



(ああ、そうか……。私、本当にカイルのことが好きなんだ……)



 彼に惹かれていることは前から自覚していた。でも認めるのが怖かったのだ。心の中ではっきりと気持ちを言葉にすれば、急激に胸の痛みが引いていく。



 メリッサはもう自分の意志で未来を選べる存在になっていた。


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