陸の人魚は夜に出会う1
メリッサは皆が寝静まってから、こっそり窓から屋敷を抜け出した。
アルフォード邸はほぼすべての部屋から海を望める。ずっと旅をしてきて、海に飛び込もうとした直前でカイルに止められてしまったメリッサはとにかく海を欲していた。
適当な袋に着替えやタオルを詰め込んで、窓から脱走する姿はかなりまぬけだし、カイルやほかの使用人に見つかったら、かなりまずいことになるだろう。けれど、メリッサの身体は限界だったので、仕方がない。
人魚の目なら月明かりだけでも十分に周囲の様子がわかる。
誰もいない砂浜を右手に進むと岩場になっている。数時間前にメリッサが飛び込もうとした岬の下にあたる場所だ。突き出した岬の下に広がる岩場は、荷物やメリッサ自身を隠すのにちょうどいい場所だった。
大きめの岩の陰に持ってきた荷物をおいたメリッサは、眼鏡を外して靴を脱ぎ、服を着たままゆっくり海に入る。
地平線の彼方まで星が広がり瞬いている。月は高い位置に移動していて水面を照らしている。
久しぶりの海の水は、暑さが苦手な人魚の身体からよけいな熱を取りはらい、乾いた肌を
ゆらめく波に身をまかせ、ぷかぷかと浮きながら、メリッサは天上にある半分だけの月を見上げていた。そして屋敷の住人が寝静まっているのをいいことに、歌を口ずさむ。
メリッサが口ずさむのはオルシーポートの
村での思いでは苦いものになってしまったが、生まれ故郷であり、大切な友人とすごした場所であることには変わりないのだ。
「音痴な人魚ほどまぬけなものはないな」
個人所有の浜で誰も来ないだろうと思い込んでいたために、メリッサは油断してしまった。
心臓がどくんと鳴り、ゆっくりとした動作で砂浜のほうを見ると、その場所にはランタンを手に携えた青年――――カイルがいた。
「なんだ? 人間が怖いのか……。まぁ、それはそうだろうな、人間は人魚を狩る存在だからな」
メリッサは冷静だった。海の中にいるかぎり、彼女が青年に捕まることはない。彼女は人間が潜れない海の深い場所まで行けるのだ。
「まて。別に捕って食ったりしない。ほかの場所に行くのはやめておけ。そっちのほうがよほど危険だ」
諭すように言ったあと、カイルはこれ以上近づくつもりがないと証明するように、砂の上に腰を下ろす。
「おい、音痴人魚。名前は?」
「…………」
メリッサは答えもしないし、その場を離れることもしない。しない、というよりできないのだ。ナイジェルにだまされたばかりのメリッサは、人魚を捕まえない、というカイルの言葉を信じるほどおめでたい性格ではない。けれど、メリッサがへたに動けば、岩場に隠してある荷物が見つかってしまう可能性があるし、ほかの浜に行くほうが危険だという話がもっともなので、動くに動けない。海面から頭だけを出した状態で、彼女は様子をうかがうことにした。
「しゃべれない、いや話したくないのか? じゃあ、音痴人魚。おまえ、警戒心が足らなすぎじゃないか?」
「音痴じゃないです」
「なんだ、ちゃんと話せるじゃないか。名前を言いたくないのなら、そうだな……おまえのことはルーナと呼ぼう」
カイルは天上から二人を照らす月を見つめながらそう言った。
「月の女神? 似合わない名前をありがとうございます。あなたは? こんな夜更けになにをしているんですか?」
「自分の所有地でなにをしていようが俺の勝手だろう? 月を見ていたんだ。今日はとても綺麗だと、誰かさんが言っていたから」
その誰かさんというのは、おそらくメリッサのことだろう。
「所有地というのは、人間が勝手に決めただけです。海は誰のものでもないわ」
「それもそうか。人間は
意外にも、カイルは笑っている。祖母が口ぐせのように言っていたその言葉が、人間である彼の口から出たことにメリッサは驚く。
「そのおまえの調子の外れた歌。もう一度聞かせろ」
「音痴だなんて言われて歌えるわけがないです」
「まぬけな歌を聴くと元気が出る。そう思わないか?」
カイルはなぜ、一人で海へ来たのだろう。日暮れの時間も一人でこの浜に来ていた。考えても今日出会ったばかりの青年のことなど、わかるわけがないのだ。カイルにとって一人でいろいろなことを考える場所がここなのかもしれない。それを二度も邪魔したという自覚のあるメリッサはおわびの気持ちを込めて、まぬけな旋律の続きを口ずさむ。
カイルは上質な服が汚れるのも気にせず、砂に寝転がり、真上の月を見ながらメリッサの歌を聴く。
メリッサが音程を外すと、声を出さないで腹の腹筋を何度も震わせた。こっそり笑っているのだろう。
(人魚の視力を
怒りながら最後まで歌うと、カイルは寝そべったままメリッサに言う。
「人魚が船を沈めるというのは迷信だと思っていたが、案外本当なのかもしれないな……ぶっ、はははは!」
カイルが言いたいことは、メリッサの歌が下手すぎて、それを聴いた人間が
カイルは笑いながらぬれた髪をかき上げる。二十四のはずだが、ぬれた髪を
「悪かった、怒るなよ。そうだ、
この場所はカイル・アルフォードが個人的に持っている浜だ。忙しい屋敷の使用人が夜中にのんびり浜ですごすこともないし、妹のマーガレットが一人で来るはずもない。たしかにカイル以外の人間がやって来ることはないのだろう。
海や浜は誰のものでもないと言ったメリッサの言葉をすぐに忘れてしまう人間という生き物は、やはり傲慢だった。
「人間に捕まりたくないのなら、俺の忠告は聞いておけよ、ルーナ」
彼の言葉の意味はメリッサにもわかる。ここならカイル以外の人間に見つかる心配がないから安全だと教えてくれているのだ。
「そんなことを言って、あなたが私を油断させてから捕まえるって可能性もあるんじゃないですか?」
「……それもそうだ。じゃあ、せいぜい油断しないようにな」
カイルは立ち上がり、身体についた砂を軽くはらう。
「俺のことはカイルと呼べ。じゃあまたな、ルーナ」
「またな、じゃないです。さようなら」
カイルという青年はとても不思議な人だった。傲慢で、それを隠そうともしない。地位や才能に裏打ちされたものなのかもしれないが、自信家で口が悪い。でも、それだけではなくて出会ったばかりで、行き場を失ったメリッサに手を差し伸べてくれた、おそらく優しい人物なのだ。
カイルくらいお金持ちならば、人魚を殺してその血肉を金に換えることに興味がない、という可能性はある。人間に裏切られても、全ての人間が人魚の敵ではないことも、メリッサは知っている。
(そうだったら、どんなにいいだろう……)
メリッサの秘密を知っている者が誰もいないダラムコスタの街で、どこに行っても気の休まらない日々を送るのだとしたら、心はきっと疲れて削られてしまう。誰か一人くらい秘密を共有してくれる者がいたら、どんなに心強いか。彼女はそう願った。
淡い期待と、不安でざわついた心境のまま、メリッサは屋敷のほうへ帰っていくカイルのことを見つめていた。
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