陸の人魚は拾われる2
「おい! メリッサ、いるのか」
騒がしく扉の鈴を鳴らしながら入ってきたのは、二つ年上のナイジェルという名の青年だった。こんなに立て続けに来客があることはめずらしい。
「ナイジェル、どうしたの? 薬かな?」
急いで眼鏡をかけてメリッサがカウンター越しにたずねる。すると彼は一瞬だけためらうようにしながら、大きな声で話しはじめる。
「いや、薬じゃねぇ。おまえに話があるんだよ! ちょっと来いよ」
「え? 私、仕事中だし、店番しないと」
オルシーポートの漁は早朝におこなわれている。といっても、漁師は漁に出ない日中、網の補修をしたり、道具の手入れをしたりで遊んでいるわけではないはずだ。ただ、比較的時間に融通が利く彼とは違い、メリッサの薬局は営業中なのだ。
「あぁ? どうせ誰も来やしないだろ」
それはそうかもしれないが、他人から指摘されるとメリッサとしては少しだけ腹が立つ。
強引に腕を引っ張り、店の外に連れ出そうとするナイジェルにおされ、メリッサは仕方なく『休憩中』の看板を扉にかけてから彼についていくことにした。
ナイジェルが乗り気のしないメリッサを連れ出したのは、村の漁港にある古びた木製の
砂地に木のくいを深く打ち込んで作られた桟橋は、それなりに腐食していて、時々みしみしといういやな音を立てる。波は穏やかだが、停まっている船が静かにゆらめく。漁は朝早いうちに終わってしまうので、日中の浜には人がいない。
「ねえ、私泳げないから桟橋は嫌いだって知っているでしょう?」
メリッサの言葉は嘘だ。人魚が泳げないはずはない。正体を隠すためにそういうことにしてあるだけだ。
「べつに落ちなきゃいいだろ? ったく、引きこもって本ばっかり読んでやがって」
ナイジェルはふてくされたように言いながら、メリッサの腕を無理やりつかんで連れていく。乱暴なこの青年がメリッサは少し苦手だ。
「店じゃだめなの? 話ってなに?」
いい加減離してほしくて、メリッサは少し強い口調で聞く。ナイジェルは桟橋の中央でやっと歩みを止める。
「雰囲気があれだろ」
「は……?」
メリッサが意味を理解するより前に、ナイジェルは彼女の両肩を強くつかむ。漁師の青年に手加減なしでつかまれた彼女の華奢(きゃしゃ)な両肩はみしみしときしみ、痛む。
「おまえ、親父さんが留守がちだろ? 女一人で危ねぇし、俺が嫁にもらってやるから」
「…………」
言われた言葉の意味がわからなくて、メリッサはたっぷり三十秒ほど考える。
「おい! なんとか言えよ。嫁にもらってやるんだぞ! 嬉しくねぇのか?」
メリッサは人魚で、人間と結婚することなど、考えたことがなかった。おそらく兄が旅先で出会った男性の人魚にメリッサのことをすすめるのではないかと、なんとなく考えていたのだ。
人魚は、一番大切なものを捨てて、人間と同じ生き方を選ぶ者も多いのだが、メリッサにはまだそんな選択をするつもりがなかった。
「そんなこと言われても、困る。私は薬師の家に嫁ぐって、父さんも兄さんも言っていたし、急に言われても……」
「なっ!」
「それに私、泳げないし日の光も苦手だから、漁師の妻なんて無理だわ。せめてお父さんかお兄ちゃんがいるときに――――」
「それはもう言った!」
ナイジェルは怒りにまかせて大声でそう叫ぶ。
「どういうことなの?」
「おまえの親父に嫁にくれっていったら断られたんだよ! だから直接……」
ナイジェルはその話をするつもりはなかったのに、つい口をすべらせたのだろう。彼女の父に断られたのに、家族の留守を狙ってメリッサを手に入れるつもりなのだとしたら、とてもたちが悪い。
「それならよけいに無理よ。本当に困る」
「親のことなんていいんだよ! 本人同士がどう思うかだろ!」
「ええっ? だって私、ナイジェルのこと、そんなふうに考えたことないわ。結婚相手は同じ薬師っていうのは、お父さんに言われたからじゃないもの。私自身、そういう人のほうが気が合うかなって」
メリッサは変に期待を持たせることは相手に対して不誠実だと考えた。正直な言葉が男のプライドをめちゃめちゃにへし折ることもあるのを彼女は知らない。メリッサの言葉にナイジェルは顔を赤くして怒る。
「なんだと! おまえら家族は本当に! 村人もみんな言ってるぞ。いつも外から連れてきて、全然なじもうとしないって。博識ぶってバカにしてんのか?」
ナイジェルの言葉の意味はメリッサにもわかる。祖父はともかく、メリッサの父も同族の母と結婚をした。父は若いころ、今の兄と同じように行商へ行くといって何年も村を離れ、帰ってきたときには今は亡き母と一緒だった。
事情を知らない村人からすれば、村人と交わらず、外から花嫁を連れてきてなじもうとしない、浮いた存在だと思われても仕方がないのだ。
それでも、薬師として存在価値があるから、そこまで悪くは思われていないはずだし、外の人間と婚姻を結ぶことも特殊な仕事を理由に説明してきたつもりだった。だからナイジェルの言葉は少しショックだ。
「そんなこと言われても。でも、そう思っているのなら、よけいにほっといてもらってかまわないわ」
「なんだとっ、女のくせに!」
メリッサの言葉は男の神経を逆なでするだけだった。恐怖を感じて一歩うしろに下がり、彼から逃れようとしたメリッサを、ナイジェルは逃がさない。
「痛い、離して!」
「おまえなんて、どうにでもなるんだぞ……」
険しい表情で迫られても、彼女が男のものになるわけではないというのに。そして、逃がすまいとさらに距離を縮めようとするナイジェルから逃れるため、彼女はさらに一歩うしろに下がる。ずるっと足をすべらせて、一瞬の浮遊感のあと、気がついたときには海の中だった。
(ど、どうしよう!)
メリッサは予想外の事態にパニックになり、手足をばたばたとさせながらもがく。メリッサが身体が弱く、泳げないとしてきたのは大量の水を浴びると人魚だとばれてしまうからだ。
陸に暮らす人魚の足は水の中でも自由に人のそれになれる。だが、いくら努力しても自分の意思とは関係なしに水にぬれると変わってしまう部分がある。
「お、おまえ。その髪……」
水に浮かぶメリッサの長い髪はふだんの栗色から淡く変化し、光のあたり具合で何色にも見える不思議な輝きを放ちだす。そしてぬれた眼鏡の奥に輝く瞳の色も、ふだんのはしばみ色から髪と同じような不思議な虹彩に変わっていた。
二本足のまま泳いだ経験のないメリッサは、人魚とは思えないほど見苦しい泳ぎでなんとか岸までたどり着く。波打ち際で荒れた呼吸を整えていると、われに返ったナイジェルが慌ててメリッサのもとまでやってくる。
「お、おまえ……、それ、なんだ? なんなんだよ? ……まさか人魚だったのか!」
捕まったら殺されるかもしれない。メリッサは怯え、ジリジリと海の中に戻ろうとする。こうなったら、足を人魚のそれに変えて逃げるしかない。海の底に潜れば船や網を使っても簡単には人魚を捕らえることなどできはしないのだから。
「まて! 幼なじみだろ? 捕まえたりしねぇよ」
海の中へ逃げようとするメリッサに、意外にもナイジェルは優しい言葉をかける。
「本当?」
虹色に輝く瞳で彼を見つめると、彼は笑ってメリッサに語りかける。
「あ、あぁ。驚いたが。さすがに小せぇ頃から知ってる女が殺されるところは見たくねぇよ。誰にも言わねぇから、逃げるな」
「……うん!」
優しくそう告げられ、メリッサは安堵する。もちろんすべての人間がいい人だとは思わないが、亡き祖母が言っていたように、人間という存在そのものが残忍だというわけではないのだ。
ましてや彼は小さなころからよく知っている人物なのだから。
「ほら、頭隠せよ」
海からあがってもしばらくは髪の色が戻らない。ナイジェルはメリッサの頭に上着をかけて、ほかの人間に見られないようにしてくれる。
「ありがとう。上着、洗って返すね」
「ああ、それはいつでもいい」
幸いにも、ジリジリと太陽が照りつける暑い日に好んで外に出る村人はいなかった。誰にも見られずに家まで送ってもらい、彼女の家にたどり着いたときには、すっかりいつものメリッサに戻っていた。
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