第2話 春人くんの噂
西日が差し込んで、美術室の中を紅く染め始めていた。キャンバスを並べて雑談する部員たちをよそに、あたしは隅っこの席でケータイをいじっていた。机の上でキメ顔している石膏像の視線が痛い。
「なに調べてんの、
ふわっと甘い香りがして、耳元でちょっと眠そうな声がした。
ハッとして振り返ると、
艶やかな長い黒髪に、黒縁メガネ。一見、清楚な大和撫子だが、どことなく漂う色気がある。切れ長の目をふっと細めて浮かべる微笑は高校三年ながらに妖艶で、常に何かを企んでそうな人だった。
「手相占いです」と、あたしは隠すことなくケータイの画面を見せた。
「手相? そういうの興味あるんだ?」
「興味なかったんですけど……もう最終手段っていうか」
宇部先輩は、あたしの隣に座ると頬杖ついて「
「占いに頼るほど、切羽詰まってんの? 駅前になんとかの母とかいうよく当たる占い師いるよ。一緒に行く?」
「いえ、そういうんじゃなくて。手相占いなら、春人くんの手を触りまくれるんじゃないかな、て思って」
「下心しかないな。必死すぎてひくわ」
「超必死……てか、やけくそです」
「二宮は」言いながら、隣で宇部先輩がため息つくのが聞こえた。「望みが高いんだか、低いんだか、よく分からないよね。檜山くんとどうなりたいわけ? なにがしたいの? 手をつなげればいいの?」
「とりあえず……にらめっこしたいです」
「は?」
「最高です、にらめっこ。宇部先輩、春人くんとしたことあります?」
「あるわけないじゃん」
「好きなだけ、春人くんを見つめていられるんですよ。それで、最後には春人くんの笑顔が見れるんです。最高じゃないですか」
あたしは顔を上げ、春人くんを想いながら、石膏像をうっとりと見つめた。この石膏像も、春人くんがモデルだったら何百枚でもデッサンするのに。なんで、渋いおっさんなんだ。誰得だよ。てか、誰だよ、これ。
「もう、ほんと、告れ。初恋拗らせすぎて、ただの変態になってるよ。告って、気がすむまで触ってこい」
「アドバイスが雑すぎるんですけど」
「あんたが、真面目に私のアドバイス聞かないからでしょ」
メガネの奥で、宇部先輩は目をきっと薄めた。珍しく、ちょっと怒ってる?
確かに、何度、宇部先輩に「告れ」と言われたことか。そのたびに、あたしはあーだこーだ言ってはぐらかしてたんだ。
「だって」とあたしは、先輩の追及を逃れるようについっと視線を逸らした。「なんて告ればいいんですか。好き、なんてとっくに言ったし。毎朝、練習覗きに行ってて、ぶっちゃけ、部員にうざがられてるくらいなのに。春人くん、何も変わらないんですよ。好き、て言っても、超笑顔で『ありがとう、俺もだよ』とか言うんですよ。全然、本気にしてもらえないんですよ」
「なになに? コイバナ、コイバナ?」
背後からにゅっと、愛嬌いっぱいの丸い顔があたしと宇部先輩の間に割り込んできた。猫みたいに大きな目が爛々と輝いて、私を見つめている。宇部先輩と同じ三年の
「入れて入れて」と、紺野先輩は椅子を持ってきて、あたしと宇部先輩の間にねじ込んだ。結構狭いスペースだったが、紺野先輩の小柄な身体はちょこんとそこに収まった。「で、誰、誰?」
「檜山くん」
あたしの了承も得ずに、宇部先輩はさらっと吐いた。
「マジか!」と身を乗り出して、すぐに紺野先輩はあからさまに顔色を曇らせた。「檜山くんって……檜山春人?」
「そうですけど……」
暗雲立ち込める、てこういうときに使うのかな。嫌な予感がした。紺野先輩が黙り込むことって、そうそうないから。
「まじかー」ややあってから、紺野先輩はお団子の乗った頭をがっくりと垂らした。「ごめん、ニノ。あたし、聞いちゃった」
「なにを……ですか」
「あたしの友達さ、先週、檜山くんに告ったんだよね。そしたら、彼女いるから、てフラれたんだって。付き合いたてらしいよ。超可愛いんだって惚気られたって怒ってた」
申し訳なさそうにあたしを見上げ、でも、事細かに紺野先輩は教えてくれた。
「檜山くんって、そういうアホっぽいとこあるよねー」て、もうすっかり他人事で宇部先輩はケータイをいじりだしている。
「……」
頭真っ白。言葉も出ずに、あたしは固まった。まるで、石膏像みたいに。
意外と、涙とか出てこないんだ。
考えてもなかった。いや、考えたくなかっただけかもしれない。春人くんに彼女がいるかも、なんて。そりゃ、春人くんは格好いいし優しいし、彼女いないほうがおかしいくらいだよ。中学のとき、誰かと付き合ってたのも知ってる。でも、すぐ別れた、てお兄ちゃんは言ってたし。それで、安心しちゃってたのかもしれない。たった一人とうまくいかなかった、てだけで……。
「ニノ、大丈夫?」
遠慮がちに訊ねてくる紺野先輩の気遣いが、できたばかりの心の傷に滲みた。
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