第16話「知らない表情」






   16話「知らない表情」







 依央は大学生の頃に初めて会ってから、今でも何も変わっていなかった。

 何も、というのは言い過ぎかもしれないけれど、外見は変わっていたとしても、中身はそのままだった。


 自分の気持ちにまっすぐで、純粋で、笑顔が溢れている。そんな彼の周りにはいつも友達がいる。誰にでも好かれる性格、というのはこういう事をいうのだろうなと、夕映はいつも思っていた。


 


 「ここのカレーはいつ食べても美味しいですね。」

 「そうだね。私も好きだよ。」

 「先輩に会えると思ってきただけだったのに、僕もこのお店に通ってますからねー。」

 「ふふふ。私よりも常連さんになっててビックリしたよ。」



 夕映が大好きなミントココアを出してくれるカフェで待ち合わせをして、ご飯を食べていると、お店のマスターに「依央くん、いらっしゃい。」と名前で呼ばれいたのだ。すっかり仲がよくなっているようだったので、驚いてしまった。



 「あ、これお借りしてた本です。ありがとうございました。」

 「いいの。楽しんで貰えたみたいでよかったよ。」

 「本当に楽しかったです!ボロボロ泣いて最後はなんか終わるのが寂しくて。喪失感って言うんでしょうか?………そんな気持ちになりたくないから、もう本を読みたくない、って思ったりもするんですけど。本を読まなきゃ味わえない気持ちだから………ついつい夢中になってよんじゃうんですよね。」

 「そうだね。その気持ち、よくわかるよ。」



 依央がいう、本を読んだ後の寂しく、そして終わってしまうことへの喪失感は夕映にもよくわかることだった。そんな苦しい感情を味わいながらも、余韻に浸り、しばらく他の本を読めなくなるぐらいの影響をあたえる本に出会えることは滅多にないことだ。だからこそ、そういう気持ちをまた味わいたい、感情を乱すような本に会いたいと思ってしまう。

 読書好きならば、感じたことがある気持ちだと夕映は思っていた。



 「依央くんも、立派な読書愛好家になったね。」

 「そうなんですか?それなら嬉しいです!夕映先輩と同じですね。」

 「そうだね。」



 カレーを食べながら嬉しそうに笑う依央の姿は、子どものように幼かった。斎とは全く違う微笑みなのに、どちらもキラキラしているなーと考えてしまい、夕映はハッとした。

 目の前には別の男性がいるのに、何故、斎の事を考えてしまったのか。依央に申し訳なくて仕方がなかった。



 「先輩がおすすめしてくれる本はどんな話しなんですか?」

 「…………。」

 「先輩?」

 「あ、ごめんなさい。何の話だったかな?」

 「………夕映先輩、もしかして………。」



 依央は、何かに気づいたのか夕映の顔をまじまじと見てきた。斎の事を考えていたのを気づいてしまったのかと、夕映はハラハラしてしまう。

 だけれど、依央は全く違うことを口にし、夕映は驚いてしまった。



 「………緊張してるんですか?」

 「………え……なんで?」

 「僕が、夕映先輩を好きだって言うって言ったからです。」



 少し恥ずかしそうに依央が小声でそう話す。それを言われて、夕映は改めてその事を思い出した。確かに会う前は「今日は告白されに行くみたいだな。」なんて、思いとても緊張してしまっていた。けれど、その告白すると言った彼と話をしたり、そして斎の事を考えてしまっており、夕映はその時間は告白の事が頭からなくなっていたのだった。

 彼に言われて、一気に恥ずかしくなってしまい、顔が赤くなるのがわかった。



 

 「依央くん、それって本気なの?」



 夕映から出た声は、依央と同じように小さなものになっていた。

 すると、依央はさらに顔を近くしてこそこそと返事を伝えてきた。



 「はい。もちろんですよ。後で言いますので、ドキドキしててください。」

 「依央くん………それもう言ってるようなものだよ。」



 昨日も感じた事だけれど、予告するのはずるい、と夕映は思う。

 けれども、それを聞いた彼は、ただニコニコと笑うだけだった。



 


 その後、夕映と依央は街を歩いて、大きな本屋さんへ向かった。

 夕映は彼のために下調べをした本の事を、いろいろと教えた。依央は「それも楽しそうですねー。」とか「いっぱい本を買うなら送ってもらおうかなー。」など、期待した様子で夕映の話を聞いていた。


 本屋についてからは、依央がお気に入りの作家さんのコーナーの前に立ち2人で「これは………。」などと、本の話をしながら長い間過ごした。自分の好きな本を見ながら、話をして盛り上がれる。それは、夕映にとっても特別な事で、すごく楽しかった。


 その他にも、夕映がおすすめした本を依央は次から次へとカゴの中に入れており、夕映が気づいた頃には十数冊にもなっていた。

 


 「結構重くなったんじゃない?」

 「そうですね………いろいろ入れすぎたので、厳選しなきゃですね。あのテーブルがあるスペースで少し読んでみます。」

 「わかった。じゃあ、少し休憩しようか。」



 長い時間本屋をフラフラしていた2人は、座って本が読めるスペースを見つけたので、そこに並んで座った。そして、2人で選んだ本を見てから依央が購入するか決めていた。

 いろいろ話して決めたが、結局はほとんど全ての本を買うことになり、数冊そのまま持ち帰る以外は、自宅に届けてもらう事なった。



 そして、本屋を出るときだった。



 「あ、ちょっと待ってください………。」

 「ん?どうしたの?」

 「これ、夕映さんが翻訳した本じゃないですか?……ここに名前が。」

 「あぁ。そうだね。そういえば、この本の発売日最近だったかも。」



 店に入ってすぐの新刊コーナーに、夕映が翻訳した単行本が置かれていた。表紙にも小さく「水無瀬ゆえ」と書かれていた。本名のままだが、名前だけ平仮名標記にしているのだ。



 「見つけてよかったです!これ、買ってきます!」

 「え………。」

 「夕映さんの本ですよ。早く読みたいです!」



 言い終わる前に、依央は本を持ってレジに走って行ってしまった。



 「……私が書いたわけじゃないから、私の本じゃないんだけどね。」



 一人きりになってしまった夕映は、そう呟きながら苦笑した。

 

 翻訳家になって、自分の名前が表紙に出ている本は沢山ある。けれど、自分が作り上げたものじゃないのに、表紙に名前があるのは不思議だった。

 本来ならば、名前なんて載せなくてもいいと思っていた。けれど、斎にその話をすると、「翻訳をしないと他の国の人に読んでもらえないだろ。作者が出来ないことをしたんだから、名前が載るのは当たり前の権利だろ。」と優しく言ってくれた。


 自分の考えを押し付けるのではない、教えてくれるように優しく語りかけてくれた彼の言葉は、夕映の心にスッと溶けていくようだった。

 それから、自分の名前がある本を見ると、自信を持ち、誇らしく感じるようになったのだ。


 夕映は、自分が翻訳した本を手にとって、しみじみとした気持ちでその本を眺めた。

 そして、また斎の事を考えてしまう自分がいることに気づいた。けれど、それは彼との記憶。彼との濃い時間は、忘れることなど出来るはずなどないのだなと、夕映はしみじみと思った。


 翻訳家になりたいと彼に言ったときも「おまえならなれる。」と言って背中を押してくれたのだ。自分には味方がいる。それに、斎が自信を持ってなれると言ってくれた事が、とても大きな力になったのを感じたのだ。



 「夕映さん、お待たせしました。」

 「………。」

 「………夕映さん?」

 「あ、ごめんなさい。少し思い出しちゃってて。」

 「思い出、ですか?」



 心配した顔で夕映を覗き込む依央に、夕映は素直に答えた。



 「翻訳家になろうって決めたときの事だよ。悩んでたけど、背中を押してもらえて頑張ろうと思えたらなぁーって。」



 懐かしい気持ちになったまま依央にそう伝えると、夕映は当時を思い出して、笑顔になってしまう。

 いつもの依央ならば、「そうだったんですね。」と言って、微笑み話を聞いてくれると思っていた。

 

 けれど、今日の依央は違った。



 悲しげだけれど、何故か鋭い目線で夕映が持っている本を見つめていたのだ。

 それを見て、夕映は彼が怒っているのだとわかった。

 夕映が、依央のそんな表情を見るのは初めてだった。




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