第5話「名刺とカードキーと、」
5話「名刺とカードキーと、」
静かな機械音だけが響いていた。
そこに、自分のこもった声と水音が聞こえた瞬間、体がビクッと揺れてしまう。思わずキスを与えてくる斎のスーツを掴んでしまうと、斎のキスは更に深くなった。
ポンッと、エレベーターに音が聞こえる。
すると、離れがたそうに斎が唇を離し、そして耳元で「行くぞ。」と囁いた後、夕映の手を取った。
エレベーターを降りると、そこは明らかに普通の階とは違う豪華な作りになっていた。
夕映も高級なホテルには何度か泊まった事があるが、ここはそれ以上だとわかった。
そして手を繋いでる彼の手がとても熱くて、今から何をされるのか、斎の体温でもわかってしまい、夕映はどうしていいのかわからなかった。
彼と一緒にいたい。
でも、こういうのを望んでいるわけではない。
夕映はほろ酔いの状態でも、そう思いその場に留まった。
急に止まってしまった夕映に驚き、斎は振り向いた。
「なんだ?どうしたんだ………気持ち悪いとか?」
「違う………。私、帰る。」
「は?……なんでだよ。」
「だって、斎とは友達なのに……。」
そうだ。
彼とはもう恋人ではないのだ。
それなのに、何で手を繋いでホテルなどにいるのだろう。
斎は、どうしてここに誘ったのだろう。
…………都合のいい遊び相手、なのだろうか。
元恋人で、久しぶりに飲み会で会って話して、お酒によって一晩を共にする。
よくある話ではないか。
酔っていた頭が少しずつ覚めて、冷静になっていく。
この甘い熱の誘惑に惑わされては、ダメだ。
そう思い、夕映は彼の手を振りはらった。
「おい……。」
「ごめんなさい。あの、久しぶりに話せて楽しかった。……おやすみなさい。」
「待てって……。」
夕映は小さく頭を下げた後、彼の顔を見ることが出来ずに、そのままエレベーターへ戻ろうとした。
けれど、俺様で強気な彼がそう簡単には帰してくれるはずもなかった。
再び、腕を捕まれて体を戻されてしまう。
強く引かれたからか、またよろけて彼の胸に体がぶつかった。
今度は、強くではなく、ただ片手で肩を夕映に触れるだけだったけれど、また彼の胸へと戻ってしまった。
「斎、離して……。」
「そんなに強く抱きしめてないだろ?帰りたいなら帰れるだろ。……そうしないのは、何でだ………夕映。」
「…………それは。」
自分から抱きしめておきながら、そういう彼はとても怒っているような口調だった。
ホテルに連れ込みたいなら力ずくでも引っ張っていかないのは、同意の事と言わせたいのだろうか。
そう、聞きたいのに………聞けなかった。
彼の答えが怖かった。
「俺たち、やり直さないか?俺と、2回目の大人の恋愛をしてみないか?」
「え…………。」
予想外の言葉に、夕映は彼の顔を見つめて。すると、「やっとこっちを見たな。」と、少し睨み付けるように斎がこちらを見下ろしながら言った。
「なり直さないかって……なんで。」
「話してみてやっぱりおまえがいいなって思ったから。………あの時もおまえが別れたいって言ったから別れただけだったしな。」
「それは、そうだけど……。」
「正直、女はいたけど恋人じゃないし、おまえと付き合うなら切る。だから、おまえも男がいるなら別れて、俺と付き合えよ。」
あまりに突然な事に驚きで言葉が出てこなかった。
恋人としてやり直したい、なんて久しぶりに再会して言われるとは誰も思わないだろう。
唖然としながら何も言わずに彼をまじまじと見つめると、無言が気にくわないのか、斎は指でおでこを押してきた。
「黙るな。返事をしろ。」
「だって、急すぎる。」
「無言は肯定なんだな。」
「そ、それは違う!」
夕映は斎の体を押して、彼の腕から逃げた。
そして、まっすぐと彼を見つめた。
離れたところから見ても彼の瞳は、宝石のように輝いていて、その美しさに魅了されてしまいそうになる。
視線を逸らそうとしても、逸らすことなんてできないのだ。
彼はそれをわかっているのか、斎も視線をずらす事なく見つめてくる。
緊張した雰囲気の中で、夕映は口を開いた。
「そ、そういうのは………酔ってない時に言って。」
「………酔ってるのはお前だけだろ。俺はあれぐらいでは酔わない。」
「でも、お酒は入ってるでしょ。……また付き合い直すなら、ちゃんと告白してからにして。」
「…………はぁー……。ったく、めんどくさい奴だな。」
そう言ってため息をつく斎だけど、夕映にはどこか楽しそうに見えた。
「でも、まぁ……そういう所は、おまえらしいな。」
「………そう、かな。」
「あぁ。………じゃあ、今度酔ってない時だったらいいんだよな。」
「そ、それは………。」
「楽しみにしてる。」
そういうと、斎はこちらに近づいてきて、夕映の手を取った。
すると、手のひらに何かが置かれたので、夕映は手を見るとそこには、カードキーが置かれていた。
「これ……。」
「今から帰るの危ないだろ。それに、おまえと泊まれないなら、ここのホテルに泊まる意味ないし。……おまえにやるよ。」
「え、でもここってスイートだよ………。」
「あと、これな。」
夕映の言葉を無視して、斎はそう言って、スーツのポケットから名刺を1つ取り出して、カードキーの上に重ねた。
「それ、オフ用の連絡先書いてあるから連絡しろ。じゃあ、またな。次に会うとき、いろいろ期待してろ。」
ニヤリと笑い掛けると、斎はさっさとエレベーターに乗っていなくなってしまった。
夕映は彼に何も言えないまま、ただカードキーと名刺を握りしめながら、閉まったエレベーターをしばらく眺めるしか出来なかった。
豪華な部屋と夜景を一人占めしながらも、夕映の気分は晴れなかった。
気分を上げよう、大きな浴槽に入って体を温めても、考えるのは斎の事ばかりだった。
大学を卒業してから何も連絡してこなかったのに。ジムで私がいるのをわかっていたのに、声を掛けても来なかったのに。
少し話しただけなのに、よりを戻そうと思うのだろうか。
そんな文句をブツブツと頭の中で繰り返しながら、夕映の胸が自分でも不思議なぐらいドキドキしているのだ。
遊びじゃなく、恋人になって欲しいと告白された。そして、断ってもまた会いに来てくれるとも言われた。
それが、嬉しかったのだ。
自分の気持ちはそうなのに、頭では「それでいいの?」と、冷静に考えてしまう。
あの頃、夕映は斎が大好きだった。
けれど、別れを決めたのだ。
それぐらい、悲しんだのに。また、彼と一緒にいてもいいのだろうか。
自分は許しているのだろうか。
そう思ってはため息しか出なかった。
大きすぎるベッドに入って、貰った名刺を見つめる。
そこには会社の名前だけで、社長とも何も書いておらず、ただ「九条 斎」とあった。彼らしいなと思いながらも、その名前の下にある連絡先に触れながら、目を瞑った。
「斎………また、好きになってもいいのかな。」
そんな言葉を呟いたのを、夕映自信も気づかないまま、眠ってしまったのだった。
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