10


 佳奈と友人は家に入るなり部屋にこもり、あれからずっと賑やかな音楽と笑い声を響かせてこの時間でも騒いでる。二人が部屋から出て来る気がなさそうなことにホッとしたら、なんだか疲れて沙希もそのまま部屋にこもってしまった。

 考えることはたくさんあった。さっき出会った男の子たちはなんで沙希のことを知っていたのだろうか。それに、この前会った時は奇妙なくらい嫌な感じがしたのに、今日は触れられた瞬間は妙にすっきりとした気持ちがした。不思議と久しぶりに前向きな気持ちになり、もう意味はないかもしれない、と思いながらも今日演奏するはずだった部活の課題曲のおさらいをする気になった。

「ちょっとー!なんでお風呂沸いてないのよ」

 沙希が部屋で課題曲の楽譜の読み込みをしていると、お風呂場から悲鳴のような嘆き声が聞こえてきた。様子を見に行くと母親が膨れた顔で髪をバスタオルで拭いている。

「お母さん、帰ってたんだ」

「帰ってたんだ、じゃないわよ。ちゃんとお風呂入れておいてくれる? 家にいるんだからそれくらいやってくれてもいいでしょ? シャワーだけじゃ疲れとれないんだから」

「でも、」と続けた沙希の声はドライヤーの音にかき消される。濡れた髪を軽く乾かした母は「お風呂よろしくね。もう、先にご飯にするわ」と言い捨ててバスルームを去っていった。沙希は小さくため息をついて、お風呂を軽く流してからスイッチを押す。コポコポと溜まりだす湯をぼんやりと見ていると、今度はキッチンの方から「ねー!ごはんどこよ」と苛立ちを隠そうともしない声が聞こえて来た。

「ごめん。佳奈たちファーストフードで夕飯済ましたっていうから。私も部活の課題曲の練習に夢中で……」

 母親の盛大なため息が沙希の言葉を叩き打つ。沙希の説明を正しく言い直させるように、髪をかきあげながら母親はゆっくりと口を開いた。

「つまり、佳奈たちに夕飯としてファーストフードを与えたわけね」

「私があげたんじゃなくて……」

 母親が言い訳はいらない、と言いたげに眉をひそめる。しぶしぶ頷く。

「で、浮いた時間で好きなことして遊んでいたと」

 母親は、気の毒なものを見るような目で沙希を眺め、長い溜息を吐いた。そして、無理やり作った微笑みのようなものを浮かべてうなずいて見せた。

「あのね。別に私は、遊んじゃダメって言っているわけじゃないの。わかる?」

 わかる? でもあなたには難しいかしら? 本当はそう言いたげな声音だった。沙希は母の言葉が自分の中に積もっていくのを感じた。

「でもね。ちゃんと決めた家事はやってほしいだけ。もし、それが難しいんだったら、部活なんてやめなさい。大会の送り迎えがあるとか前に先生も言ってたけど、お母さん、もう沙希のわがままにそこまで付き合ってあげられない」

 頭ががらんどうになった。

 なんの言葉も沙希の中から浮かんでこなかった。

 全部がなくなる前に百合の笑顔が浮かんで消えた。

 どうやって部屋に戻ったのか、記憶がない。部屋のドアを閉じた瞬間に、涙があふれ出た。慌てて口を押さえる。誰にも嗚咽を聞かれたくない。この家の中にいたくない。そして、誰かが沙希を呼ぶ声が聞こえた気がした。放り出したままの学校鞄。唯一の沙希の理解者だというように本がころがりおちる。手にとった本がこれ以上ないくらいに手に馴染む。自分の一部に違いないと思った。ゆっくりとページをめくる。物語があふれ出てきた。

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