七瀬と光一郎は沙希の町にある公園のブランコに腰掛けていた。辺りはしんと静まり返っているけれど、家々からの明かりはあふれ出ている。その光の中には住んでいる人たちがいて、それぞれの人生を紡いでいるのだろう。だけど、知り合うことのない人の人生はテラリウムのようなものだと七瀬は思う。物語のように前を通り過ぎていくだけのもの。そのつもりだったのに。七瀬は先ほど先を掴んでしまった自分の手を眺める。

「いやぁ〜、やっちゃいましたな七瀬くん」

「……言うなよ」

「これで蟲を取り逃がしたりしたら店主に呪われるんだろうなぁ」

「……お前、楽しそうだな」

 七瀬はため息をついて顔を上げる。見上げた空は限りなく広がり、徐々に濃い青が深まっていく。遠く霞んで見える星の瞬きも次第にその群青色の膜の向こうから浮き上がってきているように見えた。光一郎はほとんど頭が地面に着きそうなくらいに背中を反らせた状態で器用にブランコを漕ぎ出した。キコキコという軋む金属音が鈍く響く。

「で、『物語』はどんな感じ?」

「ほとんど完成してた」

 沙希を通して七瀬に流れ込んできた蟲が紡いだ物語は、美しい夜空に彩られた『続篇』だった。銀河を追い求めるジョバンニの震えるような切望がそこにあった。ジョバンニが目指す場所、そこは沙希が向かおうとしている場所でもある。七瀬はブランコの手すりをぎゅっと強く握りながらつぶやいた。

「今夜だ」

 どうしたらいいのかまだ考えがまとまらない。

 光一郎はそんな七瀬の様子に構う素振りを見せず、気持ちよさそうにブランコを漕ぎ続ける。

 夜によく馴染む声で光一郎が囁いた。

「結構、幸せっちゃ幸せだったなぁ。蟲に囚われた世界」

 七瀬が光一郎を振り返る。まっすぐに前を向いたままの彼の横顔だけではどんな表情をしているのかつかめなかった。

「……後悔してるのか?」

 自分で尋ねたことながら、七瀬はその言葉をすぐに取り消したくなった。自分の考えの足りなさを悔いる。

「なーにをぉ?」

 光一郎は七瀬を振り向かずそう言葉を返した。初めて彼に会った日のことが七瀬の脳裏をかすめる。店主の隣に立つ表情のない少年を、七瀬の祖父がそっと抱き寄せたそれほど遠くはない日のことを。光一郎の問いに答える言葉を持たなかった七瀬はゆっくりと首を振る。さほど答えを期待していなかったのだろう。光一郎は雰囲気を変えるように「よーいしょ」と、ブランコから飛び降りた。

「七瀬のじいちゃんには世話になったからなぁ。それに沙希ちゃんも可愛かったし。特別にこの僕が力を貸してあげよう」

 光一郎は満面の笑顔を七瀬に向けた。彼に残る深い傷跡のようなものを何重にも覆うシェルターのような微笑み。この笑顔を見ると七瀬はいつも思う。観察することしかできな自分は、本当は踏み込んではいけない場所にいるのではないだろうかと。

 光一郎は七瀬の様子に構わず、

「物語には物語で対応やで」

 と言いながらあの紙を丁寧に折りたたんでいく。

「ようは、蟲に物語が終わったと思わせなきゃいいんよ」

 するすると折りたたまれていくその形を見て、なるほど、と七瀬は思った。蟲はすべての物語を語りつくした時に、宿主を連れていく。物語を引き延ばすことができれば救うことができるかもしれない。

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